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天文観測記録の欠如とその意味


 前述したように日本では「六二〇年」を初出とする天文観測記事があります。これは自前で「暦」を作ろうとしたからだと思われます。「暦」を精度良く作るためには「天文現象」を観測することが必須だからです。
 「六二〇年」の「オーロラ」と思える現象の観測を皮切りに、各種天文現象が記録されていきます。この中には「日の出」「日の入り」時刻の記録など、基本的なことももちろん含んでいたことと思われます。しかし、「皇極」天皇(六四一年)になって以降約「三十年間」観測記事が消えてしまいます。次に現れるのは「壬申の乱」の前年の「六七一年」です。この間よく目立つ「日食」などあったと思われますが、一切記録されていません。つまり、「皇極」「孝徳」「斉明」「天智」の四天皇の時代「天文観測」は行われなかったと考える必要があります。

 また、その後『天武紀』になると、天文観測記録が再び現れますが、「持統天皇」の時代になると不思議なことが起こります。そこには「日食」の記録があるのですが、書かれた全ての「日食」記録が「日本では観測できない」ものばかりなのです。つまり、ここに書かれた記録は「観測したもの」ではないわけです、これらは「予報」(推測)であったと思われ、それを「観測したあるいはそのような事象があった」として書いていることとなります。
 これらに関しては不明な部分が多いのですが、最小限度言えることは、『持統紀』においても「天文観測」はしていない、ということであり、そして、それを隠そうとした、ということではないでしょうか。
 予報は行ったのかもしれませんが、実際には観測はしていなかったことになります。観測しなければ、誤差が計測できず、暦の精度は上がりません。これは、暦の作成を放棄した、と言うことかもしれません。
 太陰暦の使用開始としては『書紀』の「持統天皇四年」(六九〇年)の「勅を奉はりて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」とあるの「初出」です。これは国全体として太陰暦を受容し、民衆レベルでも使用開始した、ということらしいのですが、それに必要な「天文観測」は実はしていなかった、ということとなります。

 天文観測記録がない理由としては「暦を作る必要(権利)がなくなった」からか、この間の記事自体が「捏造」であるからだと思われます。「捏造」と言う場合は実際の天文事象との整合が問題になるため、記録を書かなかった、(書けなかった)という場合です。このどちらかであるかということは、この期間の記事が「本格漢文」で書かれており、明らかに他の部分の「倭臭漢文」と趣を異にしていることや、(用語法なども違う)さらに、そのためか他の部分に比べ「訓注」が頻出している事実があり、この付近は「森氏」のいわゆる「α群」であり、「唐人」により編集された部分と推定され、後代の日本人による「潤色」が少ないか全くない部分と推定されますから、この部分は実際に残されていた古資料に依拠したものではないことが推定できます。
 この期間の記事が「実際」の資料に拠っていない可能性があると考えられるのは、この「三十年間」の各天皇には(「皇極」から「天智」までの天皇も含みます)以下の「疑問と矛盾」があることからもいえます。
 たとえば、有力豪族である「大伴」「物部」の系譜には「舒明」「皇極」(斉明)に「仕えた」という記事が見当たりません。彼らの記録によると「推古」に仕えていた人物の息子の代には「孝徳」に仕えていたこととなっており、この事から彼らが仕えていた「天皇」の記録という「近畿王権」系の資料としては、『推古紀』と『孝徳紀』が元々連続していたことを示すものであり、さらにそこから直接『天武紀』へとつながるものではなかったかということとなるでしょう。

 『皇極紀』以降の三十年間(『天智紀』終わりまで)天文観測記録がない、という事実と、いわゆる「森博達氏」の研究による「α群」がこの三十年間にぴったり重なっている事実、そして、この「α群」が『持統紀』に書かれた、と推察される事、そして「舒明」「皇極」「斉明」について近畿王権内の豪族に「仕えた」記録がないことなどを総合して考えると、上に見たような「不審」な事実は、「天智」が「革命王」であったとすると首肯できるものです。つまり「舒明」と「皇極」(「斉明」も)は「天智」の両親であったものの、彼等は当然「倭国王」ではなかったし、「近畿王権」の王でもなかったのですから、彼等に「物部」や「大伴」が仕えたはずがないからです。
 彼等は「天智」とその子孫により後に「追号」(「諡号」)され「天皇位」に(あたかも)あったかのように「造作」されていると考えられます。そうでなければ「天智」の「王権の継承」に不備があると言うことが白日の元に晒されてしまいますから、そのような「造作」は当然必要であったと思われます。
 つまりこの時代の「記録」の過半は「捏造」と考えられ、「天智」が革命王であり、その間の記録は後の「天武」(つまり「薩夜麻」)の後継である「持統朝」にとってはあってはならないことであり、これを正確に書くわけには行かないと考え、「捏造」したものと考えられます。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/01/19)