『隋書俀国伝』の「倭国」の官職制度の説明箇所を見てみると以下のようです。
「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」
この記載によると「軍尼」という「官職」について「猶中国牧宰」という言い方をしています。この「軍尼」記事はその記事の配列の仕方から見てもそれ以前に出てきた「内官」記事と相補的なものと思われ、「内官」が「京師」あるいは「畿内」においてのものであるのに対して、それ以外の「諸国」における「軍尼」という対応ではなかったでしょうか。それを示すのは「牧宰」が「漢代」以来「州」の長官を意味するものであることです。これが「諸州」に配置されているという体制があったとするとそれは「内官」と対として考えるべきであり、これらが相互に機能して「倭国」の統治体制を形作っていたことを示します。このような体制が「遣隋使」が派遣された「隋初」には既にあったということとなるでしょう。
この「牧宰」に例えられている「軍尼」は「倭国」の場合は「州」ならぬ「国」の長官であるという考え方もできそうですが、しかしその直属の部下であるとされる「伊尼翼」について「里長」のようであるといっています。
この記事は「開皇二十年」つまり「六〇〇年」の年次として記録されているものですが、これが実際には「隋初」段階の記事であることが強く推定されることとなっています。その「隋初」段階(「文帝」の治世期間)の「隋」の行政制度は「州県制」でした。これは「漢代」以来の「州-郡-県(-里)というものを変更し、「郡」を廃止して「州」の直下に「県」を置くように変改したものです。
「(開皇)三年十一月…甲午,『罷天下諸郡』。」(『隋書』帝紀第一/高祖楊堅 上/開皇三年)
この「開皇三年」以降については「州」の責任者である「牧宰」の直属の部下は「県令」(県長)であったこととなります。しかし、ここでは「軍尼」の直属として「里長」のようであるという記載されており、逆に言うとその直属上長とも言える「軍尼」は「県令」のようなものでなければならないはずです。しかし、文中では「牧宰」と形容されているわけであり、「県令」とはされていません。
後の『大宝令』以降では「牧宰」は「国司」と同義ですし、「県令」は「郡司」と同義です。「里長」はその「郡司」の下位職掌のはずです。しかし、『隋書俀国伝』の記載では「国司」の下に直接「里長」がいるというように捉えられてしまいます。これは一見「階層」として「矛盾」があるように見えます。このことからこの「州」に対応すると思われる「国」が示す領域は、実際には「小領域」であり、「国造」が管掌していた領域を指すものと見られることとなります。
これに関連していると思われる記事が『常陸国風土記』にあります。
「古者 自相模国足柄岳坂以東諸県総称我姫国 是当時不言常陸 唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国 各遣造別令『検校』(実際にはいずれも「てへん」)」
これらによれば、「古」は「唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国」ということであり、後の「常陸」のような上部組織である「国」ではなく、後の「県」に相当する狭い範囲を示す「国」(クニ)しかなかったというのです。
つまり「軍尼」が「百二十人」いると言うことは、その数の多さから言っても「唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国」のような「小国」の「国」(クニ)について管掌していた役職であったと考えられるわけです。
このように「国」の下に「縣」がある体制は「隋」にその例があるわけであり、『風土記』に書かれた「縣」も同様に「小領域」としての「国」と同等であると思われますから、これは「隋」に学んだものと考えるが正しいこととなるでしょう。そうであればその「縣制」の施行時期は「開皇年間」が最もふさわしいと思われます。
また、『常陸国風土記』によって描写されている時期には「古」という時期が現れています。
「古老曰 筑波之縣 古謂紀国 美万貴天皇之世 遣采女臣友属 筑箪命於紀国之国造 時筑箪命云 欲令身名者着国 後代流伝 即改本号…」(『常陸国風土記』)
これをみると「古老」の語る言葉としての「現在時点」として「縣」があるとされているわけであり、それ以前は「国」であったというわけです。当然この「古老」の生きている時代は「縣制」が行われているわけですから、その時期は上に見たように「開皇年間」以降であることとなります。
またここでいう「国」はいわゆる「クニ」の示す領域に等しく、更にそれは「縣」が示す領域とほぼ変らないと見られることとなります。さらに「クニ」から「縣」に変わった段階というのは、「我姫」が分割され大きく八つに分けられた時点を指すと思われ、「広域行政体」としての「国」が成立した段階でもあると思われます。つまりこの時点で「国―縣」制度となったものと思われるわけです。しかし「評制」はすでにみたように「半島」における制度の導入であったと思われますから、その「原初的」な導入は「百済」から文物を導入した際に一緒に導入したものと思われることとなります。そうすると少なくとも「遣隋使」を派遣し「隋」の制度を学ぶという時点で、「評制」も学んだとか、「評制」を施行するということはかなり想定しにくく、少なくとも「遣隋使」が帰国する以前のことであったろうと推定できます。
そう考えると『隋書俀国伝』に書かれた「軍尼」が百二十人いるという段階でも、「官道」が通じ「屯倉」が設置されていた地域には「評」の制度があったと見るべきこととなります。つまり、少なくとも「軍尼」が掌握していた領域の一部は実は「評」ではなかったかと考えられることとなるでしょう。それは後の「評」の規模として「七五〇戸」程度ではなかったかと考えられることと整合します。
『隋書』では「伊尼翼」の管掌する領域は「八十戸」を単位としていると書かれており、それが「十」集まって「軍尼」の把握する領域となるとされていますから約八百戸となりますから、構成される戸数が近似しています。これは「制度」の存在時間帯があまり違わないことを示すものです。そして、それがある時点になって「国-縣-村制」が成立したものであり、それは「遣隋使」派遣による「隋制」を学んだ影響と思われるわけですが、その時点では「評」が「縣」と「並行的」に共存していたものではないかと推察できます。
「評」は「屯倉」に付随するものであり、それは「王権」に直結するものという特有の性格があったと思われます。「評」は諸国に配置されていたものであり、「諸国」つまり「附庸国」から物資を貢納させるための軍事的・行政的末端組織であったと思われます。それに対し「縣」は「直轄地」に施行されたものと思われ、当然「貢納」する義務を負っていたわけではないものであり、「評」やその監督官である「評督」などの存在とは無縁であったはずです。これらからみて「我姫」の中でも「常陸」が直轄地であったという事情を反映していると思われます。
その時点で「我姫」は強い権力により「八国」に分割・整理されたものであり、その一つが「常陸」であるというわけです。(『常陸国風土記』の以下の記事)
「其後 至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世 遣高向臣中臣幡織田連等総領自坂已東之国 于時 我姫之道 分為八国 常陸国 居其一矣 所以然号者 往来道路 不隔江海之津済 郡郷境堺 相続山河之峯谷 取直通之義 以為名称焉」
ここでは「常陸」という国名の理由として「道路」によって直接的に各領域が接続されているからとされ、「官道」ができたことと「常陸国」の成立したこと、つまり「我姫」が分割されたことの間に深い関係があることを示しています。
「古代官道」としての「東海道」は元々「駿河」付近までしかできておらず、それ以降は「海路」によっていたものです。それがこの時点で「(足柄)坂」以東まで道路ができ、それを通じて「大量」の「軍」を派遣することが可能となったものであり、「我姫」に対する軍事的優位を確立することにより「国-縣-里」という階層制行政制度を造る事ができたことを示すものですが、その段階で「常陸」を含めた各国(相模・武蔵・上総・下総・上毛野・下毛野・陸奥の計七国)の各地に「屯倉」を核とした領域も構成され、そこに「評」が置かれ、「評督」が任命されたものであり、同じ「我姫」の中に「評」と「縣」が局地的には並列することとなったものと思われます。(この段階では「屯倉」は「邸閣」的位置付けであったと思われ、「ほぼ軍事的施設」としての存在であったと思われます。)
『先代旧事本義』の「国造本紀」によれば(この書は「九世紀」成立と考えられ、偽書とも言われますが)「陸奥」を含め「国造」は「百三十五」あった(存在した)とされるものの、「六世紀の終わり」という時点では「陸奥」は(倭国)の統治範囲には未だ入っていなかったと見るべきですから、これを除くと「百二十一」となり、『隋書俀国伝』の「軍尼」の数とおよそ一致します。このことは「軍尼」というものが正確に「国」とその「内実」が一致するかはともかく、この「軍尼」の支配している領域と「国造」の範囲とがほぼ重なることを示していると考えられるわけです。
このことは「隋使」が来倭した時点では「国内」に対する「阿毎多利思北孤」の「六十六国分割」事業はまだ行われていない、という事を示しています。
この場合の「六十六国」とは、後の「令制国」としての「六十六国」と同一とみるべきであり、「新治筑波茨城那賀久慈多珂国」の集合体としての「常陸国」のような「国」を指すものであり、「古」の「国(クニ)」とは「規模」が違うと言えます。これを「大国」と仮に称します。
国内伝承では「端正元年」や「端正二年」という年次で「六十六国分国」の記事が存在しているようですが、それは「隋使」がもたらした情報に基づく国内改革の成果であるという可能性が高く、それ以前の状態を表すと見られる『隋書俀国伝』では国内は「古」の制度のままであったものと推量され、このような状態では「上意下達」などは著しく困難といえます。このような体制では「政権」中央から「行政命令」を伝達しようとした場合、「一二〇」回同じ事を別々に伝えなければいけません。それは「組織」として機能しているとは言えないものであり、余りにも不合理というものです。
「聖徳太子」に関わる伝承では「端正元年」(五八七年)に「分国」されたというものがあり、それは「遣隋使」派遣と深く関係している可能性があると思われますが、「隋」からの文物導入とともに「王権」の強大化が実行されたことを示すものと思われ、『風土記』の編纂事業などもまた「王権」の強大化の結果(副産物)であるとも思われることとなります。この時点で「各国」の風土や土地の状況などについて情報を集めていたものであり、それは「分国」にともなう事業であったとみるのが相当でしょう。
統治領域の広域化が行われたことがそのような情報を必要とする素地となったものとみられるわけであり、この制度変革が一段落した時点で「古・風土記」を選定するよう「詔」を出したと思われます。そして、それに基づいて造られたのが『筑紫風土記』や『常陸国風土記』の「原資料となったもの」であると考えられるわけです。その中で「古老」が彼の生きている時間帯として「縣」という制度の元にあったことを記しているというわけであり、それはその時期こそが「古・風土記」の編纂時期であったことを明確に示しているものです。
『皇太神宮儀式帳』には「難波朝廷天下立評」という表現がありますが、官道(例えば「東海道」)は「我姫」の分国以前に「駿河」付近までは伸びていたものであり、そこに「稚贄屯倉」があったと思われることからも(「縣制」が「隋制」の導入と思われることから考えて)、「評制」施行が「遣隋使」以前であり、「王権」がその権力を強大化しはじめた時期のことであったと考えられるでしょう。「広域行政体」としての「国」が(仮に列島の一部でしかなかったしても)成立できたという背景(あるいはその「下地」)として、「諸国」に対し軍事的展開が可能になったことがあったとすると、そのような「制度」の整備がそれに付随する成果として存在したと思われます。
このように「諸国」から「王権」へ直接「貢納品」が送られる体制が整うと同時に全国に「倭国中央」からの「軍事展開」や「全国」から軍事力を集約できるようになったことが重要であったと思われ、それを考えると「六世紀の後半」の「遣隋使」を派遣するという時点付近がもっとも時期として適切と思われ、「遣隋使」派遣という行動の裏側に「支配領域」の拡大と「統治」の強化という実績があったことが強く推定できるものです。
(この項の作成日 2011/08/24、最終更新 2019/05/19)