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「独自年号」と宗主国


 すでにみたように「倭国」は「南朝」に対して「臣事」していました。そのような場合本来は「皇帝」の頒布する「正朔」つまり「暦」と「年号」を使用することが「義務」であるわけですが、「倭国」の場合は少なからず事情が異なると思われます。

 確かに「倭国王」は「南朝」より配下の将軍として称号を得ていますが、「絶域」の域外諸国として正式に柵封されたというわけではなく、それに「準ずる」立場であったと思われます。純然たる「柵封国」とは(「唐」における「新羅」と「倭」の違いのように)異なり、「暦」「年号」の受容は「倭国側」の任意の範囲であったものと思われ、結果的に最新技術としての「暦」だけを受容することとなったものでしょう。
 また既に触れたように「独自年号」の先行使用例として「高句麗」がありました。

 「高句麗」は「北朝」からも「南朝」からも「柵封」されており、しかも「北朝」からの「柵封」が時期的に遅れています。すでに「南朝」との関係が構築されていたにもかかわらず、改めて「北朝」側とも関係を持とうとしたという中に、高句麗の抱える事情が見えるようです。逆に言うと彼らにとって重要なものは「北朝」との関係であったと思われます。その証拠に「柵封」を受けた後「南進政策」を展開するようになりますが、それは「北朝」との国境に対する警戒レベルの低下があったと見られます。現に「百済」侵攻後「百済」から訴えを聞いたにも関わらず「北朝」(北魏)はその後も全くこの紛争に関与することなく結果的に「高句麗」の侵攻にお墨付きを与えた形となっています。
 このような流れの中においても「高句麗」は「北魏」の年号を使用せず「独自年号」を使用していました。そのことはこの当時「宗主国」から「年号」の使用強制がなかったことを窺わせます。
 陸続きで国境を接している「北魏」と「高句麗」の間においてさえそうなのですから、はるか海を隔てている「南朝」(劉宋)と「倭」の間に「年号」使用を強制するような関係があったとは考えられません。

 「北魏」や「劉宋」などにおいてもそうですが「改元」は「王(皇帝)」の代替わりや遷都、瑞祥などにその契機があり、そうであればそれらは個々の国々においても同様の事情が存在したわけですから、「改元」するタイミングについて「宗主国」と違って当然と言うこととなります。そのため「基本」としては「年号」は受容すべき制度としてなじまないものではなかったでしょうか。「正朔を奉じる」という立場からは「暦」については「宗主国」と同じ暦である必要があり、それはまた「宗主国」との交通や各種のやり取りの際に「日付干支」が異なるという不具合を避けるという意味においても必要な事柄ではあったと考えますが、「年号」についていえばそれほど重要視されなかったものではなかったでしょうか。

 古代においては「年号」や「暦」などの使用がその王権の絶対性、超越性の確立や確保に有効に機能したことは疑い得ず、その意味からも「倭国」における使用や改元等は「倭国」の事情にもとづく方が有効であったと思われます。「新王」即位と同時に「改元」するなどにより「新王」への交代が明確になるわけであり、そのことは「新王」による新たな支配に有効であったと思われる訳です。


(この項の作成日 2018/12/02、最終更新 2019/03/31)