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「薪新」記事について


 Eの「進薪」は「宮廷」で使用する「薪」を「百官」が献納するというもので、中国の先例を導入したものと考えられます。

「進薪」記事は以下の「四件」です。

「(天武)四年(六七五年)春正月丙午朔戊申条」「『百寮諸人。初位以上進薪。」
「(天武)五年(六七六年)春正月庚子朔甲寅条」「『百寮初位以上進薪。』?日、悉集朝廷賜宴。」
「(持統)三年(六八九年)春正月甲寅朔戊辰条」「『文武官人進薪。』」
「(持統)四年(六九〇年)春正月戊寅朔壬辰条」「『百寮進薪。』」

 この「進薪」は「大嘗祭」などの「夜を徹しての儀式」の際の「かがり火」などの燃料としてのものとされていますが、発祥の地である「中国」の歴代王朝においては、このような「宮廷儀式のために薪を集めてくる」というのは「鬼薪」と呼ばれ、「罪人」に対する刑の一種でした。それをこの時以降の「倭国」では「百官(諸官寮)」の義務としていたものです。つまり、そもそもこの「進薪」という儀式はその中に「服従」と「奉仕」という意義を含んでいたものではないかと考えられるのです。また「負薪」という表現もあり、それは「罪人」と共に「賤人」をも意味していたものでした。

「惠長於思察。雍州廳事,有燕爭?,?已累日。惠令人掩獲,試命綱紀斷之,並辭曰:「此乃上智所測,非下愚所知。」惠乃使卒以弱竹彈兩燕,既而一去一留。惠笑謂吏屬曰:「此留者自計為?功重,彼去者既經楚痛,理無留心。」羣下伏其聰察。人有負鹽『負薪』者,同釋重擔,息於樹陰。二人將行,爭一羊皮,各言藉背之物。惠遣爭者出,顧謂州綱紀曰:「此 羊皮可拷知主乎?」羣下以為戲言,咸無答者。惠令人置羊皮蓆上,以杖?之,見少鹽屑,曰:「得其實矣。」使爭者視之,『負薪』者乃伏而就罪。凡所察究,多如此類。由是吏民莫敢欺犯。」(『魏書/列傳 凡九十二卷/卷八十三上 列傳外戚第七十一上/李惠 從孫侃晞』)

「永平初,東平王蒼以至戚為驃騎將軍輔政,開東閤,延英雄。時固始弱冠,奏記?蒼 曰:將軍以周、邵之コ,立乎本朝,承休明之策,建威靈之號,昔在周公,今也將軍, 詩書所載,未有三此者也。傳曰:「必有非常之人,然後有非常之事;有非常之事, 然後有非常之功。」固幸得生於清明之世,豫在視聽之末,私以螻?,竊觀國政,誠美將軍擁千載之任,躡先聖之蹤,體弘懿之姿,據高明之?,博貫庶事,服膺六 ?,白K簡心,求善無?,採擇狂夫之言,不逆負薪之議。《負薪,賤人也。三略曰「負薪之諾,廊廟之言」也。》」(『後漢書/列傳 凡八十卷/卷四十上 班彪列傳第三十上/班固 上』)

 また以下のように「小人」を意味する場合もあったようです。

「…蒼在朝數載,多所隆益,而自以至親輔政,聲望日重,意不自安,上疏歸職曰:「臣蒼疲駑,特為陛下慈恩覆護,在家備教導之仁,升朝蒙爵命之首,制書襃美,班之四海,舉負薪之才,升君子之器。《負薪,喩小人也。易曰:「負且乘,致寇至。」負也者小人之事,乘也者君子之器,以小人而乘君子之器,則盜思奪之矣。》…」(『後漢書/列傳 凡八十卷/卷四十二 光武十王列傳第三十二/東平憲王蒼 子任城孝王尚』)

 また「積薪」という形では「周礼」に儀礼の一部として規定されています。

「…以式?共祭祀之薪蒸木材 賓客共其芻薪喪紀共其薪蒸木材 軍旅共其委積薪芻凡疏材 共野委兵器與其野囿財用…」(「重刊宋本十三經注疏附校勘記/重栞宋本周禮注疏附?勘記/地官司徒下/附釋音周禮注疏卷第十六/委人」より)

 「周礼」の本格的導入が「隋」との関係の中のことであったのではないかと考えられることから、この「積薪」という行事が「進薪」として「倭国」にも導入されたものではないでしょうか。
 この「進薪」という用語については「白雉改元」の「詔」の中に「清白」という文言が使用され、百官に「神祇」に対して「奉仕」と「服従」を強いているのが関係していると考えられます。

「…朕惟虚薄。何以享斯。蓋此專由扶翼公卿。臣連。伴造。國造等。各盡丹誠奉遵制度之所致也。是故始於公卿及百官等。以『清白』意敬奉神祇。並受休祥。令榮天下。…」

 「清白」とは文字通り「清く」「白い」ということですが、これは『書紀』では「罪を犯していない」「やましいところはない」という意味としての使用例が確認されるものでもあります。

「(斉明)四年(六五八年)夏四月条」「阿倍臣,闕名.率船師一百八十艘伐蝦夷.齶田、渟代二郡蝦夷,望怖乞降.於是敕軍陳船於齶田浦.齶田蝦夷恩荷進而誓曰 不為官軍故持弓箭,但奴等性食肉故持.若為官軍,以儲弓矢,齶田浦神知矣.將『清白』心仕官朝矣.仍授恩荷以小乙上,定渟代、津輕二郡郡領.遂於有間濱召聚渡島蝦夷等,大饗而歸.」

「(持統)三年(六八九年)五月癸丑朔甲戌条」「命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級■金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。…又奏云。自日本遠皇祖代。以『清白』心仕奉。而不惟竭忠宣揚本職。而傷『清白』詐求幸媚。是故調賦與別獻並封以還之。然自我國家遠皇祖代。廣慈汝等之徳不可絶之。故彌勤彌謹。戰々兢々。修其職任。奉遵法度者。天朝復益廣慈耳。汝道那等奉斯所勅。奉宣汝王。」

「(持統)五年(六九一年)春正月癸酉朔丙戌条」「詔曰。直廣肆筑紫史益拜筑紫大宰府典以來。於今廿九年矣。以『清白』忠誠不敢怠惰是故賜食封五十戸。■十五匹。緜廿五屯。布五十端。稻五千束。」

 このような「清白」の意義から見ても「進薪」や「負薪」と同様、「良賤」や「罪」の概念と関わっていると見られ、「罪」がない、あるいは「贖罪」(罪をあがなう)という意義で「清白」が使用されていると見られますが、その「詔」の中に「瑞祥」の先例としてあげられているのが「応神」と「仁徳」の時のことであり、両者が「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」を指すと見られることから、この「詔」でも「清白」という用語がここで使用されると言うことの中に、「彼等」つまり「阿毎多利思北孤」「利歌彌多仏利」以降継続して「服従」を強いてきたことを示唆するものであり、そしてそれを自分の代にも変わらず行なうようにと言う文脈であると理解できるものです。

 このようなことを行なう必要があった時期としては、「我姫」に総領を派遣し「令制国」に相当する領域を「国」として成立させるなど「東国」への統治・支配の強化を行なったとみられる「六世紀後半」から「七世紀初め」にかけての時期がもっとも適合すべきものと考えられます。そう考えると、当初の「阿毎多利思北孤」「利歌彌多仏利」達の代の段階で既にその「服従」を表す具体的な行動として「進薪」があったと見られることになります。
 「隋制」の導入と言うことと「進薪」という「隋・唐」に淵源があるとされる「儀式」が関係していると考えるのは当然であり、その意味でも「七世紀前半付近」にその始原を考えるべきではないでしょうか。
 

(この項の作成日 2013/02/14、最終更新 2015/07/02)