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「射礼」について


 『書紀』には「射礼」記事があります。「射礼」とは本来「正月」の行事であったようで、「正月」を賀するために集まった多くの官人達による「矢当て競争」のことです。
 元々は「弓矢」を射る技術の向上の目的であったと思われ、また「正月」に行われるということもあって、「神」に奉納する目的もあったと考えられますが、後に「娯楽」の要素が強くなっていったと考えられています。
 『隋書俀国伝』によれば「毎至正月一日、必射戲飲酒」とあり、「射礼」が行われていたようです。ただし、これが行なわれた日付は「一日」とされていますが、後の宮廷行事としての「射礼」はおよそ「十七日」前後の日付が選ばれていたようであり「八世紀」以降は正式に「十七日」となったとされます。
 ちなみに『書紀』で「射礼」記事が出てくるのは「大化二年」記事が最初であり、以降「不連続」に現れます。しかし、この『隋書俀国伝』記事によればもっと早期から行なわれていたようにも見られ、そうであれば「七世紀前半」の「空白」が理解しにくいところです。

 『書紀』の「射礼」の記事一覧は以下の通りです。

「(大化)三年(六四七年)春正月戊子朔壬寅(十五日)。射於朝庭。」
「(天智)九年(六七〇年)春正月乙亥朔辛巳(七日)。詔士大夫等大射宮門内。
「(天武)四年(六七五年)正月丙午朔壬戌(十七日)公卿大夫及百寮諸人初位以射于西門庭。」
「(天武)五年(六七六年)正月庚子朔乙卯(十六日)置禄、射于西門庭。中的者則給禄有差。」
「(天武)六年(六七七年)正月甲子朔庚辰(十七日)射于南門。」
「(天武)七年(六七八年)正月戊午朔甲戌(十七日)射于南門。」
「(天武)八年(六七九年)正月壬午朔己亥(十八日)射于西門。」
「(天武)九年(六八〇年)正月丁丑朔癸巳(十七日)親王以下至于小建射南門。」
「(天武)十年(六八一年)正月辛未朔丁亥(十七日)親王以下小建以上射于朝廷。」
「(天武)十三年(六八四年)正月丙午(二十三日)天皇御于東庭羣卿侍之。時召能射人及侏儒左右舍人等、射之。」
「(天武)十四年(六八五年)五月丙午朔庚戌(五日)射於南門。」
「(持統)三年(六八九年)三年秋八月辛巳朔(中略)辛丑(二十一日)…觀射。」
「(持統)五年(六九一年)五年八月己亥朔癸卯(五日)。觀射。」
「(持統)八年(六九四年)春正月乙酉朔辛丑(十七日)。漢人奏請踏歌。五位以上射。…壬寅(十八日)。六位以下射。四日而畢。」
「(持統)九年(六九五年)丙申(十七日)。射。四日而畢。」
「(持統)十年(六九六年)春正月甲辰朔辛酉(十八日)。公卿百寮射於南門。」

 上に見るように「大射」「射礼」記事はほぼ『天武紀』『持統紀』に集中しています。このような「集中」は「廣瀬」「龍田」記事と様相がよく似ています。
 「廣瀬」「龍田」記事はその起源が「七世紀初め」の「灌仏会」と「盂蘭盆会」にあると考えられ、それが「難波朝廷」期に「神道形式」に改められたものと考えられますから、この「大射」「射礼」記事も同様である可能性が高いものです。
 つまりその起源は「七世紀初め」にあると考えると『隋書俀国伝』記事とよく重なるものです。

 以下にこれら記事群の特徴を挙げます。
①「六八六年」「六八七年」「六八八年」の三年間は「大射記事」がありません。これも「廣瀬・龍田記事」が「六八七年」「六八八年」「六八九年」に記事がないこととよく似た現象であり、時期も似ています。
②「六七九年」以降は「西門」では行なわれなくなります。
③「六八五年」以降は「正月」に行われなくなりますが、「六九四年」以降は再び正月の行事となります。
④日付は「正月」に行なっている間は一定しており、「十七日」近辺の日付が選ばれているようです。しかし「五月」「八月」に行なわれた「六八四年」「六八五年」「六八九年」には「五日」付近が選ばれているようです。

 これらを見ると、「六八六年」から「六八九年」付近は多くの行事が行なわれなかったあるいは自粛されていたらしいことが判り、このような「正月」の儀礼が行われない理由として最も考えられるのは「喪中」であるということです。それが「三年間」と云うことから「三年の喪」に服していたらしいことが察せられます。つまり「王権」の誰かが死去したことを推定させます。
 その翌年以降「西門」で行なわれなくなるということは、「西門」がなくなったか「遷宮」ないしは「遷都」が行われたと見る事ができるでしょう。そこには「西門」がない構造であったのではないかと考えられる事となります。該当するのは「難波宮」ではないでしょうか。
 「難波宮」の遺跡発掘からは「東西門」が確認されていません。「前期難波宮」は「回廊」、その回廊から伸びる「八角殿院」、「前殿」(「大極殿」の前方にある建物)、「朝堂」など、多数の遺跡が確認されていますが、「東西門」はなかったものと推定されています。
 この事と『書紀』のこれらの「記事」で明確に「東西門」との記述が確認されないのは整合していると考えられ、ここに書かれた記事はある意味「難波宮殿」の実態を把握した上で記述しているという可能性が考えられます。
 「三年」の喪に服した後に「難波宮」への遷都が行われていることを考えると、この「喪」は「七世紀前半」の「倭国王」のものであったことが推定され、それを『書紀』では「天武」の死去として書かれていると思われます。(実際には「浄御原宮御宇天皇」という人物)

 また、実施の場所として書かれていることに「変遷」があることが注意されます。
 初出及び二回目記事では「朝庭」「宮門内」とされていたものが、三度目の出現時には「西門庭」になっています。これは「西門」から出たところに広がる場所を指すと考えられ、「内部」から「外部」へ出たこととなります。
 また、「南門」は「正門」であり「朱雀門」でもあります。その外部で「射礼」が行なわれたとされています。また、「東庭」とありますが、これがただちに「東門」の前の「庭」を指すとは言い切れません。少なくともこの文章からは「東門」の存在が不明です。
 これらの変遷は「天武」の所在していたとされる「明日香岡本宮」の構造と照らして考えても理解できるものではありません。
 
 以上のことから、上の「西門記事」は「難波副都」に対する「首都」である「筑紫宮殿」の時代のことと考えざるを得ませんが、現在確認される「大宰府政庁第Ⅰ期」遺構からは「西門」の存在が確認されていません。ただし、この時点の「筑紫宮殿」は今の場所ではなかった可能性があり、その時点では「西門」があったという可能性があります。(宮殿そのものは「移築」ではないかと思料されます)
 そして、これ以降『書紀』には「射礼」の記事がなくなります。その後「八世紀」の「文武朝廷」では「慶雲三年」(「七〇六年」)の「射礼」について「命中」の度合いによって褒美の額を定めたという趣旨の記事が出てくるまで、「大射」記事が全く見えなくなります。

「慶雲三年(七〇六年)春正月丙子朔壬辰条」
「定大射祿法。親王二品。諸王臣二位。一箭中外院布廿端。中院廿五端。内院卅端。三品四品三位。一箭中外院布十五端。中院廿端。内院廿五端。四位一箭中外院布十端。中院十五端。内院廿端。五位一箭中外院布六端。中院十二端。内院十六端。其中皮者。一箭同布一端。若外中内院及皮重中者倍之。六位七位。一箭中外院布四端。中院六端。内院八端。八位初位。一箭中外院布三端。中院四端。内院五端。中皮者一箭布半端。若外中内院。及皮重中者如上。但勳位者不着朝服。立其當位次。」

 しかし『天武紀』の記事では既に、その成績により「録」(褒美)が決められていることが知られ、それは当然何らかの「規定」に拠ったものと考えざるを得ない訳ですから、それとは整合しないと思われます。
 このことは他の「始めて」記事と同様、この記事も本来の年次には置かれていないのではないかという疑いが生じることとなります。
 

(この項作成日 2011/09/04、最終更新 2014/01/25)