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{律令」名と「年号」


 中国では『泰始律令』を初めとして『開皇律令』『武徳律令』等「律令」の名称には「年号」が冠せられています。八世紀以降の日本国においても「大宝」「養老」というように「律令」の名称に「年号」が使用されている例があるのに対して(『延喜式』『弘仁格式』などもそれに準ずるものでしょう)、それ以前の「飛鳥浄御原令」には(その存在が不確かな『近江令』でも)「年号」が使用されず「朝廷」の名称が使用されています。
『続日本紀』では「大略以淨御原朝庭爲准正」と書かれていますが、これは「武徳律令」制定の際の「大略以開皇爲准正」の筆法を真似たものであり、その「開皇」とは「開皇律令」を指すものですから「浄御原朝廷」の所には本来「年号」+「律令」という形で律令名が書かれて然るべきこととなります。また「浄御原朝廷之制」という回りくどい言い方がされている記事もあります。これについても本来は「年号」(倭国年号)があり、またそれにより呼称されていたと推定でき、『書紀』『続日本紀』はそれを隠蔽していると見るべきでしょう。

 ところで『令集解』を見ると「大宝令」の注釈書はあるものの(「古記」がそう)、それ以前の『浄御原令』についての注釈書が存在していません。この点ですでにその『浄御原令』の公布者がだれであったのかが明らかといえると思われます。当然「新日本王権」ではないこととならざるを得ません。それはまた、この『令集解』において「年号とは?」という定義付けとも言うべき中に各説が挙げている「代表的年号」を見ても言えることです。
 「古記」が最も古い「説」ですが、「大宝」を代表的な年号として挙げており、また他のいずれの説の中でも『書紀』に現れる「大化」「白雉」「朱鳥」の年号は「例」として挙げられていません。これらが挙げられない理由も同様に「前王朝」に関わるものであって「自王朝」のものではないからというものと考えるのが自然です。
 ただしそれであれば「庚午年籍」が重要視されるのはやや不思議といえるでしょう。明らかに「庚午年籍」も「前代」のものであり、一見「自王朝」によるものではないと思えそうだからです。しかしその後の「天智」重視の政策から考えて、「庚午年籍」が俎上に上がっているのはそれが「天智」の治績とされているからと見るのが相当です。
 「天智」は新日本王権からは「皇祖」あるいは「先帝」とされている人物であり、「元明」からは特に「天智」を崇める姿勢が見えます。(「元明」は「天智」の娘ですから当然ではありますが)新日本王権は彼の王朝の末裔を自認していたともいえるでしょう。このことから「倭国」から「新日本国」へ移行する前に一旦「天智」による「日本国」があり、それが「倭国」へと回帰した後に「天智」の「日本国」の再興という形で「新日本国」へと移行したことが推察できます。
 この国号の変遷に関しては以下のストーリーが考えられます。

 『隋書』で明確なように「阿毎多利思北孤」段階で「日本国」「天皇」を自称したと思われるものの、その後「天子」を自称するという外交的失敗のため「宣諭」された結果「倭国王」へと戻されたものです。(後述)またその失地を回復するために「高表仁」を迎えたもののまたもや有名な「礼を争う」トラブルにより外交的失敗となり、「日本国」「天皇」名称を認めさせることはできなかったどころか、潜在的な危険国とみなされていたようです。その後「新羅」を通じて謝罪することで再度「日本国」「天皇」の自称を認められたものですが(「伊吉博徳」が派遣された遣唐使段階でも「日本国」「天皇」という呼称が認定されていたもの)、その後「唐」の「高宗」の指示を破り「新羅」に対して参戦した(「皇帝」の命に反した行動を取ったこととなる)ことで再び「日本国」「天皇」の称号は取り消されたものです。
 「隋」「唐」に限らず中国王朝は自ら認定したり授与したりした称号や官位がある限り「友好国」的扱いをするものの、反乱や「皇帝」の意思に反する行為を行うなどした場合、その称号や官位は取り消され(剥奪され)、その段階でいわば「敵」となるわけです。(決して自分の配下の者とは戦わないという建前)
 そして最後に「日本国」「天皇」称号を取り消されたのが「天智」であり、彼は「唐」からは「敵」として扱われていたこととなります。彼がそのような扱いを受けた訳は「朝敵」とされていた「百済」(「百済王」は同様に「唐」から授与されていたその「百済王」という称号を剥奪された存在でした)に助力をするという「反唐的立場」をとったためであり、彼の王朝以降「倭国王」として存在せざるを得なかったわけですが、「持統」において「日本国」「天皇」を復活させ、それを「新王朝」に禅譲という形で継承させたものです。
 これは当時「唐」において実権を握っていた「武則天」に認めさせたものであり、それは「持統」が「女帝」であったことが「武則天」の心証に大きく影響したものと思われます。その「持統」は国内の正式文書に「唐」の年号を使用するなどの「唐」と「武則天」への傾倒を示す事で「唐」に対する歓心を得ることで「日本国」「天皇」称号を承認させ、その結果列島の代表王者の地位を不動のものとしたものです。


(この項の作成日 2019/12/07、最終更新 2019/12/07)