ホーム:「持統朝廷」以降の「倭国王権」と「新・日本国王権」:『続日本紀』と『書紀』の「記事」移動の痕跡について:『書紀』及び『続日本紀』の年次移動について:天武紀の諸改革について:

「廣瀬大忌神・龍田風神」記事


 既に見たように『天武紀』に入った「六七五年」という年次に「廣瀬大忌神・龍田風神」への遣使の派遣という記事が始まります。この記事の中身については既に述べたように「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」に対する「祖先供養」という意味があったと思われます。しかし、それが『天武紀』になって突然始まるという「唐突さ」については説明がつきません。
 このような「神道形式」による「祖先祭礼」が『天武紀』に始まるというのは、「白雉年間」の創建とされる「寺社」(特に神社)その中でも「宇迦之御魂神」を祭る「稲荷」系神社が多いことと関連していると考えられ、それは「廣瀬大忌神」の祭神が「宇迦之御魂神」であることでも了解されるものであると思われます。このことは「廣瀬」「龍田」という両神に対する「遣使」を相当遡上する時期に「宇迦之御魂神」を奉祭する寺社が設置されていることとなり、その間のいわば「タイムラグ」が不審といえるでしょう。この「祖先祭祀」がそのような時間経過を経なければならなかった事情がよくわからないというのが実情です。
 大きなくくりでみると途中に「壬申の乱」があり、「白村江の戦い」に代表される「百済」をめぐる戦いがあったことは確かですから、それらがこのような祭祀を行えなかった理由とすることも可能かも知れませんが、実際には各々十年という単位で時系列として配置されるものですから、いずれにしてもその間隙は埋めることはいくらでも可能であったはずです。そう考えると、この「両神社」への「遣使」は実は「七世紀半ば」の時代に始まったものが移動されているのではないかという疑いが生じることとなります。
 これら「廣瀬・龍田」記事についての情報は以下の通りです。

・「六七五年」記事には「使者の」名称までが書かれています。これが一番詳しい記事です。
・「六七五年」、「六七六年」、「六七七年」は「龍田風神」が前、「廣瀬大忌神」が後に書かれます。他の年次ではこの逆になっており、「廣瀬」が先「龍田」が後です。
・「六七九年」以降は「祭廣瀬龍田神」と簡略に書かれるようになります。これは「六八九年」まで続きます。ただし、「六八四年四月」にいちど「祭廣瀬大忌神。龍田風神。」と書かれるものの、翌年また元へ戻ります。
・「六八六年」、「六八七年」、「六八八年」には「四月記事」がありません。(ただし、「六八六年」には「七月記事」はあります)
・「六七五年」、「六七八年」には「七月記事」がありません。さらに「六八七年」、「六八八年」、「六八九年」にも「七月記事」がありません。
・「六九〇年」記事では「遣使」が前置され「大忌神」と「風神」という肩書きが付加されます。翌年の「六九一年」以降になると「遣使者」というのが「前置」されます。その「六九一年」には「七月記事」がありません。
・「六九二年」以降の記事(四月も七月も)は全て「祭る」から「祀る」に変わっています。
  
 これらの中では最後の「祭る」と「祀る」の違いについて注目してみます。
 一般に「祭る」は「地祇」であり「祀る」は「天神」とされます。また『書紀』の中では特に「伊勢神宮」に関連したことに「祀る」が使用されています。

「神武天皇四年(甲子前六五七)二月甲申廿三条」「詔曰。我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬。今諸虜已平。海内無事。可以郊『祀』天神用申大孝者也。乃立靈畤於鳥見山中。其地號曰上小野榛原。下小野榛原。用祭皇祖天神焉。」

 これ以降「祭祀」という単語以外の出現例は「欽明紀」に出てくる「伊勢大神」へ「待祀」するという用例が以下のものです。

「欽明天皇二年(五四一)三月条」「納五妃。元妃。皇后弟曰稚綾姫皇女。是生石上皇子。次有皇后弟。曰日影皇女。此曰皇后弟。明是桧隈高田天皇女。而列后妃之名。不見母妃姓與皇女名字。不知出何書。後勘者知之。是生倉皇子。次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛。堅鹽。此云岐施志。生七男。六女。其一曰大兄皇子。是爲橘豐日尊。其二曰磐隈皇女。更名夢皇女。初侍『祀』於伊勢大神。後坐奸皇子茨城解。…」

「欽明天皇十六年(五五五)二月条」「…惠報答之曰。臣禀性愚蒙不知大計。何况禍福所倚。國家存亡者乎。蘇我卿曰。昔在天皇大泊瀬之世。汝國爲高麗所逼。危甚累卵。於是天皇命神祇伯。敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰。屈請建邦之神。徃救將亡之主。必當國家謐靖。人物乂安。由是請神徃救。所以社稷安寧。原夫建邦神者。天地株判之代。草木言語之時。自天降來造立國家之神也。頃聞。汝國輟而不『祀』。方今悛悔前過。脩理神宮奉祭神靈國可昌盛。汝當莫忘。…」

「敏達天皇六年(五七七)二月甲辰朔条」「詔。置日祀部。私部。」

 これらの例を見ると明らかに「伊勢」との関連で「祀る」という用語が使用されています。
 また「日祀部」というのはその実体が何を指すのかやや不明ですが、「太陽崇拝」に関係するものともいわれます。それに関連するのが、『用明紀』の記事です。そこには「奉日神神祀」という形で出ており、「日祀部」の職掌が太陽神を祀る宗教的行為であることが示されていると同時にそれが特に「伊勢神宮」と連結して語られていることが注目されます。
             
「詔曰。云々。以酢香手姫皇女拜伊勢神宮奉日神祀。是皇女自此天皇時逮干炊屋姫天皇之世。奉日神神祀。自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。或本云。卅七年間奉日神祀自退而薨。」「(敏達即位前紀)(五八五年)九月甲寅朔壬申条」

 このように「祀る」という単語は全て「伊勢大神」との関係で使用されているとみられ、これに関しては「廣瀬大忌神」が、「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」や、「伏見稲荷大社」の「宇迦之御魂神」と「同神」ともされている事が注目されます。このことは「廣瀬・龍田」を「祀る」ということと「伊勢神宮」を「祀る」こととが本来同義であったことを示すと考えられます。
 「廣瀬」「龍田」への「遣使」による「祭祀」という行為が具体的に何を意味するかは微妙ですが、「伊勢大神」との関係で言うと、年代として最後の方で「関係」ができたとは考えにくく、この「廣瀬」「龍田」記事の当初から「伊勢大神」(つまり「宇迦之御魂神」)とは関係があったとみるべきこととなり、そうであればこの「六九二年以降」という時期だけに「祀る」表記があるのは不自然であることは間違いありません。
 当初重要視され、それがだんだん簡略化していくというのは有り得る話ですが、この『書紀』のパターンは逆になっているようです。それはこの記事配列に何か問題があることを物語っていると思われるものです。

 ところで、「中国」(唐)の祭祀に関する規定では「大祀」「中祀」「小祀」と分かれており、「天子」として「天神」を祭る場合で「小祀」以外は皇帝本人が本来「祝文」を奏する必要がありますが「小祀」の場合は「使者」を派遣するだけでよいとされていました。
 「太唐開元礼」には以下のようにあります。

 「凡國有太祀・中祀・小祀.臭天上帝・五方上帝・皇地祇・神州・宗廟,皆為大祀.日月・星辰・社稜・先代帝王・嶽・鎮・海・濤・帝社・先蚕・孔宣父・斉太公・諸太子廟,雌為中祀.司中・司命・『風師・雨師』・霊星・山林・川滓・五龍祀等,雌為小祀.州県社稜・釈莫及諸神祀,並同小祀.」

 ここでいう「小祀」に「風師」「雨師」というのがあるのがわかります。一般には「広瀬」「龍田」は各々「水」の神と「風」の神とされていますから、「広瀬」「龍田」両神に対する祭祀はこの『風師・雨師』に対するものの「倭国版」とでもいうべきものであり、「天皇」(倭国王)が直接参加せず、使者を派遣する形としているのは、そのような規定を踏まえたものと見ることもできそうですが、このような祭祀で『書紀』に特記されているのはこの「広瀬」「龍田」だけですから、その重要性はかなり高いものであり、単に「風師」「雨師」を祀る「小祀」であったとは逆に考えにくいこととなります。まして「伊勢神宮」を祀るのと同等の意義があったとするなら、「伊勢神宮」は「日神」であったとされているわけですからその意味では「中祀」となりますが、それよりもどちらかといえば「先代帝王」ではなかったかと考えられるのではないでしょうか。
 この「先代帝王」とは「禅譲」などを受けた場合の「前王朝」の王を意味するものであり、現王朝とは直接「血統」がつながっていないような場合についての祭祀を指すものです。つまり「天武」「持統」達とは異なる王朝の「王」であった人物に対する「祭祀」ではなかったかと考えられ、このような場合は「王」(皇帝)は「祝文」に署名した後については「官人」に代行させることができたとされており、これと同等の取り扱いであったのではないかと思われ、「小祀」であったと見る必要はないこととなります。

 ただしこの「開元礼」のほとんどはこの時決められたものではなく、少なくとも「隋代」(特に「開皇年間」)には既にその原型があったと見られます。このような「礼制」はその前代の「南朝」の「梁」や「北朝」の「北斉」付近で相当「制度」として固められたものと思われ、それを「隋」(文帝)が集大成としてまとめたとされます。それを示すように『隋書』にも『開元礼』とほぼ同文が既に書かれています。

(『隋書/卷六 志第一/禮儀一/南北郊』より) 「…昊天上帝、五方上帝、日月、皇地祇、神州社稷、宗廟等為大祀,星辰、五祀、四望等為中祀,司中、司命、風師、雨師及諸星、諸山川等為小祀。」

 これらはその時点で『江都集礼』という「儀注」として結実したものであり、これを原型としてアレンジしたものが「唐」の『元徽礼』でありさらに後の時代に集大成された『開元礼』であったと考えられるわけです。そう考えると、この「広瀬」「龍田」が『開元礼』に準拠したものなのか『江都集礼』に拠ったものかなどは断定的にはいえないこととなるでしょう。少なくともこれらの「礼制」の多くが「吉備真備」によってもたらされたという説が有力であったとしても「廣瀬」「龍田」は彼以前から行われているわけですから、「遣唐使」というより「遣隋使」によってもたらされたという可能性を考慮する必要があることとなります。
 現実として『日本国現在書目録』には『永徽礼』『開元礼』の他に『江都集礼』も載せられており、その意味でもこの「広瀬」「龍田」祭祀が『江都集礼』に拠ったという可能性は否定できないこととなるでしょう。


(この項の作成日 2013/02/13、最終更新 2015/07/02)