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「舒明」「皇極」「天智」の稀薄性


 「舒明」「皇極」「天智」の三天皇については、石上神宮の奉祭についても『書紀』に記事がありません。
 これについては、この奉祭は以前「石上神宮」の神宝を管理していた「物部」の独占する所であったわけですが、「五八七年」の「物部守屋」滅亡後、別系統の「物部氏」によって奉祭されていたものを「蘇我蝦夷」の時代になり、「蘇我」に相続権があるということが主張されるようになり、その結果「祭祀」の権利が奪取されたことが記録にあります。(「物部守屋」の妹が「蘇我馬子」の妻であったため)
 そして、いわゆる「大化の改新」で「蘇我」が排除されたため、その後奉祭する人間がいなくなったと理解されているようですが、そのような理解ではその前代の「舒明」の時代の「奉祭の空白」の説明がつきません。つまり「大化改新前」から「奉祭」は行われていないのです。

 また、新天皇即位の際には「伊勢神宮」へ皇女を派遣する慣わしになっていますが、この三天皇については派遣記事がありません。ただし、確実な「斎宮派遣」は「天武」に始まるという説もあります。(「壬申の乱」の際の「伊勢神宮」への祈願の代償として斎宮が派遣されたという考えです。)
 こう考えると「斎宮」派遣記事がないのは理解できるといえますが、それではそれ以前の天皇の代になぜ派遣記事があるのかが説明がつかなくなります。これら以前の「天皇」の代の「斎宮派遣記事」が「潤色」であったとすると、逆になぜ彼らの代にはその潤色が施されていないのかが不明となり、やはり「矛盾」が残ります。

 さらに「和風諡号」に「たらし」(足)が付く天皇は古代の天皇を別にするとこの二人しかいないということも指摘されています。
「舒明」の場合は「息長足日廣額天皇」、「皇極」(斉明)の場合は「天豐財重日足姫天皇」とされ、ともに「足」(たらし)がつきます。

 しかし、「孝徳」には二人のような不思議な部分はありません。「物部」「大伴」両氏族には彼に仕えた記事があり、その他の点でも存在が確実な人物なのです。
 
 ところが、これが『万葉集』になると一変し、この「舒明」「皇極」「斉明」という三天皇の事跡、歌が複数掲載されています。逆に「孝徳」の歌は全くなく欠落しています。これは他の資料とちょうど逆になっているようです。

 また『伊豫三島縁起』を見ると、冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ「飛んで」います。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれているように見えるのがわかります。これは西暦で言うと「六四一年」のはずですから、「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあります。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながるように見えます。
 また、これ以前には「用明」の代が「飛んで」いますが、彼は「三年間」と短い治世であったためという理由付けが可能であるかもしれませんが、「舒明」「皇極」は両者ともそれほど治世期間が短いとはいえず、また特記すべき事項がなかったともいえません。さらに「用明」の代は確かに飛んでいるものの、彼の治世の中の記事であるにもかかわらず他の天皇の代として書かれているということでもありません。そう見ると、明らかに「舒明」と「皇極」の不在は不審といえます。

 また「意外」に思えるかもしれませんが、「飛鳥」に宮殿を構えた天皇はこの「三天皇」(「舒明」「皇極」「斉明」)と、それに加え「天武」だけなのです。彼らの宮殿だけが「飛鳥(明日香)」を冠して呼ばれているのです。たとえば「推古」は「小治田」を冠して呼ばれていますし、「孝徳」は「難波」に宮殿がありました。また、「天武」は斉明の「宮」とされる「後岡本宮」に「エビノコ郭(大極殿)」を増築して「飛鳥浄御原宮」としたとされています。
 
 これらのことから、この「飛鳥」の地については、ある特別な意味を持った場所であることが推定されます。彼らは上に見たように「近畿王権」に深い関係があると考えられる「大伴」「物部」などと縁が遠く、「倭国王朝」の勅撰集が元となっていると考えられる『万葉集』には出てくるという「彼ら」、しかも「彼ら」の宮殿のあった場所である「明日香」という土地は「近畿王権」の誰も「王宮」を建てていないのです。しかもその王宮は「正方位」つまり性格に「南北」を向いた建物だけで構成されていました。これらのことから、ここが「倭国王権」の聖地であり、(いわゆる)「天領」であり、「離宮」が造られていたと考えられます。
 「近畿王権」はこの土地には「オフリミット」であり、関与することが出来なかったと考えられるのです。後の「藤原京」もこの土地の至近に造られるわけであり、それも「聖地」に造られることとなったものと思料され、倭国王権の都であったことが推定できます。

 この「離宮」は本来の「王宮」のある場所と同じ土地名がつけられたと考えられ、その「雰囲気」としても「元の王宮」を良く再現するものであったと考えられます。
 この土地(宮殿)が「飛鳥浄御原」と名付けられた理由(事情)が『書紀』に書かれていますが、それによれば「改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」と改元理由と関連して語られているようです。しかし、この文章はいわば「意味不明」であり、「朱鳥」と「飛鳥浄御原」の間にどんな関係があるかは全く触れられていません。というより「明らかに」この二つの間には「何の関係」もないと思われます。(「朱鳥」の方は国号変更と関係していると思われます。)
 つまり「飛鳥浄御原」という宮殿名の命名理由は全く別個のことと考えられ、これは「離宮」の「本宮」である「筑紫」の「地名」ないし「宮殿名」を単になぞったものではないでしょうか。つまり「筑紫」の地にこのような「地名」なり「宮殿名」が存在していて、それをこの「奈良県」の「飛鳥」の地に「コピー」したものではないかと思われるわけです。
 この「飛鳥浄御原」という地名は「筑紫」に存在していたことは「古田」「正木」両氏の研究により明らかですが、それによれば現在の「小郡市」付近にその「明日香」は存在していたと考えられ、推測すると「難波副都」を造る事を決定した時点(六四七年か)で、「飛鳥浄御原宮」が造られることとなったと考えられ、「遺跡」として出てきた「大宰府政庁第T期」の「掘立柱建物」が建てられたのと同時期であったという可能性もあります。
 筑紫に「飛鳥」という地名があったことは、「宇佐神宮」の「八幡託宣集」の中にも出て来ます。

「…御由来記に曰く大帯姫御八幡此の朝に其れ渡り給いして、浄地を占いて御在所定め給いし時、大帯姫占いて香椎に枌(そぎ)を逆に植え■給い『阿須加』枌 是也。…」

 これによれば「香椎」に地に「あすか」と発音する地名があったことは明確であり、しかもその地は「浄地」とされていることから此の場所ないしは至近に「飛鳥浄御原宮」(清原大宮)があったと考えることが可能です。
 ただし、この「近畿」の「明日香」の地はあくまでも「離宮」的場所であったと思われ、「キ」(京)とすると言うものではなかったと考えられます。それは建物群が「正方位」を取ってはいるものの、「条坊」が造られなかったことでもわかります。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/06/06)