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「年号」不使用と暦


 『令集解』「公式令」の「儀制令」には「公文」には「日付」(年月日)を記すようにという規定があり、その「年」の表記には「年号」を使用するように、という決まりが書かれています。これに対する問答(「穴記」による)では「庚午年籍」という表記はいかなる「法」に拠ったか、つまり「年号」ではなく「干支」で表記しているのはなぜかという問いかけに対し、まだ「年号」を使用するようにという決まりができていなかったからと答えています。この問答は明らかに「年号」の存在を前提としていると思われ、「年号」はあったが単に決まりがなかったからと理解せざるを得ません。(この「公文条」は「年号」を日付として採用するようにということを「ルール」として決めたというのですから、「未制」とはこの「ルール」がまだなかったと理解するのが相当でしょう。)

 『書紀』を見ても「大化」「白雉」「朱鳥」など記録上も「年号」はあるわけですから、これが発掘などで「公文」(木簡あるいは墓碑などの金石文)に確認できないのは「ルール」がなかったからと見るより他理解しがたいのではないでしょうか。
 金石文では僅かに「年号」を紀年に使用した例が確認できるものの木簡では皆無です。明らかに「廃棄」されたと見られるような木簡にも「干支」表記しか確認できません。年号は書いたが削られたという形跡もまたほぼ確認できません。ただし古賀氏の考察にあるように干支の上部に空白らしきものが確認できるものもあり、そこに(「白雉」など)年号が書いてあったものが削られたのではないかという可能性も考えられそうですが、それも明確ではありません。

 そもそも全ての木簡から「年号」を削るという作業があったと想定するのはかなり困難でしょう。それこそ当時無数に作られていたと思われるからです。「年号」を削るようにという指示がもしあったとしても「それ以前」に廃棄されたものには「年号」が残ったままになっているはずです。そのようなものが「遺物」として発掘されていないのは、「倭国律令」の「公式令」には「公文条」がなかったのではないかという「疑い」に正当性を与えるものです。問題は「なぜ」そのような決まりが造られていなかったのかということでしょう。
 年号の本家である中国では公文や金石文には必ず「年号」が使用されており、「干支」表記だけというのは管見した範囲では見たことがありません。(私が知らないだけかもしれませんが)
 つまり倭国が手本としていた中国では年号は日付を表すのに使用されるのが一般的であり、金石文等においても多くの使用例が確認できます。既に失われてはいますが、「開皇律令」等の律令においても「公文」に対する「年号使用」が書かれていたと見るのが相当であり、「倭国」において「年」表記に「干支」を使用するのが継続していた理由が一見不明となりそうです。
 「年号」を制定する権利を有するのが唯一「王権」だけであり、「王権」の絶対性や至高性の表象として「年号」が機能していたということを踏まえると、「年号」の使用を強制しなかったあるいはそのような規定を作らなかったというのはかなり不審です。
 これについては推測するしかないわけですが、「年号」と「暦」が不可分のものであることを考えると、「暦」の作成あるいは計算という部分が影響したのではないでしょうか。

 そもそも「暦」の計算に慣れていなかった倭国王権では諸々の「符」や「解」さらには「墓碑」などの公文の日付の根拠としての「暦」が「干支」表記であったことが大きかったと思われます。
 当時「暦」は役所(陰陽寮)で作成するわけですが、暦計算において日付を「数字」として扱って計算することが求められていたことから役所では「干支」のまま使用していたという可能性があると思われます。たとえば「墓碑」に記された日付は「死去」を届け出た際に「役所」から示されたものと推測されますが(木簡の日付も同様の手続きによって役所からの情報で記入されたと見られる)、これは「陰陽寮」で作成された「暦」のコピーが末端の役所に頒布されていたものであり、そこで「年号」が使用されていなかったという事情に帰着するのではないでしょうか。つまりすでにその中で「年」の表記に「干支」で行われていたこととなりますが、それは「計算」の結果がそのまま表記されていたという可能性があるでしょう。
 「暦計算」においては「干支」のままの方が計算しやすく、「干支」を数字というか「番号」として扱うことで計算を行うわけですが、計算結果としての「日付」の表記にもそのまま「干支」が残ったということが考えられるでしょう。「年月日」という形で表記しようとすると「干支」と「年号」を相互に換算する必要がありますが、それが彼らの暦計算能力にとっては困難なものであったのではないでしょうか。
 あるいは「六四八年」以降「唐」と(「新羅」を通じ)国交を回復して以降は、「唐」で使用されていた「戊寅元暦」を採用した(せざるを得なくなった)と見られ、またそれ以降「唐」については「天子の国」として「準柵封」状態状態ではなかったかと思われ(伊吉博徳が派遣された遣唐使の記録によれば「唐皇帝」を「天子」と称しています)、「年」についても「唐」の年号を採用すべきとしていたものではなかったかと推測されますが、問題はその「唐」の年号が(リアルタイムで)判らなかったのではないかと思われ、勢い「干支」のみの表記となったという可能性もあります。
 いずれにしても「年号」(倭国年号)を使用した「公文」が発見されないのは「造暦」との関連が強く考えられるところです。


(この項の作成日 2019/12/07、最終更新 2019/12/07)