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「公文」と「僧尼帳」


「白鳳」「朱雀」という年号が出てくる「聖武」の詔は、それに至る官僚からの上奏を承けたものであり、そこでは「僧尼」の出家の記録について「綱帳」にはあるが「官籍」にはないとされています。「綱帳」つまり「三綱」が保有している寺院側の「僧尼帳」について、「官籍」とは別という表現がされているわけであり、さらに「公」という字義からも「綱帳」は「公文」とはいえないと思われます。
 「公」とは「十七条憲法」などでも際だって説かれている概念であり、「阿毎多利思北孤」当時形成されたと思われる概念ですが、基本的には最高権力者としての「王権」に直接関わるものについての表現です。つまり「王権」が直接関わった文書を「公文」と呼称するのであり、「中央官庁」だけではなく地方の役所が発行するような文書等についても適用される概念ですが、他方「寺院」が独自に作成したものは、その趣旨からいって「公」の名を「冠して」呼称することはあり得ないといえます。
 すでに触れたように「官寺」つまり「王権」がその支配下に「寺院」を置き始める時期があり、そこではいくつかの寺院を「官治」しているのが確認できますが、それさえも全ての寺院が「官」の管理下に入ったというわけではなかったものであり、その意味で「寺院」は「公」という範疇から外れていた存在であったと思われます。
 その意味で「倭国年号」が「仏教」に関連するものに多く現れていることに注目すべきです。「聖武」の詔の元となった「綱帳」をはじめ「仏像」の「光背銘」や「墓碑」「骨蔵器」「縁起録」等々現在確認される「年号資料」のかなりのものが「仏教」に深く関係しているのが確認できます。

 そもそも「倭国年号」のかなりのものが「仏教」と関係していると思われます。「年号」そのものの字義やその「改元」の契機となったものなどをみるとその多くが「仏教」に深く関係していると見なさざるを得ません。明らかに「即位改元」あるいは「遷都改元」と認められるものは(証拠資料も少ないという事情はあるものの)確認できないのに対して、「法清」「蔵和」「和僧」「端正」「定居」「倭京」「仁王」「僧要」「白雉」「白鳳」「朱雀」など「注」の文章から考えてその改元理由の一端は「仏教」に関係しているのは明らかですし、「金光」のように「経典」(請観音経)の内容から採ったと思われるものも存在しているなど、全体として「仏教」と「年号」の関係はかなり深いものがあるとみる必要があります。

継体五 元丁酉
善記四 元壬寅 同三年発誰成始/文善記以前武烈即位
正和五 元丙午
教倒五 元辛亥 /舞遊始
僧聴五 元丙辰
明要十一 元辛酉 文書始出/来結縄刻木止了
貴楽二 元壬申
法清四 元甲戌 法文〃/唐渡僧善知傳
兄弟六 戊寅
蔵和五 己卯 /此年老人死
師安一 甲
和僧五 乙酉 /此年法師始成
金光六 庚寅(五七〇)
賢称五 丙申(五七六)
鏡當四 辛丑(五八一)新羅人来従/筑紫至播磨焼之
勝照四 乙巳(五八五)
端政五 己酉(五八九) 自唐/法華経始渡
告貴七 甲寅(五九四)
願転四 辛酉(六〇一)
光元六 乙丑(六〇五)
定居七 辛未(六一一) 注(法)文五/十具従唐渡
倭京五 戊寅(六一八) 二年難波/天王寺聖徳造
仁王十二 癸未(六二三)  自唐仁王/経渡仁王会始
僧要五 乙未(六三五)  自唐一切/経三千余巻渡      
命長七 庚子(六四〇)
常色五 丁未(六四五)
白雉九 壬子(六五〇)  国々最/勝会始行之
白鳳廿三 辛酉(六五九)  対馬銀採/観世音寺東院造
朱雀二 甲申(六八二)  兵乱海賊/始起又安居始行
朱鳥九 丙戌(六八四)  仟陌町/収(段)始又方(歌)始)
大化六 乙未(六九三) (覧初要集云皇極天皇四年為大化元年)

 これらから考えて「金石文」「木簡」等に「倭国年号」が見受けられないのは「律令」の中で明確に「年」の表記は「年号による」という規定を設けていなかったとみるよりなく、当時の「倭国王権」に「年号」というものに対する認識が当時の常識からも現在の私たちの考え方からも違うものがあったと考えるよりないようです。
 私たちは「年号」について「絶対的権力」の表象としてみていますが、当時の「王権」にはそのような意識がなかったのかもしれません。
 確かに『隋書』によれば「天子」を自称していますが、これはいわば「天子」という呼称に対する自覚が薄かったための「誤用」であったとみられ、それを「隋帝」から叱責されることが想定の範囲内であったとは思われません。その意味で「倭国」には「隋」に対抗する意志は(少なくとも当初は)なかったものであり、その意味で自らを「絶対的権力者」として認定しそれを国内に周知徹底する意志があったようには思えません。

 当時「倭国王権」は「年号」について「仏教」的関連物にその表記をとどめるという理解があったようであり、その意味で「王」の力は「俗」に及ばず「聖」なる世界にとどまるとみていたのかもしれません。
 これは『隋書』で「倭国」からの使者が語ったという「倭王は…天未だ明けざる時出でて政を聴き、跏趺して坐す。日が出ればすなわち理務を停め、云う我が弟に委ねん」という統治形態とつながっているという可能性もあります。(以下原文)

「…使者言…天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟…」

 これによれば「跏趺」つまり「結跏趺坐」という正式な作法を行っていた「仏教的雰囲気」にいるのは「兄」であり、俗世界の支配は「弟」であって彼は「非仏教的」な世界にいたことも考えられます。そうであれば「弟」とされる「人物」が支配する世界の「暦」には「年号」が使用されていなかったということを示唆するものといえそうです。
 このような「統治形態」あるいは「習俗」については「隋帝」から「訓令」により止めさせられたとしますが、「弟」の統治する世界において「仏教」に基づいて「年号」使用が「公文」の中で始まったのかは不明であり、「仏教治国策」がどの程度徹底されたのかは疑問ともいえるでしょう。単に「国教」の地位に「仏教」を置いたというこことかもしれません。


(この項の作成日 2019/12/07、最終更新 2019/12/07)