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「利歌彌多仏利」のこと


 ところで「倭国王」の「太子」として「利歌彌多仏利」という名称が出てきます。

「…名太子為利歌彌多弗利…」(隋書俀国伝)

 このように「名A為B」つまり「Aを名付けてBと為す」という文型は『隋書』では「帝紀」には一例も出てきません。全て「志」と「列伝」です。この状況は「遂絶」という文型の場合と非常によく似ています。たとえば『扶桑伝』があります。

「…其土多扶桑木,故以為名。」(『梁書/列傳第四十八/諸夷/東夷/扶桑國』より)
この「故以為名」という部分は「名国為扶桑」という文章の省略であり、これは「名太子為利歌彌多弗利」と同構造となります。

 ただし類似の例としては「大興城」という命名についての記事において『名新都曰大興城』という文型が使用されているものや「皇太子」に命名した記事においても『名皇太子曰勇』と書かれており、これも同様であると思われます。これらは「為」と「曰」とが入れ替わっているだけのものですが、逆に言うとここではなぜ「為」ではないのかと言うことが問題となるでしょう。
 出現例を調べてみると「名A曰B」という文型はかなり多くこちらの方が「一般的」ともいえるのかも知れません。しかし実例から考えても特に意味上の違いは感じられず、相互に互換できる性質のものと思われます。

(以下「名A曰B」の例)
「十二月辛未,上講武於後園。甲戌,上柱國竇毅卒。丙子,『名新都曰大興城』。…」(隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇二年)

 これらの例は「新都」を「大興城」という名称としたものであり、「皇太子」に「勇」という名前をつけたというものです。これらは「名」つまり「名付ける」という行為の内容を良く表していると思われます。
 それに対し「名A為B」の例においても実際にはほぼ同様であり、「名称」をつける、「命名」するという語義以上のものは見受けられないと思われます。

(以下「名A為B」の例)
「帝曰:「圓丘自是祭天,先農即是祈穀。但就陽之位,故在郊也。冬至之夜,陽氣起於甲子,既祭昊天,宜在冬至。祈穀時可依古,必須?蟄。在一郊壇,分為二祭。」自是冬至謂之祀天,『啓蟄名為祈穀』。」(隋書/志第一/禮儀一/南北郊)

「後魏?攻戰剋捷,欲天下知聞,迺書帛,建於竿上,『名為露布』。其後相因施行。…」(隋書/志第三/禮儀三/露布)

「初齊武帝造大小輦,並如?車,但無輪轂,下橫轅軛。梁初,漆畫代之。後帝令上可加笨輦,形如犢車,自茲始也。中方八尺,左右開四望。金為龍首。飾其五末,謂轅轂頭及衡端也。金鸞棲軛。其下施重層,以空青雕鏤為龍鳳象。漆木橫前,『名為望板』。…」(隋書/志第五/禮儀五/輿輦/梁)

「五牛旗,左青赤,右白黑,?居其中,蓋古之五時副車也。舊有五色立車,五色安車,合十乘,『名為五時車』。」(同上)

 「扶桑国」の例も含めこれらはいずれも「為」を「曰」に変えても意味は全く変らずに通じます。いずれにしても「為す」「言う」の違いは「名」という動詞でほぼ中和され、同一の行為の内容に帰結すると思われます。つまり「太子名為利歌彌多仏利」というのは「太子名曰利歌彌多仏利」と何も変らないこととなるでしょう。(たとえば「扶桑」が「国」の意味ではなく「国名」であるのは議論の余地がありません)

 また古田氏によってこの「利歌彌多仏利」は『「り」かみとうの「り」』と読むとされ、それを支持する方も多いようですが、この部分を含む「開皇二十年記事」の全体が「基本的」には「遣隋使」の語った内容の集約であり(その後「来倭」した「裴世清」のもたらした情報がそれに添付された部分はあるとは思われるものの)、ここに書かれた内容について理解する際には原則として「遣隋使」が語ったものとするべきであると思われます。その意味では「遣隋使」が「鴻臚寺掌客」(裴世清)にどのようなことを語ったかを考えると、「かみとう」という地名付きの名称を語るとは考えられないと思われます。その地名に対する情報が「鴻臚寺」や隋皇帝には全く不足しているからであり、「遣隋使」が「太子」の名前を述べるのにそのような地名入りで説明をするものか大変疑問です。ここで「太子」の名前を言うのであれば(それが「利」ならば)「利」と言います、というだけで意図を達せられるわけですから、「かみとうのり」という説明的なものが付加されているとは考えられないと思われます。
 また「阿毎多利思北孤」についてはそれが「字」とされています。「諱」ではないとするわけですが、この「利」の場合はそれが「諱」なのか「字」なのか「称号」なのかさえこの文章からは不明です。このことはこの「利」を「太子」の「名」(特に「諱」)であるとすることは即座にはできないことを意味するものです。つまり、「利歌彌多仏利」についてはこれが全体としのて「一語」を為していると考える必要があると思われます。しかしそうであれば「阿毎多利思北孤」のように「語頭」に「ラ行」が立たない形で命名されていたはずと見られることとまた矛盾してしまいます。
 これについては語頭の「利」が「和」であるという可能性が高いものと推定します。ただし、語尾に「ラ行」が来るケースは日本語では普通にありますので、これはそのまま「利」であろうと思われます。

 ところで、「長屋王」の邸宅跡と見られる場所から多量に発見された木簡群(いわゆる「長屋王木簡」)の中に「若翁」という呼称が頻出します。この「若翁」という呼称の対象者は調査の結果「長屋王」の子息の内「未成年」の者達についてのものと推定されています。そしてこの「若翁」というものが「和歌彌多仏利」と等しいという研究が出ています。これが正しいかすぐに結論は出せませんが、もしそうなら「利歌彌多仏利」がそうであったように「若翁」とは「太子」、つまり「天皇」の後継ぎを示すものであると考えられることとなりますが、それを即座に「長屋王」が「至上の地位」にいたことを強く示唆することとなります。それを示すように「長屋王家木簡」からは「勅旨」の他「大命符」「大御食」「大御衣」などいずれも「天皇」に直結する語が書かれた木簡も発見されており、その文章からその対象が「長屋王」であるのは明白ですから、はっきりと「長屋王」が「最高位」(天皇位)にいたことを示しています。このことはすなわち「太子」つまり「天皇」の後継者でありまた「未成年」である人物について「若翁」と称されていたこととなるものです。
 
 ここで使用されている「翁」という語は一般には「男性の老人」を指すとされていますが、「道教」においては「神」は全て「老人」の姿をしているとされますから、その意味では「神」の化身ともいえると同時に、一説には「北極星」の意であり「大乙」と同義ともいわれます。(※)「北極星」の道教的呼び名は「天皇大帝」であり、これは「天皇」の語源とされているわけですから、「翁」とは「天皇」を意味することとなります。
 この「北極星」つまり「北辰」は「密教」の経典によれば「妙見菩薩」と称されていますが、その「妙見信仰」が倭国に登場したのが六世紀末のこととされており、そう考えると「翁」が「天皇」の意を持つ時期も同様であり、『隋書俀国伝』の「利歌彌多仏利」が「(若)翁」を称号として持っていたとして不審ではないこととなるでしょう。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/02/05)