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阿蘇山と「如意宝珠」


 『隋書俀国伝』には「遣隋使」が「隋」を訪れ「隋皇帝」から「下問」された際の返答として「倭国」の風俗が種々書かれていますが、そこには倭国の名勝として「阿蘇山あり」と書かれており、その噴火の様が「理由なく『火』が起こり、天に接する」と書かれています。また、「祷祭を行う」と書かれており、宗教的な儀式がそこで行われていたとみられます。
(以下『隋書俀国伝』の一節)

「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」

 ところで、縄文時代の遺跡として「ストーンサークル」といわれる遺跡が国内で多く発見されていますが、これらが火山の周辺で発見されるものであり、ここで当時の人々により「火祭り」の儀式が行われていたことは確実と考えられます。
 日本は火山国ですから、各所で地震や火山の噴火が絶えず、これらが古代の人々にとって「異とする」(『隋書』による表現)ことであったのは当然です。(現代においても事情はあまり変わらないでしょう)

 「古墳時代」を通じて、近畿などで「阿蘇灰色凝灰岩」を「石棺」の材料に使用した古墳が見られるわけですが、一般に「葬儀」あるいは「殯」というものが高度に宗教的儀式なのはいうまでもありません。そのことは「埋葬」に使用される「石棺」というものも、この宗教的な儀式で重要な役割を果たすわけであり、その材料を「あえて」遠方の九州より取り寄せてまで使用する動機、というものもやはり「宗教的」な部分が多いこととならざるを得ないものと思われます。もちろん「政治的」、「軍事的」圧力のもとではありますが、「九州」とか「阿蘇山」というものに「祭政」や「宗教」についての「重要な」意味がある、ということと推察されます。
 時代が下って国内に仏教的観念が導入されても何らかの「儀式」が火山に対して行われたであろう、と考えられます。つまり、死者の魂を送る儀式としての「火祭り」という形式がすでに以前から存在していて(古神道形式か)、それが九州では「阿蘇山」と関係していたのですが、仏教が導入された際に、仏教の形式を用いた「死者の魂を送る儀式」に変化したものであり、それが『隋書』にいう「祷祭」と考えられるのです。

 先の記事は、この情景描写が「伝聞」ではなく「実見」したものと判断できます。それは「云」という語が「魚眼精也」だけにかかっていることから明らかだからです。この記事が「遣隋使」が「所司」に問われて答えたものであるとすると、この「祷祭」や「如意宝珠」を実見したのは「遣隋使」であるということとなります。つまり、実際に「遣隋使」本人はその「如意宝珠」を見ているが、その実体が何かは判らないというわけで、彼が伝え聞くところによると「魚」の「眼精」とのことであるというわけです。
 またこの「如意寶珠」記事はそのつながりから「阿蘇山」とそこで行われている「祷祭」に関係しているのは明らかですから、「阿蘇山」が「遣隋使」の行動範囲に入っているのは確かでしょう。つまり「遣隋使」として選ばれた彼は(彼ら)は「九州」しかも「肥の国」に深く関係した人物であると推測できるわけです。

 これに関しては古田氏は「隋使」(裴世清)が実見したと理解されていますが、そうではないと考えます。それはこの情景描写を含む「倭国情報」全体が、「隋」を訪れた「遣隋使」が語った内容と考えられるためです。
 さらに、ここで「無故」という言い方がされており、これを古田氏は生前に講演などで「禁止」の意に取って解釈されていましたが、「無故」自体には「禁止」の意はなく、それを含む文章全体として「禁止」の意味がある場合があると云うだけのものと思われます。
 たとえば『書紀』の「有馬皇子」の「乱」の一節や、『続日本紀』の『文武紀』にも「無故」は登場していますが、そこでは「理由もなく」という意味以外には使用されていません。

「(斉明紀)有間皇子與一判事謀反之時 皇子案机之脚 『無故』自斷。其謨不止 遂被誅戮也。」

「文武四年(七〇〇)八月戊申(丙午朔三)宇尼備。賀久山。成会山陵。及吉野宮辺樹木、『無故』彫枯。」

また「中国」の使用例でも同様に「理由がない」という以上の意味はありません。

「冬十月,武皇有疾。是時晉陽城『無故』自壞,占者惡之。」「(新)唐書卷二十六 武皇 李克用 紀下 」

「…又,北夢瑣言載趙崇凝之辭曰 張策衣冠子弟『無故』出家不能參禪訪道。抗跡塵外、乃于御簾前進詩。希望恩澤如此行止豈掩人口。某十度知舉十度斥之。…」「梁書列傳卷十八 梁書十八 列傳第八 張策」

 他の「中国」の史書の類にもいくつか散見されますが、「禁止」の意義が確認できるものがありません。『隋書俀国伝』の例も同様であると判断せざるを得ないものです。
 更に古田氏はこの「無故」に続く文章は「阿蘇山」とは関係がないという見方をされていたようですが、それでは「有阿蘇山」という文章が「浮いて」しまうでしょう。それに続く「其石」というのが「何の石」なのかも不明となってしまいます。明らかにここでいう「其」という指示代名詞は「阿蘇山」に掛るものであり、「其石」とは「阿蘇山の石」としか理解しようがありません。そうすると「無故」とは「其石」に関することとしか考えられないこととなります。とすれば「無故」なのは「阿蘇山の石」のこととなるわけで、決して「高良山」の山城の石垣のことではありません。そんなことはそれこそ「どこにも」書いていないことです。
 別の見方をすると、そうでなければここで「阿蘇山」という「特徴」のある「山」が取り上げられる理由がないこととなります。つまり、「阿蘇山」は有史以来活動を続けている火山であり、「阿蘇山」と言えば「噴火」「墳煙」「地鳴り」など「活火山」特有の「驚嘆すべき」現象がその最大の特徴ですから、人々はこれを「畏敬」の対象としてきたものとして不思議はありません。
 『隋書俀国伝』で「阿蘇山」が登場する理由、すなわち「遣隋使」が「倭国の風俗」を語る際にこれは外せないと思ったのもほぼ同様の理由と考えられ、「中国人」にわかりやすく「火山」を形容する文章として「其石無故火起接天者」という文章が書かれたと考えられるものです。(これは「火山弾」つまり、噴火の際に「噴火口」から周囲に「火の塊」となって飛散する「溶岩」が冷えたものが一面に散乱していることを説明した文章ではないかと考えられます)
 当然ここに書かれた「祷祭」も「延々」と続く「阿蘇」の火山活動と共に行なわれてきた「縄文」以来の「火祭り」的儀式の延長と考えられ、この地で古くから行われてきたものと推察されるものです。そして、その中に「如意寶珠」といういかにも仏教的なものが登場するわけです。

 仏教の経典によれば「如意寶珠」とは「大魚の脳中」にあるものとされ、これは実体としては「魚の眼精である」という『隋書』の記事と符合しています。このように仏教の一般化というものが、既存の「日本古来」の伝統と融合しながらのものであったことが知られます。
 この「倭国情報」記事は「遣隋使」の語ったものをまとめたものが中心と思われますが、その「遣隋使」の派遣された時期が従来の想定よりもっと遡る時期(開皇年間前半)であったことが推定されるとすると、その中で「如意寶珠」信仰が書かれていることは「火祭り儀式」の「仏教化」というものがその時点をかなり遡上する段階で進行していたことを示すと考えられます。
 ただし、ここで「如意寶珠」という仏教用語が出てくるのはただ単にそれが「倭国」の「俗」として存在していたからと云うわけではなく、それが「隋」の「皇帝」(高祖)からの下問に答えるものであったという状況が重要であると思われます。

 「高祖」は「北周」から「受禅」の後、それまで抑圧されていた仏教を解放し、国教として大々的に拡大していたものです。この時の「倭国」からの使者もそれを知っており、それに「合わせる」形で「高祖」の気に入るような返答をしたという可能性があるでしょう。「如意寶珠」信仰が「俗」として広範囲に行われている、という実態を述べることで「仏教文化」が存在していることを示唆することとなり、そのことが「高祖」により好印象(歓心)が得られることを見通していたことが推定できます。(この「如意寶珠」が「北朝」からの伝搬であったことを承知していたものかとも推察される)

 ここで行われている「祷祭」が「阿蘇山」という「山」に関係した人々の信仰に関わるものであることは明白ですが、一方「如意寶珠」は上で見たように元々「大魚」の「脳中」にあるとされ、「海」に縁が深いものであり、「海」の人々の信仰とも深い関係があったと見ることができます。
 この事は「山」の人々に受け入れられる前に、海の人々(海人族)にまず受け入れられ、その後「山」の人々が受け入れていった過程が表されていると考えられますが、このような「如意寶珠」受容のプロセスはすでに述べたように「神話」の「海幸彦」「山幸彦」の説話を彷彿とさせるものです。
 「神話」では「山幸彦」(彦火火出見尊)が海に行きそこで「海神」より「干満の珠」を受け取り、それを操って「山」にいる「海幸彦」を支配下に置く、というストーリーが語られますが、これに上に見る「如意寶珠」受容過程が非常に近似していると考えられます。つまり「干満の珠」と「如意宝珠」とが同一化されていると思われ、この事は「海幸彦山幸彦神話」の「祖型」というものが、「遣隋使」派遣時点をかなり遡上する段階で形成されたことを強く示唆するものです。そう考えると、「如意寶珠」に関連するものとして、「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中に「一にいわく、彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」とあるのが注目されるでしょう。
 さらに、『香椎宮縁起』から引用した文章が、『八幡宇佐宮御託宣集』にありますが、それによれば「善紀元年壬寅年」に「大唐」から「八幡大菩薩〔大帯姫也〕」が日本に「還り給いて」、「筑前國香椎に住み居り給う。」とあります。また別の文書『八幡宇佐宮繋三』によれば「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ」とあり、「大菩薩」が「如意宝珠」を求めている事が記されています。
 これは「如意宝珠」が原初的な形で一旦倭国内に入り、「如意寶珠」信仰が始まって後、かなり時間が経過してから、「法華経」の伝来に伴い再度「脚光」を浴びるような事態が起こったことを示すのではないかと考えられるものです。
 すでに見たように仏教の伝来そのものが「五世紀」の初めではなかったかと考えられています。また『二中歴』の記事自体が干支一巡遡上するという可能性を孕んでおり、それらを考え合わせると、上の「宇佐八幡宮」に伝わる伝承としての「教倒四年」は通常考えられている「五三四年」ではなく、「四七四年」ではなかったかと考えられることとなります。つまり当初の「如意寶珠」信仰の伝来は「倭の五王」の「武」の時期まで遡上する可能性があると考えられることとなります。

 すでに述べたように仏教の伝来そのものが当初「北朝」系統のものであった可能性が指摘されています。それは「倭国」に仏教を伝えたのが「百済」からと見られる訳ですが、その「百済」の仏教は当初「高麗」からの伝搬であったからであり、更にその「高麗」の仏教は「北朝」の前身である「前秦」からのものであったと考えられているからです。
 「前秦」に伝えられた仏教は「天竺」(古代インド)からのものであり、南方の要素を含んでいました。「摩訶陀国」からという伝承にはそのような傾向が読み取れるものであり、「倭国」への仏教の伝来も「北朝」経由のものであったと考えられる訳ですから、「如意寶珠」信仰という南方要素がここで見られるというのは不思議ではないこととなります。そして、それが「九州島」の中から大きくは広がらず「阿蘇山信仰」と合体同化することにより、九州島の中で熱烈な信仰となっていたという可能性が考えられるでしょう。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2018/11/24)