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「法隆寺金堂」の「釈迦像」及び「薬師造」の「光背銘文」について


 ところで、一部の議論の中に「法隆寺釈迦三尊像光背」の銘文に使用されている「年次」が「後代」の追刻ないし「偽造」であるというものがあります。(小川伸之「法隆寺金堂本尊について」など)
 この「銘文」以外にも「法隆寺旧蔵」の弥勒菩薩像の台座銘文なども同様であり、これらの表記については「七世紀半ば以降」のものであるとされているわけですが、そのような議論の根拠とされているものが「歳次(干支)〜年」や「歳在〜」という年次表記が見られることにあるとされます。
 この「歳次〜」或いは「歳在〜」という表記法については、これを「七世紀半ばに始まる表記法」とされるわけであり、それが見られることから、そこに書かれた「年次」そのものを疑うという立場になるわけです。しかし、「中国」の例で言えばこの「歳次」ないし「歳在」というのは『後漢書』「宋書」など各時代の代表的な史書の「伝統的」表記法であり、かなり古くから存在したものです。

『宋書』の例
「本紀第一 武帝上」
「高祖武皇帝諱裕,字コ輿,小名寄奴,彭城縣綏輿里人,漢高帝弟楚元王交之後也。…高祖以晉哀帝興寧元年『歳次』癸亥三月壬寅夜生。及長,身長七尺六寸,風骨奇特。家貧,有大志,不治廉隅。事繼母以孝謹稱。…」

『後漢書』の例
「列傳第二十五 鄭玄」
「五年春,夢孔子告之曰:「起,起,今年歳在辰,來年歳在巳。」既寤,以讖合之,知命當終,有頃寢疾。時袁紹與曹操相拒於官度,[二]官度,津名也,在今鄭州中牟縣北。前書者義曰:「於?陽下引河東南為洪溝,以通宋、鄭、淮、泗,即今官度。」令其子譚遣使逼玄隨軍。不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年六月卒,年七十四。遺令薄葬。自郡守以下嘗受業者,??赴會千餘人。」

『隋書』の例
「列傳第二十三 許善心
「『歳次』上章,律諧大呂,玄?會節,玄英統時。至尊未明求衣,晨興於含章之殿。爰有瑞爵,?翔而下。載行載止,當??而徐前,來集來儀,承軒?而顧?。夫瑞者符也,明主之休?;雀者爵也,聖人之大寶。…」

 このような表記法が中国に於てそれほど「特殊」ではないとすると、長年中国と通交していた「倭国」においても、同様に使用されていたとしても不思議ではないと思われます。このような表記法が倭国内に流入した時期もかなり時期的に遡ると考えられ、いわば「歴史的」使用法とも言えるものです。つまり、「七世紀半ば」を遡る時期の「文献」等にそれが見いだされたとしても、あながち不自然ではないといえることとなるでしょう。
 逆に言うと、そのような「表記法」が活発に使用される時期がもしあるとすれば、中国との間に使者のやりとりがあり、「文化的刺激」を受けた時期を想定すべきと思われますから、それを考えると逆に「七世紀初め」という時期はその条件に十分適うものと考えられます。
 この時期はすでに明らかなように「遣隋使」とそれに対する「返答使」が相互に往復した時期であり、またその「隋」からは多くの制度や法体系を学んでいることが明らかになっていますから、そのような流れの一環として「歳次」「歳在」というような日付表記法が導入され、使用されたと考える事は不自然ではありません。
 公的であるかどうかを問わず、「文書」や「光背」などにそのような「物言い」が使用されたとしても、それがその時代に「マッチ」した表記であることは疑い得ないものです。返ってその表記法は「七世紀半ば」を遡る時期に集中すると考えた方が正しいと思われ、疑わしい場合はこの時代のことと受け取る方が合理的と思われます。

 同じく「法隆寺金堂」に座している「薬師如来」の光背銘についても、そこに「歳在…年」という表記があり、これも同様に「七世紀半ば」を遡らないという意見があるようですが、この場合は更に「書体」(書風)と「文体」の問題も重なっているようです。
 この「薬師如来」の「光背」の「書体」は以前から所説があり、「定説」といえそうなものがありません。ただ、一部には「隋」から「初唐」の頃ではないかという見方もありますが、全体としては「前例」がない、つまり「独自」のものという認識が多いようです。
 また、「敬語表現」に関わる部分が「国語表現」となっている部分が多く、これは一般に「新しい」、つまり「後代的」であるという見方が通常ですが、(たとえば「天皇」に関する事について「大御身」「大身病」「大命」「大王」等の「大」表記が使用されていますが、このような表記は「日本風」であり「中国流」ではないと考えられます。)このような表記は、むしろ「漢文」を正確に理解していない、ないしは「漢文」で表現し切れていないという見方もできると考えられ、逆にかなり早期のものという捉え方もできるのではないでしょうか。その意味では「書体」が他に類例が少ないあるいはみられないとされることと関係しているかも知れません。
 普通「倭国」における「書体」(書風)は「中国」から「経典」などが渡ってきて、それを「写経」などするうちに、その経典の書体が一般化するという流れが想定されており、その意味からは「独自」というのはかなり考えにくいものといえます。それは「写経」などで「書体」をコピーするまで十分な「期間」が足りていないということも考えられ、「敬語表現」と同様かなり遡る時期を想定すべきである可能性を示唆するものです。
 これについては「漢文風の表現法によつては自らの敬意を満足しえず、また仏の尊貴が天皇の尊貴とならび考えられる時期」というのがこの「銘文」が書かれた時期として想定しうるという意見(※)もあり、「大化改新」(六四五年)を遡上しない時期を推定されていますが、しかし、「天皇」号の使用開始時期、及び「天皇」つまり「倭国王」の権威が最大化され、また「仏」への尊敬が「倭国王」と変わらぬ程度まで上昇した時期というと、ただ一つ「阿毎多利思北孤」及び「利歌彌多仏利」が「倭国王」であった時期以外にないと考えられるものであり、この「銘文」はそのような時期に書かれたと推定するのが正しいと思われます。 また、その意味からも「大化改新」の真の時期は「七世紀初め」であるといえるのではないでしょうか。

※東伏見邦英「法隆寺金堂薬師如来像管見」(京都大学文学部吏学科研究室「紀元二千六百年記念史学論文集」所収)


(この項の作成日 2012/11/24、最終更新 2013/05/10)