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「占星臺」の建設


 『天武紀』に「占星臺」を建てたという記事があります。

「(天武)四年(六七五年)春正月丙午朔庚戌条」「始興占星臺。」

 この「占星臺」というのはいわば「天文台」であると思われますが、同様なものが「新羅」に存在していました。「新羅」では「瞻星台」と呼ばれ、現「慶州北道」にあった(現存しています)ものです。それは「総数三六二個」の石を積上げて作られたと言う「石塔」であり、「三国遺事」によれば「善徳女王」の時代(六三二−六四七年)に建てられたものであるとされています。
 『天武紀』に記された「占星臺」は「六七五年」に「始めて興す」とされていますから、それまで全く無かったということを示すと考えられ、「新羅」から遅れること約三十年ということとなります。
 ところで、この「占星臺」については、それが『天武紀』にあるところから、彼の「道教」への傾倒という点を捉えて、「道教」との関連が強調される事が多いのですが、本来「占星臺」の本質は「天文台」であり、「暦」の作成などのために「天文観測」をするところですから、その機能を無視しては議論の方向を誤る可能性があると思われます。

 既に述べたように「倭国」における「暦作成」とそのための「天文観測」は『推古紀』に始まったという考え方が多いようですが、「延喜式」のデータから見てもっと早期に観測が始まっていたことが窺えます。そしてその時点で「占星臺」のような「天文台」が(「漏刻」を備えたもの)が造られたとしなければならず、ここで「始めて興す」とされているのはその意味で「矛盾」といえます。
 この「始めて」は『続日本紀』に多数現れる「始めて」と同義ではないかと考えられ、この記事は本来この時代の事ではなかったのではないかと考えられるものです。

 前述した様に最初の天文観測記事が登場するのが「六二〇年」であり、その時点以降相当量の「天文記事」が現れています。このことから、明らかにこの「六二〇年」至近の時期から「天文観測」を行なうようになったことを示しますが、それには「専用」の施設・場所・器具等が必要であり、この時点で明らかに「天文観測施設」があったことを示すものと思われ、それが「占星臺」であったという可能性は高いと思料されます。
 もしそうであれば、「新羅」への「天文台」建設より今度は逆に「倭国」がかなり先行することとなりますが、それもまた、「倭国」「新羅」と「隋・唐」との交流の歴史から見て妥当な事と思料されます。
 「新羅」は確かに「隋」から「柵封」は受けましたが、「文化」「技術」などの交流がその後活発に行なわれたとは見えず、また「唐」成立後「唐」との関係が確立したのは「善徳女王」の時代に「新羅」が「高句麗」と「百済」から圧迫を受け、「唐」に支援を求めた時点であり、それが「瞻星台」建設時点と符合しているのは偶然ではないと思われます。その後「金春秋」が「唐」に対し「唐制」の全面的受容などの「譲歩策」を示した結果、関係が急速に深くなったものであり、それ以前はそれほどではなかったのではないかと考えられます。「新羅」はこの時点で「軍事支援」のために「唐制」の受け入れを行なったのであり、それは「倭国」の事情とは全く別の次元のことです。「瞻星台」の建設というものも「唐」との関係が深まって「唐暦」の受容と言うことが行われたことがその背景にあると思われます。

 「柵封」された「新羅」とは異なり、「倭国」では「遣隋使」「遣唐使」を以前から派遣しており、文化・情報は「天武」以前にかなりの量流入していたと考えられます。つまり、「倭国」はあくまでも国内統治の完璧化・高度化を行なうことを目的として海外の諸文化制度を導入したのであり、「隋・唐」の文化はかなり以前から積極的に取り入れていたと考えられます。その意味で「倭国」は「隋・唐」の軍事的支配下に入る必然性や必要性がなかったため、「化外慕国」つまり「辺境」にあって「唐」の文化を慕う国というレベルから出なかったものであり、「隋」「唐」からは「柵封」を受けることはなかったものです。(これはあまりに遠方まで「柵封」するということが「隋・唐」側においても重荷になるという事情による可能性もあります。)
 「柵封」された「新羅」においても同様であった可能性が強いですが、「倭国」のように「絶域」の国は「歳貢」つまり毎年朝貢する義務そのものがなかったものであり、そのような国や地域では「暦」については「正朔を奉じる」つまり「宗主国」と同じ暦を使用するためには自力で「暦」を造るしかなかったのです。そのため、「日の入」「日の出等」の天文観測を行なわざるを得なくなったものと見られます。この「占星臺」は正にその目的が第一であったと見ることができるでしょう。

 繰り返しになりますが、「天武」の時代には「遣唐使」も全く送られなくなり、「唐」の制度や文化を導入する機会が失われていたはずであり、そのような時期に「占星臺」が造られ、「天文観測」が行なわれ始めたとは全く考えられないといえるでしょう。


(この項の作成日 2013/02/13、最終更新 2014/04/30)