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「申楽」について


 「世阿弥」が著した『風姿花伝』には「申楽の始原」についての記事があります。

(『風姿花伝』序)
「…それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるは仏在所より起り、あるは神代より伝ふといへども、時移り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力およびがたし。ちかごろ万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり。…」

 つまり、「推古天皇」の時代に、「聖徳太子」が「秦河勝」に命じて「天下安全」、「諸人快楽」という目的のために「六十六番の遊宴」というものを作成したというのが「申楽」の起こりであるというわけです。
 また、この「六十六番の遊宴」というものについては、当時倭国内に疫病や飢饉が発生し、その際「六十六番」の「物まね」を、「六十六」の面を作って舞ったところ、天下が治まった、という伝承に基づくという伝承もあります。その意味で『書紀』で「敏達」付近の天皇などが多く「天然痘」で亡くなったらしいことが推定されていること関連しているとも考えられます。(但し実際には「欽明期」の「五七〇年付近のことと考えられますが)

 そもそも「申楽延年」と言い方からも判るようにこれが「天皇」(倭国王)の寿命を延ばす「呪術」的なものとして始まったと考えられるわけであり、それは「君が代」ともつながるものであった見られることとなります。その「君が代」は「善光寺」への「祈願文」との関係からも「倭国王」の延命を願うものと推察され、その「善光寺」が「天然痘」とおぼしき「熱病」に対する治癒効果のあるとする経典(『請観音経』)を核とした寺院であることを考えると、この「倭国王」についても「天然痘」で苦しんでいたという可能性が出てきます。またそれは「倭国王」だけではなく多くの人々が苦しんでいたことを示唆するものであり、それを救済するために「呪術」的意味も込めて「仮面」を付けて舞うということが行われたものではないでしょうか。つまり元来が「倭国王」に奉仕する一環として制定されたものと見られ、「長命」を「言祝ぐもの」あるいは「延命」を願うものという意義もそこに含まれていたと考えることができるでしょう。

 ただし、『隋書』の記述から、「楽制」が「六世紀末」になって「隋」から倭国に導入されたらしいことが推察されていますが、その際に「楽舞」も改めて定められたものと見られ、それが「申楽」の起源と関係があるという可能性も考えられるところです。
 すでにみたように「古墳時代」つまり仏教が導入される以前から「古墳」(特に前方後円墳)での祭祀に関わるものとして「遊舞」というものがあったと見られますが、「隋」から「訓令」として「古典的」な「祭祀」について否定され、その影響で「前方後円墳」の築造が停止されると、「遊舞」は「古墳」における「祭祀」から切り離され、「儀仗」などとともに「国楽」として再編成されたとも考えられます。
 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」は「隋」から「訓令」によって伝えられた「法華経」に深く帰依することとなり、「法華経」の世界をこの世に具現化するために「六十六国」に倭国を分割しその各々の国に「六十六番の遊宴」を割り当てたのではないでしょうか。
 この「六十六国分割」は全国(西海道、南海道、山陽道、山陰道、東海道、東山道)にすでに成立していた各国を「法華経世界の具現化」のために「前・後」などに「強制分割」したり、「小国」はそれを合同する形で一つの国とするなどして「無理」に「六十六」という数字に合わせたものと思われます。そのため、この時点で「筑紫」が「筑前」と「筑後」に「肥の国」が「肥前」と「肥後」に分割されるなどの行政区分変更が行われたと見られます。
 『隋書』に記された「裴世清」の行程中には「竹斯国」という表記が現れており、このことから彼が「倭国」へ来た時点ではまだ「筑紫」は前後に分割されていないこととなり、「六十六国分国」事業はその後のことと推察されることとなります。
 このような「分国」は「法華経」を現実にするための数あわせのためもありますが、統治・支配の徹底のためでもありました。このような行政制度の細分化は即座に王権の意志を末端に短期間に透徹させることができるものであり、「強力」な支配体制を構築するためには必須の制度改正であったと思われます。

 また「申」楽という名称の起源もいろいろあるようです。「世阿弥」の言葉によれば「神楽」なので神という字の旁をとって「申楽」と云う、とありますが、この説明は甚だ不審です。考えられる一番素直なものは「申」年に作られたから、というものでしょう。
 「聖徳太子」(阿毎多利思北孤)の在世中という範囲でこの年の候補を探すと、「六〇〇年」(庚申)が有力と思われます。この年は「遣隋使」を送ったという年でもあります。それは『隋書俀国伝』の「大業三年」の年次に書かれた「裴世清」を迎える記事中に「鼓角を鳴らして」という形容で楽制が定められていたらしいことが書かれていることに対応しているという可能性があるでしょう。(「鼓角」は「能」の伴奏楽器として使用されており、それも「隋」からの「楽制」の導入と「能」(申楽)の始源とが関連しているということを示唆するものです。)


(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2018/08/06)