ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:天武紀の諸改革について:

新羅王子「忠元」の来倭


 『天武紀』には「新羅王子」忠元が「大監」等軍事官僚を引き連れ来倭したことが書かれています。

「(天武)四年(六七五年)二月乙亥朔是月条」「新羅遣王子忠元。大監級■金比蘇。大監奈末金天冲。弟監大麻朴武麻。弟監大舎金洛水等。進調。其送使奈末金風那。奈末金孝福。送王子忠元於筑紫。」

 ここに出てくる「栗隈王」は「難波王(皇子)」の子供とされています。この「難波皇子」は「押坂彦人大兄」の異母弟とされており、「六世紀末」に起きたと思われる「対守屋戦」に参戦した記事があります。しかし、その記事以降全く見えなくなりますから、通常はこの戦いで「戦死」したと考えられているようです。しかし、それでは、彼の子供達とされる「栗隈王」や「石川王」の死去した年次などを考えると「時代」が合わないという指摘があり、これは何らかの錯誤が『書紀』にあるとされています。
 確かに「難波王」が「五八七年」という時点で死去していたとして、この時点で既に「栗隈王」達が全員生まれていたとすると、『書紀』に書かれた年代には百歳になるほどの長寿になると共に、「大宰」や「留守司」という現役の官人として活躍してることと矛盾するのは明らかです。
 これについては「大俣王」という人物が別にいて、彼は「難波王」の子供であり、その彼の子供達が「栗隈王」達であるという考え方もあるようですが、それでも「大俣王」の事跡が特に重視されているわけでもないという点は変わりありません。不審は変わらないわけです。(また系図の研究からはこれは否定されているようです)

 これは実際には「難波王」の時代が下るか、「栗隈王」の時代が上るかいずれかが「真実」ではないかと考えられます。つまり、ここでは(ちょうど「三十五年遡上」のように)『書紀』の記事に何らかの「改定」が行われている可能性が強いと考えられ、干支一巡(六十年)移動の可能性が高いと思料します。
 つまり、「難波王」が「阿毎多利思北孤」の時代の人物であり(これは『書紀』の記述通り)、彼の子供という「栗隈王」達が「七世紀初め」から「半ば」という時代の人物達であったという可能性が高いものと推量され、その場合「難波王」の子供達(「栗隈王」「石川王」「高坂王「稚狭王」「三宅王」)がいずれも「高位」にあり、「惣領」「太宰」「留守司」など各地の要所の軍事、民政の責任者の座にいることは、そもそも「父」である「難波王」の地位がかなり高かったことを推定させるものであり、彼が「弟王」として「皇帝」の地位にいた言う推測と整合する事となります。
 そう考えるとこの「新羅王子」の「来倭」記事は『天武紀』の記事とは言えなくなり、実際には「七世紀前半」の記事ではなかったかと考えられる事となりそうです。
 その推測が正しいとするとこの時点で「新羅」から「王子」を初めとする重要人物が派遣されてきていることとなりますが、それにはどのような理由があったと考えられるでしょうか。
 それに対する答えとしては、「隋」と戦ってこれと拮抗する軍事力を示した「高句麗」や、それと呼応して拡張的行動に出ていた「百済」に対する「脅威」が背景にあるという可能性があるということが挙げられます。
 「高句麗」は「隋」と戦闘を繰り広げた結果、(双方共)疲弊しましたが、それが遠因となって「隋」は「李淵」に代表される勢力により打倒されることとなり「唐」が建国されることとなったわけです。半島ではこの間隙を縫って「百済」がその勢力を伸ばし始め、「新羅」はそれに対抗して「唐」に「勢力」支援の使者を派遣しています。
 『三国史記』「新羅本紀」によると「真平王四十五年」に「唐」に使者を派遣し窮状を訴えています。

「三国史記新羅本紀」「(真平王)四十五年…冬十月 遣使大唐朝貢 百濟襲勒弩縣」

 この記事は「六二三年」の事と考えられますが、「新羅」はそれと同様の時点付近で「倭国」にも使者を出したと言うことが考えられます。つまり「唐」に対しては「援軍」つまり「高句麗」に対する影響力を行使して欲しいとの考えであり、「倭国」には「百済」に対して影響力を行使させようという計画であったのではないでしょうか。
 そして、推測によれば、その際に「代償」として「銀銭」を多量に「調」として貢上したものとみられ、これが「無文銀銭」となって国内に流通することとなったのではないかと思料します。

 このことは上の『天武紀』記事で「大監」と「弟監」という役職が書かれている事からも推測できます。この役職は「真平王」の時代に各省庁に置かれたものです。

「(真平王)五年 春正月 始置船府署 大監・弟監各一員」
「(同)四十五年 春正月 置兵部大監二員…」
「(同)四十六年 春正月 置侍衛府大監六員 賞賜署大正一員 大道署大正一員」

 この「大監」と「弟監」は各官庁における「監査役」つまり業務が正常に行われているか等のチェックをする役目の人員とその補佐であるらしく、ここでは「外交交渉」という非常に難しい役目ですから、交渉の内容を逐一「新羅」の「国内法」等に照らして判断するという役目を担っていたものと思われます。またこの場合「官庁名」はないものの、「倭国側」の人員との対応から考えると、「新羅」における「兵部」に所属する「大監」と「弟監」であったという可能性があるでしょう。

 『三国史記』によれば「兵部」に「大監」が設置されたのは上に見るように「真平王四十五年」(六二三年)の正月のこととされていますから、上の記事はそれ以降のことと考える必要があることとなります。


(この項の作成日 2013/06/07、最終更新 2014/12/03)