(以下は「古川清久氏」の研究(※)に準拠します。)
「肥の国」は「肥前」(佐賀・九州)と「肥後」(熊本)に分かれている形となっています。間に「有明海」を挟んでいます。というより、「前・後」に分割される前は一国だったわけですが、(間に「筑後」が割り込んだ形となっている)当然その領域「支配地域」には「海」を含んでいます。小さいながら「海峡国家」であったわけです。
この「肥前」と「肥後」の両地域には「同一地名群」が存在しています。それは玉名市の「伊倉」周辺と佐賀県の「江北」町周辺です。そしてそこには更に共通なものとして「天子社」というものがあります。
多数ある「天子社」の分布(の「変遷」)を見てみると、「太宰府天満宮直轄領」には「天子宮」が存在していたものの、どんなに距離が近くても「宇佐八幡宮直轄領」内には存在していなかったとされます。
それに対し「天神社」の分布はこれと逆になっていて、「天満宮直轄領」内には「天神社」はなく、「八幡宮領」内にしか存在していないのです。いわば互いに「排除」しあっていたわけです。(ただし、これは「江戸時代」初期のころのこととされており、その後「相互に排除する」関係は目だたなくなっていったもののようです。)
「天神社」は一般に「菅原道真」の怨霊封じのために祀ったものと考えられていますが、それにしては「天満宮」から拒否されているのが理解しにくいことです。実は「菅原道真」が「天神」として祀られる以前から、「天神社」は存在していたのです。これが何を意味するのかというと、諸説はありますが、私見によれば元々(この地域では)「天神社」は「物部」を祀っていたとみられるのです。そして「天子社」は「天子」という名称通り『隋書』にいう「倭国王」「阿毎多利思北孤」を祀っていると考えると、互いに排除している理由がわかります。
「太宰府天満宮」は倭国(倭国王)直轄神社ですから、「天子社」があって不思議はありません。「物部」と「宇佐八幡宮」に関係があるとすると「天神社」を容認している理由もわかります。
「高良記」によれば、「宇佐八幡宮」は九州全体の「宗廟」の座を「高良大社」から譲られたとされていますが、この「高良大社」は「物部」そのものであったとされています。この「高良大社」から「平和的」に禅譲された理由も「宇佐八幡」と「物部」の間に「一種友好関係」があったからではないかと考えられます。
「阿毎多利思北孤」は「開皇末」(六世紀末)に「隋」に使節を送り、その中で自らを「天子」と称し、「隋皇帝」に対等性の主張をして不興を買ったわけですが、その様な行動の裏側に「物部」の排除が行われたことがあったと思われる訳です。
『書紀』によっても「「排仏」論者であったとされる「物部守屋」を打倒することで「王権」が確立されたような書き方となっており、「阿毎多利思北孤」の王権が「仏教」に対して親和的であったことは間違いないものであり、その意味で「物部氏」と競合する関係にあったことは事実と思われます。その意味で「物部」を祭る「社」と「阿毎多利思北孤」を祭る社が互いに排除しあっているというのはそれほど違和感のある話ではありません。
ところで「阿毎多利思北孤」の「北」と「孤」は「天子」に関わる用語でとされます。「北」は「天子の座」を示し、「孤」は「天子」の「自称」(謙称)とされますから、「阿毎多利思北孤」と名乗った最初の「遣使」時点ですでに「天子」(皇帝)の意識があったこととなります。ただそれを「明言」していなかっただけであったと思われるわけです。そして、その時点ではまだ「肥後」に拠点があったものと思われるわけであり、そのためこの時点で「日本国」及び「天皇」という呼称を始めたとみられるわけです。
「日本」という国号と「肥」(日)という国名には重大な関係があるとみるべきであり、この時点で権力の中心は「肥」にあったとみられるわけです。
この「肥」の国が「倭国」の中心であったのは「倭の五王」以降のことであったと思われ、それはその後「筑紫」に首都を設け「難波」に副都を設けるということとなった七世紀初め付近まで継続していたものと思われるわけです。
この「遣隋使」という時点において「肥の君」や「阿蘇の君」等の「地場」の有力な勢力の支援の元、「肥の国」から「拡張倭国」としての「筑紫」「豊」を中心とした「列島」の諸国を支配する体制へ移行することとなったものでしょう。その当初の中心が「肥後」の「玉名市伊倉町」周辺だったものであり、副都的な仮宮を「肥前」「佐賀県江北町」に設けたというとではないでしょうか。
この「肥後」の地に「倭国王」がいたことを示唆するように『肥後国風土記』(逸文)や『肥後国史』には「腹赤魚」(ニベ)についてのエピソードが書かれ、それに拠れば「贄」(にえ)として「毎朝」「倭国王」の元に「腹赤魚」が「献上」されていた、と書かれているようです。つまり、「産地」直送の新鮮な魚を献上していたというものであり、後の時代の「調」として献上された「塩漬け」などの魚とは趣を異にするものです。これは「倭国王」の所在するところまで「僅かな時間」で行けることが前提の話のようであり、これは前記した「玉名市伊倉」周辺に「倭国王」の宮殿があったのなら可能なストーリーとなっているところが重要です。(別途述べますが「日の出」「日の入り」など天文観測を行った場所としてもこの「玉名」付近(「鞠智城」も含む)地域が措定され、その場所が「都」であったことが推定されることとなっています。
この「肥前」と「肥後」の間に「筑後」が割り込んできたのは「筑紫」に中心を移動させることとなった「七世紀初め」のことと考えられ、「利歌彌多仏利」による「六十六国分国」の時点の事と考えられます。
その「六十六国分国」の行われた時期は「古代官道」の敷設された時点が考えられ、この「官道」はその性格上それを越えた往来が事実上出来ないものであり、そのため「地域」が分断され「国境」が形成されることとなったと思料されます。
この「古代官道」は「肥前」と「筑後」の境界を形成しており、「肥」の領域が「筑後」によって分割された時点がこの「官道」の敷設時期であることが推測され、それは「筑紫」が拡大されたことを意味しますから、この時点付近で「倭国王」は「筑紫」へ「移動」し、そこに本拠を構えることとなったものと推測されますが、それに併せ「拠点」として「玉名」から「菊地」付近に場所を変更し、そこに「山城」を築き、「官道」を通して、「阿蘇」などとの「軍事的連係」を考えた「交通体系」を構築したものと思料されます。
このように「強い権力」を持った「王」により「官道」が敷設され、その「官道」によって「肥」領域は「強制的」に分割され、一部の領域を「筑紫」側に「割譲」するという事態が発生したわけであり、そのことと分割された「肥前」と「肥後」の「天子宮」周辺に同一地名があることは関係していると思われ、「肥後」を治める「王」と「肥前」を治める「王」の二人により分治することとなったのではないでしょうか。
(※)古川清久「伊倉(いくら) 天子宮は誰を祀るか」(『古田史学会報』八十一号 二〇〇七年 八月十五日)他
(この項の作成日 2011/01/14、最終更新 2018/08/06)