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「肥の国」と「能」「謡曲」などの関係


 「能」で使用する「翁面」やそれを使用した「翁舞」は非常に古いものであり、面に「眉毛」があったり、「切り顎」と呼ばれる可動式の「顎」で出来ていることなど他の面に見られない特徴があります。
 これらの起源は「倭国王権」に服従した国が従順の姿勢を示すため「一族の長」が舞い寿詞(よごと)を述べたのが「翁舞」の源流ではないかと考えられます。

 「筑紫傀儡(くぐつ)」が現代に伝えた「筑紫舞」というものがあります。この舞の主要なレパートリーに「各地の翁」が「都」に集まり舞う、という趣向の「翁舞」があります。この舞は、その中心人物が「肥後の翁」なのです。「都」の翁が中心ではなく「肥後」が中心人物として行動します。舞う翁の数で何種類かありますが、頻度が多いのは「五人」から「七人」であり、たとえ「三人立」でも肥後と加賀(越)の翁は不可欠で、これらは古代からの倭国を支える有力な勢力(豪族)を示しているものと考えられます。
 この「翁舞」は「十三人立」まであったとされますが、現在は絶えています。多く舞われるのは「七人立」であり、この場合「七人の翁」とは「肥後の翁」「加賀の翁」「キの翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「出雲の翁」「夷の翁」となるようです。
 これらの国々は「倭の五王」により征服された地域を表すと思われますが、その中に「難波津より上りし」という表現がされている地域があります。これが「近畿王権」を表すと思われ「河内」か「明日香」だと思われますが、それを明らかにすることが「はばかられる」ため、このような表現となったものでしょう。伝統を絶えないようにするための方策の一つと思われ、苦心の跡がしのばれます。

 また『書紀』においては「景行天皇」遠征説話において「筑紫」と「肥後」は征服対象領域とはされていないのが注目されます。
 その足跡をたどるとまず「周防」の「佐波」から始まり、それから対岸である「宇佐」に行きます。「筑紫」から「宇佐」に向かっていないように見えるのは「筑紫」と「宇佐」の間にある「山城」(神護石)がそれを邪魔しているのでしょう。これらの「神護石」はこのような場合の防衛線となっていたと考えられ、「巡行」の噂を聞いた諸国は「警備」を固めていたものと考えられ、そのため「裏手」から攻め込むこととなったものと考えられます。
 続いて「日向」に行き、その後「薩摩」・「大隅」へと向かい、「肥後」に入ります。「肥後」に入ってからは戦闘シーンはなく単に巡行しているのです。これらのことは古代より「肥後」と「筑紫」は友好的関係にあり、他の地域とはその関係の密度が違う、ということを意味するものと考えられます。

 また「肥の国」との関連で言うと、「淡海」という言葉も注目されます。この「淡海」という言葉は従来「琵琶湖」のこととして考えられ、それに誰も疑問を持ってはいませんがよく考えると不審な点があります。
 「水野氏」などが言うように(※1)「和歌」に詠い込まれている「淡海」では「鯨(いさな)=くじら」がとれたり、千鳥が居たりするのです。
 「琵琶湖」には当然ですが「鯨」は居ませんし、千鳥も波打ち際にいるものですが、基本は「海」です。内海である「湖」に生息しているのは珍しいと言えるでしょう。
 一般に「枕詞」に使われる言葉は、その「枕詞」の対象物からの「連想」であったり、「比喩」であったり「近縁」であったりするわけですが、「鯨(いさな)取り」という言葉は「海」からの「連想」あるいは「近縁」であると考えるのが普通です。この枕詞」が「淡海」に転用されているのです。つまり、「淡海」が「近江」であれば「琵琶湖」のことですから、「湖」(淡水)に転用されていることとなりますが、他に「湖」に転用した例がありません。「湖」ならば必ず「鯨(いさな)取り」という枕詞が使われているかと言うとそうではなく、「淡海」だけの現象なのです。

 また、「淡海」の枕詞は「石(いわ)走る」ですが、全く意味が不明で、従来解釈に困難を極めていたのですが、石棺に使う「阿蘇熔結凝灰岩」を近畿に運ぶためには、切り出した「石」を運搬船に乗せて「有明海」を運ばなければならず、その光景はまさに「石(いわ)走る」という形容そのものと思われます。(これは「古賀氏」の指摘(※2))
 「淡海」を「有明海」ないしは「八代海」のことと考えた場合であれば、「千鳥」も居ますし、滅多にはないことですが、「鯨」も捕れます。
 これらのことは「九州」西岸に広がる「海」が「淡海」と呼ばれる場所であり、これは倭国の中心にあったものを遷都の際に全て「地名も含めて」移転したものという可能性を感じさせます。
 「淡」い「海」という言葉面も「有明海」のような「干潟」が多い海を表す言葉として適切ではないでしょうか。このようなタイプの海は「河川」からの流入水の占める割合が多くなり、特に河口近くでは塩分濃度がかなり下がっていて、まさに「淡い」つまり「塩味が少ない」という形容詞が適切であると考えられます。
 このことは「有明海」ないしは「八代海」において「淡海」という呼称が適切であることを示すものです。そう考えると「肥の国」と「淡海」とが強く関連することとなりますが、その「淡海」については「淡海帝」という一般に「天智」を表す呼称があることが注目されます。これが「琵琶湖」なのか「有明海」なのかは容易には結論が出せないこととなるでしょう。『令集解』柱の「古記」によれば「近江」の表記は「水海」と書かれていますが。これは現在の私たちが「湖」の訓として使用しているものと同一であり、これであれば「塩水」とは異なりますから、「海」と「水海」とは全く異なるものであるのは当然です。これで言えば「淡海」は「海」であって「水海」ではないこととなりますから、「琵琶湖」でないのは明白となるでしょう。


(※1)水野孝夫「阿漕的仮説 さまよえる倭姫」(『古田史学会報』No.69 二〇〇五年八月)
(※2)古賀達也「石(いわ)走る淡海 「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載」(『新・古代学の扉』)


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2018/08/06)