『天武紀』には「献杖」という儀式に関する記事があります。
「(六八九年)三年春正月甲寅朔乙卯条」「大學寮獻杖八十枚。」
この「献杖(八十枚)」という儀式は、元来「中国」の歴代王朝において「宮廷行事」とされていた「桃」の木から作った「杖」により「悪鬼を祓う」儀式を「正月卯の日」に行なっていたことのいわば模倣であり、輸入であると思われます。
ただし『延喜式』に拠ればこれは「曽波木」(海石榴)の木で作ったものとされます。
「曾波木[そばのき](カナメモチの古名か)
(「大舎人寮」の項)
「凡正月上夘日供進御杖。其日質明。頭将舎人候承明門外。舎人叫門曰。御杖進牟止大舎人寮官姓名門候止申。訖掃部寮設案於中庭。頭以下舎人以上各執杖分為両行。入至案下立。/去案/三尺。
頭進奏曰。大舎人寮申。正月能上夘日能御杖仕奉弖進□良□久乎申給波久登申。勅曰置之。属以上共称唯。随次相転置案上。畢即退出。其杖曽波木二束。比比良木。棗。毛保許。桃。梅各六束。/已上二株為束。
焼椿十六束。皮椿四束。黒木八束。/已上四株為束。
中宮比比良木。棗。毛保許。桃。梅各二束。焼椿。皮椿各五束。/但奉儀見/両宮式。
拭細布四丈五尺。裹紙五百〓張。木綿六斤。木賊十五両。十二月五日申省。」
ここでは「曽波木」とされ、その直後に出てくる「椿」とは区別されているようです。さらに「桃」も別にありますから、この「曽波木」というのは「石榴」を指すものと見るのが通例のようです。つまり「石榴」が「桃」の代用をしているとみられるわけです。
さらに「延喜式の別の部分には以下のようにあります。
(「兵衛府」の項)
「凡正月上卯。督以下兵衛已上。各執御杖一束。次第参入。立定佐一人進奏。其詞曰左右兵衛府申久。正月能上卯日能御杖仕奉弖進良久登申給波久登申。勅曰置之。医師已上共称唯。献畢以次退。其御杖榠(和名カラナシ此樹宜作杖見在東大寺云々)■三束。/一株為束。
木瓜三束。比比良木三束。牟保己三束。黒木三束。桃木三束。梅木二束。/已上二秣為束。
椿木六束。/四株為束。
中宮。東宮宮別榠一束。/二株為束。
木瓜二束。比比良木二束。牟保己一束。黒木二束。桃木三束。梅木二束。椿木二束。並各長五尺三寸。」
ここでは「榠(和名カラナシ)」が挙げられており、やはり「椿」とは別物とされていたようです。ただしこの「榠」については「木瓜」と同じという説もありますが、上記中には別に「木瓜」があるため、それとは別と思われます。ただし、いずれも霊力があるとされる「桃」ではなかったものであり、ここでもやはり「石榴」が代用されたのではないでしょうか。それは「石榴」にも「桃」同様の「霊力」を認めたからに他なりません。
そもそも「桃」に「悪鬼」を祓う力があるという考えは「イザナギ・イザナミ神話」に出てくるものが広く知られています。「イザナギ」は亡くなった「イザナミ」に逢うために「黄泉の世界」に行き、そこで「タブー」を破って「イザナミ」のありのままの姿を見たために、悪鬼となった「イザナミ」に追われることとなります。その際「桃」を投げつけて難を逃れたと言う事が書かれています。この段階では「桃」が主役ですが、「景行紀」になると「土蜘蛛」と戦うために「海石榴」で「椎」を作ったという記事が出てきます。
「(景行)十二年。…
冬十月。到碩田國。其地形廣大亦麗。因名碩田也。碩田。此云於保岐陀。到速見邑。有女人。曰速津媛。爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言。茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。又於直入縣禰疑野有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰國摩侶。是五人並其爲人強力。亦衆類多之。皆曰。不從皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇惡之不得進行。即留于來田見邑。權興宮室而居之。仍與群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢將隱山野必爲後愁。則採『海石榴』樹。作椎爲兵。因簡猛卒。授兵椎以穿山排草襲石室土蜘蛛。而破于稻葉川上。悉殺其黨。血流至踝。故時人其作『海石榴』椎之處曰『海石榴』市。亦血流之處曰血田也。」
ここに出てくる「海石榴」という表記は「椿」をあらわすものと考えられています。但し「椿」という漢字は『書紀』には現れません。『風土記』の中でも『常陸国風土記』及び『出雲風土記』には現れるのが最も早いものです。
通常「椿」という漢字は国字であり、後に作られたと思われていますが、最も考えられるのは「天武朝」の以下の記事でしょう。
「(天武)十一年(六八二年)…三月甲午朔。…丙午。命境部連石積等更肇俾造『新字一部卅四卷』。」
この時点で漢字習得の発展として自らの発案で漢字を「創作」したというわけですが、実際には同じ漢字はすでに(中国に)かなりあったもので、それについて知識が不完全であったことを示します。そのことは逆に言うと漢字伝来からそれほどの時間が経過していないような雰囲気を感じさせるものであり、七世紀後半というよりもっと古いという可能性も考えられるところです。この中に「椿」という字があった可能性は強くその時点以降「椿」という漢字がある特定の樹木の名称として使用され始めたことを意味すると思われます。
この「椿」はもともと中国にもあるもので、それを当時の「倭国」では知っていなかったということとなりますが、古典である「荘子」に「八千歳の仙木」として出てきます。
「倭国」において「ツバキ」という木に「椿」という漢字を当てたのはその「常緑」であることなどからと思われますが、そのことが「八千歳の仙木」というイメージと結びついたものと思われ、そのような知識によって「椿」という漢字を使用し始めたとすると、日本人というより渡来系の人達によるものかも知れません。
しかし、後になると上の記事のように「海石榴」という漢字が当てられ始めます。この「海石榴」に使用されている「石榴」はいわゆる「ザクロ」であり、「ツバキ」とは本来異なりますが、見た目(花の形と色)などが非常によく似ており、そのことからそれまでの「椿」から「(海)石榴」という表現に変わったと見られますが、そのような変化もまた、新来の渡来人ないしは彼等の影響を受けた日本列島の人間が主役であったと思われます。そして、それはその当時の中国の最新の知識であったものでしょう。
つまり、『書紀』などでは「椿」表記はなく「海石榴」表記があるわけですから、一見「椿」に先行して「(海)石榴」という漢字があったかのように思われるわけですが、『書紀』の編纂時期や『隋書』を踏まえた「元明の詔」との関連を考えると、元々「椿」という字の存在が先行すると考えられ、それが当時「ツバキ」に充てられていたと考えざるを得ません。それは「石榴」という言葉(文字)が「西域」から「唐」に伝わった後出的なものであると考えられていることと関係しています。
「唐」の時代には、その「西方」や「南方」(主に中近東諸国か)では「石榴」(ザクロ)は「ブドウ」などと並び「生命力」の象徴とも考えられていたものです。そのような知識が「唐」にもたらされたことと、日本で「ツバキ」を「(海)石榴」と表記するようになることが強く関連していると考えられます。
「唐」との交流から得た新来の知識によって「言い換え」「書き換え」が行なわれたものと考えられ、その表記の裏に「遣唐使」や「渡来人」などの存在の影響が強く感じられ、「八世紀以降」に言い換えや書き換えが行われたことを示唆しています。
もちろん、その根底には「桃」や「椿」と同様の「破邪」の力が「海石榴」という木にあるという理解があったものと思料されるものです。(『和名抄』でも「海石榴」という表記の方がフォーマルであるとされており、「国字」が公的文書などには用いられず、その位置が低いことを示しています。)
ただし、この「献杖」の儀式については、「唐」以前の歴代中国王朝でも古くから行われていたという儀式ですから、「桃」の代わりに「海石榴」の木を使用すること、後に用語としても「海石榴」に変えられていたとしても、儀式そのものの導入時期として「唐代」以降であるとはいえないこととなります。
逆に言うと「唐」においてもこの儀式ではあくまでも「桃」の木を使用していたわけですから、この儀式そのものに「西域的」要素が混入していたというわけではないと考えられ、「倭国」においては「桃」の代わりに「椿(ツバキ)」を使用して行なわれていたものが、その後その表記が「海石榴」へ改められたということとなると思われます。そう考えれば、この「献杖」という儀式の導入もそれほど新しくはない(少なくとも後代の偽入ではない)と考えられますが、そのような「唐」の儀式の導入などが図られるというようなことは「唐」との関係が安定していた時期にこそふさわしいと考えられ、それを考慮すると「市」設置による交易の開始とそれに伴う「無文銀銭」の利用開始などと同様の理由により、「初唐」の時期が相当すると考えられます。それは「此の後遂に断つ」とされる「高表仁」来倭以前であるという可能性が高いと思料されますが、(この年次については「六四一年」が推定されますが)他方「六四八年」に「新羅」を通じて国交を回復した時点付近にそのタイミングを見ることもできるかも知れません。
この時点で「高表仁」に関するトラブルに対する謝罪の表明と同時に唐の制度の導入を行なったという可能性も考えられ、「暦」などの導入と共に「儀礼」に関することも取り入れられるようになったという可能性も考えられます。
(この項の作成日 2013/02/14、最終更新 2020/12/29)