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秦王国と豊国と蘇我氏について


 『隋書俀国伝』の記事から判断して「秦王国」が「筑紫国」のすぐ東側にあるのは明確です。また「秦」の文字が使用されていることから「秦王国」には「帰化人」特に「秦」姓の人々が多くいる者と推測されます。現実にこのような場所として候補に挙がるのは「豊」国(今の大分県)です。『豊前国風土記(逸文)』によれば「香春」の地には「新羅」からかなりの数の人が渡来し、彼らの信奉する神社を建てたようです。

「鹿春の郷というは(清河原が)なまれるなり。むかし、新羅の国の神、みずからわたり来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神という」

 「行橋」や「中津」では大宝二年(七〇三)の戸籍で「秦部」の姓および秦氏が多く名乗った「勝(すぐり)姓」(または村主)が非常に多く、全体の八割以上を占めていました。また、彼らが「王」と仰ぐ人物がいて、彼が「秦王」と呼ばれたであろう事が推察され、ここが「秦王国」であったものと推定されるものです。
 ところで、「魏志韓伝」には「辰韓」について以下のような記述があります。

「辰韓在馬韓之東。其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵、其言語不與馬韓同。名國爲邦、弓爲弧、賊爲寇、行酒爲行觴。相呼皆爲徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人爲阿殘。東方人名我爲阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之爲秦韓者。始有六國、稍分爲十二國。」

 つまり、「馬韓」の東には「辰韓」という地があるが、この地は「秦」が戦争になったとき、それを避けてやって来た「秦人」が多く住み着いていて、言葉が違っている、というわけです。そのため「辰韓」は「秦韓」ともいうとあります。
 この「辰韓」(秦韓)の人々と、この『隋書』に言う「秦王国」には関係があると考えられます。
 特に「東方人名我爲阿」とあるように「自分」のことを「我」ではなく「阿」と言うとされていますが、『隋書』内の「倭国王」についての「自称表現に「號阿輩鶏彌」とされており、「我輩」という言い方を「阿輩」としているようであり、これは「魏志韓伝」に言う「東方人」の特徴と一致します。
 このことは「秦王国」には「秦韓」からの亡命者「渡来人」が多く占めていると考えられますが、「倭国王」の自称にも現れていることから考えてもその言葉の影響は「倭国」全体に及んでいると考えられるものです。
 「秦韓」の地は「馬韓の東」という地理的説明からも、その後「新羅」に併合されることとなった地域を指すものと考えられ、この地から渡来したしてきた人々による「国」が成立していたと考えられます。
 また、この地にこれほど多くの新羅系渡来人が住み着いた理由としては「金」「銀」「銅」の鉱物資源が豊富であったことや、養蚕・機織などの殖産も非常に活発であったことなどがあると思われます。
 また、のちに医術によって「文武天皇」から賞せられた「法蓮」がいたように、医術の名声も遠く「明日香」にまで及び、「五八六年」には「用明天皇」の病気の治癒を計るために、宮廷に「豊国法師」が迎え入れられたこともあるとも『書紀』に書かれています。

 また、『推古紀』二十年条に「推古天皇」の次の歌があります。

「(推古)廿(六一二年)年春正月辛巳朔丁亥条」「置酒宴群卿。是日。大臣上壽。歌曰。夜須彌志斯。和餓於朋耆彌能。訶句理摩須。阿摩能椰蘇訶礙。異泥多多須。彌蘇羅烏彌禮麼。豫呂豆余珥。訶句志茂餓茂。知余珥茂。訶句志茂餓茂。知余珥茂訶句志茂餓茂訶之胡彌弖。兎伽陪摩都羅武。烏呂餓彌弖。兎伽陪摩都羅武。宇多豆紀摩都流。天皇和曰。摩蘇餓豫。蘇餓能古羅破。宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。多智奈羅麼。句禮能摩差比。宇倍之訶茂。蘇餓能古羅烏。於朋枳彌能。兎伽破須羅志枳。」

 ここでは、「大臣」の「大君」を「寿ぐ」言葉に「和して」と書かれ、「大臣」(蘇我)の「寿詞」に「併せて」「寿詞」を奉っていると考えられるものであり、これは「問答」ではなく「蘇我」と「推古」が「共に」に「大君」に対して「お祝い」の言葉を述べている状況であることが推察できます。
 「蘇我」の歌が「大君」に対して末永く仕える旨の歌を贈呈しているのに対して、「推古」の歌の中では「於朋枳彌能。兎伽破須羅志枳使」というように、「大君」が派遣してくれた、という「蘇我」を「賞賛する」ことで「大君」に対して「感謝」する歌を贈呈していると考えられるわけです。
 当然「推古」自らが「大君が遣わすらしき」と述べているわけですから、ここでいう「大君」は自称ではないのは当然であり、明らかに「推古」とは「別」に存在しているわけであり、その人物に対して「寿詞」を捧げている、というわけです。(蘇我はその大君から派遣された人物として表現されているようです。)

 この「寿詞」は「正月」の「賀詞」であると同時に「前年」に行われた「遷宮」と「改元」に対してのものでもあったと思われます。
 「六一二年」という年は『二中歴』によれば「定居」と「改元」した年とされ、「肥後」の宮殿から「筑紫」の仮宮へ遷宮を行ったものと推量され、それに対するお祝いであったと思われます。
 またここでは「大君」という呼称(尊称)が使用されていますが、これは「皇」とは違うものであり「天子」を指す言葉ではありません。つまり、彼らが「お祝い」の歌を捧げた人物はこの時点では「即位」していないものと思慮されます。
 この「大君」は「利歌彌多仏利」を指すと考えられ、彼が「即位」する事となった「六一八年」までは、「大君」という呼称であったかと思料されます。

 また、「『日本霊異記』(上巻第五話)に「和泉の国の海に流れてきた楠で蘇我馬子が仏像を作り、「豊浦堂」に安置したが、「物部守屋」に非難され、隠したものの「道場」を焼かれ、多くの仏像を難波の堀江に捨てられた、という記事があり、この時「物部守屋」は「速やかに豊国に棄て流せ」と皇后に言ったとあります。
 従来はこの「豊国」は「百済」のことという解釈が一般ですが、当然「大分県」の「豊国」である可能性を考慮するのが正しいと思われ、蘇我氏の本拠地(出身地)が「豊国」であることの間接的証言と考えられますし、またこの「楠」の産地が「豊国」であったと言うことも示唆しているのではないでしょうか。
 現代でも「氏姓の地域分布」を見てみると「蘇我氏」は「大分県」に濃密に分布していますし、そもそも「楠」が「流れ着く」という書き方が「象徴的」であり、これは「楠」の「本場」とも言うべき「九州」(豊国か)から「仏像」を彫るために「楠材」を贈呈(下賜)されたと言うことを意味するものでしょう。
 この「楠」は九州特産の木であり、特に「大分県」の奥に特に良質な「楠」の産地があったとされますが、この話の中でも「霊木」とされていますから、普通の木ではないわけであり、それを使用して「仏像」彫刻を作ったというわけです。その際には「仏師」(彫り師)も派遣されたものと推察されます。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/01/29)