ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:隋書たい国伝:遣隋使と遣唐使:「開皇二十年」記事について:

「開皇二十年」記事について(二)」


 「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。

(再掲)
「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」

 この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っています。

「…始開皇初定令置七部樂。一曰國伎、二曰C商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・突厥・新羅・『倭國』等伎。…。」(隋書卷十五 志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭)

 この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけですから、これが「倭国」からの使者がもたらしたものと考えれば、その使者が派遣されたのは「開皇の始め」つまり「隋初」と考えざるを得ないものです。(前王朝である「北周」の史料には「倭国」が現れませんから、早くても「隋代」であるのは確かと推察できます。)
 『隋書』を見ると「開皇九年」に以下の記事があるのが確認できます。

「十二月甲子,詔曰:「朕祗承天命,清蕩萬方。百王衰敝之後,兆庶澆浮之日,聖人遺訓,掃地?盡,制禮作樂,今也其時。朕情存古樂,深思雅道。鄭、衞淫聲,魚龍雜戲,樂府之?,盡以除之。今欲更調律呂,改張琴瑟。且妙術精微,非因教習,工人代掌,止傳糟粕,不足達神明之コ,論天地之和。區域之間,奇才異藝,天知神授,何代無哉!蓋晦迹於非時,俟昌言於所好,宜可搜訪,速以奏聞,庶覩一藝之能,共就九成之業。」仍詔太常牛弘、通直散騎常侍許善心、祕書丞姚察、通直郎虞世基等議定作樂。…」

 ここでは「文帝」が「制禮作樂,今也其時。」と語っていることからもわかるように「楽」を定めるとしています。この時点は「南朝」を滅ぼし「中国」を統一した時点であり、ここで南朝の「楽」が「隋」にもたらされたものです。(この「南朝」の「楽」が「七部楽」の「二」にいう「C商伎」と考えられているようです。)
 これを契機に「七部楽」を「儀礼」に使用する正式なものとして制定したものと見られるわけです。(※)
 この「七部楽」に採用された各「伎楽」は「勢力下」に置かれた地域の「楽」であり、それは「南朝」のように「征服」によってもたらされるケースや、「高麗」などの場合は「北魏」による「燕」などの東方勢力を征服したこととの関連が考えられる場合などがあります。「倭国」の「楽」の場合も明らかに「外交」によるものであったと思われ、いわゆる「朝貢」に伴うものであったと見るべきでしょう。
 これが、民間伝承のような形で伝わったとか、「百済」や「新羅」など半島の国を経由して伝わった、いわば「間接的」なものというような解釈はできないと思われます。このように「制度」として定められたと言うことは、いわば「フォーマル」なものであり、正式な「外交」の成果としてもたらされたものと考えるべきでしょう。それは「倭国」に限らず、各国からの「正式」な(公式な)ものとして「隋」にもたらされたことを推定させるものであり、そうであれば少なくともこの「開皇九年」という「隋初」段階(あるいはそれ以前)に「遣隋使」が送られていたことの証左とも言えるものです。

 従来からこの「隋代七部楽」の成立というものと「開皇二十年記事」に書かれた「国楽」というものの間に関係があるとは考えられていたものの、その場合この両者間に「年次」の「矛盾」が発生してしまう点についてはある意味「無視」され、この「開皇二十年記事」を「隋代」全体に亘る知識として理解して処理していたものです。
 しかし、この「開皇二十年記事」はその時点の「遣隋使」が「皇帝」からの下問に応えたものをまとめたものと思われ、少なくともその年次における「事実」が「主」たるものであるのは明らかであると思われます。そこには「国交開始」を示唆する記事があり、それし「隋代七部楽」の中に「倭」があることが問題となっていたわけですが、それに対し「七部楽」を含む「楽制」の成立は「文帝」の治世期間の初期のものと理解されるものですから、当然「倭国」から「国楽」が「隋」に奉納されたのも同様に「隋初」のこととならざるを得ないものであり、それはこの「開皇二十年記事」の「年次」には明確な「疑い」が生じざるを得ないことを表すものといえます。
 つまり、この記事自体が本来「楽制」を定める以前の「隋初」の時代の記事であったという可能性を考える必要があると言う事となるでしょう。

 またそれは「大業三年記事」に「鼓角を鳴らして」の「歓迎」の儀式が書かれている事と関連していると思われます。つまり、この「鼓角を鳴らす」という「楽」は逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれたものと考えられるわけです。
 そもそも「鼓吹」あるいは「鼓角を鳴らす」というものは「戦い」に関するものであり「日本」の戦国時代に「ホラ貝」を鳴らすことで自陣に対する指示などを伝達していたらしいことが知られていますが、その原型は「鼓吹」にあったと考えられ、『旧唐書』などにも「鼓吹」が「軍楽」であるという内容の記事が見られます。

『…景龍二年,皇后上言:「自妃主及五品以上母妻,并不因夫子封者,請自今遷葬之日,特給鼓吹,宮官亦準此。」侍御史唐紹上諫曰:「竊聞鼓吹之作,本為軍容,昔?帝?鹿有功,以為警衞。故?鼓曲有靈?吼、G鶚爭、石墜崖、壯士怒之類。自昔功臣備禮,適得用之。丈夫有四方之功,所以恩加寵錫。假如郊祀天地,誠是重儀,惟有宮懸,本無案架。故知軍樂所備,尚不洽於神祇;鉦鼓之音,豈得接於閨?。準式,公主王妃已下葬禮,惟有團扇、方扇、綵帷、錦障之色,加至鼓吹,?代未聞。…』(舊唐書 志第八/音樂一)

『…(武徳)六年,薨。及將葬,詔加前後部羽葆鼓吹、大輅、麾幢、班劍四十人、虎賁甲卒。太常奏議,以禮,婦人無鼓吹。高祖曰:「鼓吹,軍樂也。往者公主於司竹舉兵以應義旗,親執金鼓,有克定之勳。周之文母,列於十亂,公主功參佐命,非常婦人之所匹也。何得無鼓吹。…」』(舊唐書/列傳第八/柴紹 平陽公主 馬三寶)

 この二つの例ではいずれも周囲から「鼓吹」は「軍楽」であるから「婦人」の葬儀には使用できないとしており、また後の例では「高祖」はそれを承知している発言(高祖曰:「鼓吹,軍樂也。…」)をしています。このことから「裴世清」を迎えた「鼓吹」も「軍楽」としてのものであった、つまり「裴世清」を「軍」が出迎えたと考えられることとなるでしょう。
 これに関しては『隋書』に「楽制」が定められたことが書かれています。

「(開皇)十四年三月,樂定。」(隋書/卷十五 志第十/音樂下/隋)

 これによればこの「開皇十四年」(五九四年)という時点で「楽制」が定められたというわけですが、この中で「鼓角」による「楽」についても定められたものと考えられます。
 「渡辺信一郎氏」によれば(※)『隋書たい国伝』に「倭王遣小コ阿輩臺從數百人設儀仗『鳴鼓角』來迎」と書かれている部分については「軍楽隊」を意味するものであり、「隋」においてこの「角」(つのぶえ)が加わった形で「楽制」が整備されたのがこの「五九四年」であるとされ、これについては傾聴に値すると思われるものですが、ただしそれは「制度」として決められたということを示すものであっても実態がそれ以前から同様のものがあったことを否定するものではないと考えます。この「表報使」として派遣されたと考えられる「鴻盧寺掌客」としての「裴世清」がこの「楽」を伝えたという可能性が考えられ、その時点で「角笛」等も「倭国」にもたらされたものではなかったでしょうか。それを踏まえると「大業三年」記事に書かれた「倭国」の歓迎の様子はこの新しく造られるはずの「楽制」が「隋」よりも先に「倭国」に伝えられ、それを実地に応用したものではなかったかと考えられることとなります。

 そのような「楽制」の伝来があった時期は少なくとも「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事からもこの年次以降であることが窺えるものです。このことから、この「鼓角」という「楽器」はこの「開皇二十年記事」以降に「倭国内」に流入したものと考えられること、またそれは「隋皇帝」からの「下賜」としてのものであったという可能性が高いことを示すものと思料されます。
 さらに、そのことから『神功皇后紀』にある以下の描写には潤色があることとなると思われます。

「…秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。皇后曰。必神心焉。則立大三輪社以奉刀矛矣。軍衆自聚。於是使吾瓮海人烏摩呂出於西海。令察有國耶。還曰。國不見也。又遣磯鹿海人名草而令覩。數日還之曰。西北有山。帶雲横■。蓋有國乎。爰卜吉日。而臨發有日。時皇后親執斧令三軍曰。『金鼓無節。』旌旗錯亂。則士卒不整。貪財多欲。懷私内顧。必爲敵所虜。其敵少而勿輕。敵強而無屈。則暴勿聽。自服勿殺。遂戰勝者必有賞。背走者自有罪。…」

 ここでは「金鼓」の存在が書かれていますが、これは上の思惟進行からは「隋」からもたらされたものと見なければならず、「神功皇后」の時代には存在したはずがないこととなるでしょう。従来から「神功皇后紀」には史実性がないという言い方がされますが、確かに「潤色」であるという側面が見られることは事実です。
 ここで見られる「金鼓」は下の『隋書』の例によってみても「軍」における「前進退却」の合図に使用されたものであり、そのような戦いが「倭国」に「隋」以前に本当にあったのかが疑問と思われるわけです。

「…後齊常以季秋,皇帝講武於都外。有司先?野為場,為二軍進止之節。又別?於北場,輿駕停觀。遂命將簡士教?,為戰陣之法。凡為陣,少者在前,長者在後。其還,則長者在前,少者在後。長者持弓矢,短者持旌旗。勇者持鉦鼓刀楯,為前行,戰士次之,槊者次之,弓箭為後行。將帥先教士目,使習見旌旗指麾之蹤,發起之意,旗臥則跪。教士耳,使習金鼓動止之節,聲鼓則進,鳴金則止。教士心,使知刑罰之苦,賞賜之利。教士手,使習持五兵之便,戰?之備。教士足,使習跪及行列嶮泥之塗。…」(「隋書/志第三/禮儀三/春秋蒐」より)

 『隋書』には「征戦」がないとも書かれており、「儀仗」や「兵器」はあることが書かれていますが、それらを使用した戦いについてはなかったらしいことが推察されます。このことから「金鼓」による軍隊指揮などの事実が倭国にあったかはかなり疑わしいのではないでしょうか。

 この「隋」で制定されたという「七部楽」は「煬帝」即位以降の「大業年中」に「九部楽」に改正されましたが、そこからは「倭国」の楽が(「新羅」や「百済」とともに)脱落しています。(「雑楽」そのものがなくなっているもの。)
 これは明らかに「煬帝」に至る以前に「倭国」との間に「友好的」関係が破綻し、宮廷楽から除外されるに至る何らかの事象があったことによると考えられ、それは「天子」を標榜した「国書」が送られたこと、それに対し「使者」を派遣し「宣諭」し、「叱責」したという一連の流れが該当すると思われ、その意味からも「大業三年」という段階で「友好的内容」の国書が送られた可能性が低いことを想定させるものです。


(※)王小盾「中国楽部史における七部楽について」國學院大學北海道短期大学部紀要第二十七巻
(※)渡辺信一郎「中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流」文理閣 二〇一三年)


(この項の作成日 2014/04/28、最終更新 2018/07/16)