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「古事記序文」と『懐風藻』の主人公について


 既に『古事記』が「六世紀末」付近にその原型といえるものが作り上げられた可能性を考察したわけですが、その『古事記』の「序文」では「清原大宮」に即位した「天皇」について以下のように賞賛されています。

「…曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基…歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 『道軼軒后 コ跨周王 握乾符而ハ六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設~理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代』」 (『古事記』序文)

 この人物は『古事記』の中では特殊な位置にいます。『古事記』で列挙している歴代の天皇の中には登場しませんし、この『古事記』が呈上された天皇とも違う人物です(元明天皇とされています)。にも関わらずここでは「言葉を尽くして」激賞され、徳を高らかに賞賛されています。これが「八世紀」の人物である「元明」への上表の中にあるとしたら非常に不思議ではないでしょうか。普通に考えると、このような「激賞」は「禅譲」を受けた前王(前皇帝)に対するものと考えるべきであり、そうであればこの史書を「奉られるべき相手」というのは「禅譲」を受けた現在の「王」(皇帝)かその直後の「王」(皇帝)であると考えるべきでしょう。それは現在の「王」の権威の根源を示すものだからです。
 これが「天武」であるとすると、「元明」との間に「持統」「文武」と二人の治世を隔てていることとなり、しかもその人物(天武)は自分(元明)の父が建てた王朝(近江朝廷)をいわば潰した人間であるという皮肉なこととなってしまいます。そのような人物に対してこれほどの激賞をしている上表文が書かれると云うこと自体違和感のあるものです。その意味でも『古事記』の書かれた真の時期については上のように「序」で賞賛されている人物の時代からそう遠くないことが示唆されます。彼の威光がまだ残っていた時代にこれが書かれたとすると非常に納得できるものです。少なくともその上表された「年次」には疑問符がつくといえるでしょう。

 ところで、このような「誇張」ともいえる「褒め言葉」を受けている人物が「もう一人」います。それは『懐風藻』において「淡海先帝」と称されている人物です。(この人物は通常「天智」に比定されています。)
 この『懐風藻』の「淡海帝」についての文章も「激賞」というべきものであり、「聖徳太子」の業績を引き継ぎ発展させたという導入部から始まり、言葉の限りを尽くして顕彰しています。

「…及至淡海先帝之受命也,恢開帝業,弘闡皇猷,道格乾坤,功光宇宙。既而以為,調風化俗,莫尚於文,潤コ光身,孰先於學。爰則建庠序,?茂才,定五禮,興百度,憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。於是三階平煥,四海殷昌。旒\無為,巖廊多暇。旋招文學之士,時開置醴之遊。當此之際,宸瀚垂文,賢臣獻頌。雕章麗筆,非唯百篇。…」

 この二つの文章を並べてみてみると、まるで「太安万侶」と「淡海御船」が共に同じ人物を指して述べたのではないかと思えるほどです。
 『懐風藻』は「天智」の末裔と考えられる「淡海三船」の作とされていますから、通常「天武」と考えられる『古事記序文』の「主人公」たる人物は「無視」ないし「軽視」して当然とも思われますが、実際には人物に対する形容はほぼ同じないし共通していると思えます。
 また、『書紀』『古事記』などを通じてこれほど賞賛を受ける「倭国王」は他に見あたりません。『懐風藻』では他にも「崇~」や「垂仁」と思しき人物に言及されていますが、これほどの賞賛を浴びている訳ではありません。そのことから、この二人が実は同一人物であるという可能性が考えられると思われます。

 一般には『古事記序文』の主人公は「天武」と思われていますし、『懐風藻』の方は「天智」とされていますから、当然別人であると思われることとなっているわけですが、後ほど触れるように『古事記序文』が「元明」への上表であったとすると、「元明」の父である「天智」に全く触れずに済ますことはできないと思われます。その意味では「序文」の主は「天智」と見る方が齟齬がないと見られるわけです。しかも『古事記序文』の「主人公」は「天位」につくのに「闘争」を必要としたとされますし、また「天命」を受けた意の表現がされています。『懐風藻』でも「受命」つまり「命を受けた」とされているわけであり、この「命」が「天命」であるのは論を待たないものですから、共に「正常」な即位の過程ではなかったことが推定されることとなるでしょう。なぜなら「闘争」や「受命」は通常の正式な皇位継承者には必要のないものだからです。そう考えると、これを「天武」(大海人)とすることも「天智」とすることもできなくなるでしょう。
 「大海人」は「天智」の「太子」であったわけであり、また、その座は逐われた訳ではありません。それは(『書紀』による限り)自分の意志であり、「本来」は王権を継承する正統性を保有していたもののはずです。そのような彼の「正統性」が一挙に霧消するということも考えられず、彼に対して「受命」や「昇即天位」という表現が使用されるのは「不当」と思えます。
 また「天智」の場合も同様であり、彼も「皇太子」であったものであり、「正統性」と「大義名分」は彼にあったはずですから、彼の即位が「受命」によるような性格のものでなかったことは確かです。
 「天命」を受けたということは「新王朝」の開基を指すものであり、「初代王」(高祖あるいは皇祖)と称しうるということを意味しますから、前王の「太子」つまり「後継者」の立場にある人物が称するのはあり得ないと言っていいでしょう。
 つまり「天智」「天武」の「両者」ともこれらで使用されている文言とは彼等の置かれた状況などが合致していないと思われ、ここに対象とされている人物は「別」にいたと考えざるを得ません。
 そして、そのような形容がふさわしい人物としては、「倭国王」の歴史の中では後にも先にも「阿毎多利思北孤」しかいないと思われます。

 彼は『隋書』によれば「天子」という称号を自ら名乗っています。「天子」と「皇帝」とはこの時点では同義であり(ただし権威付けのベクトルの向きが違う)、「天帝」の子を指す言葉です。それ以前にも「隋使」の言葉として「天為兄、以日為弟」とされ、自らを「天」に見立てています。
 また「天命」が「天帝」の「命」を意味することは当然ですから、始めて「天子」を名乗ったとすると、それは即座に「天命」を受けたと言うことと等しい意味を持つでしょう。そのような称号を自称するというのは「初代」王であるという意識が彼にあったことを明確に示していると思われます。
(これに「神武」が該当しないのは当然でしょう。彼は「近畿王権」の初代ではあっても、一地方諸国の王であり、『書紀』を見る限り「天子」や「皇帝」という自称は使用していなかったものです。)


(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2017/01/03)