「朱鳥」年号は『書紀』によれば、天武末年「六八六年」に改元され行われ、一年間しか継続せず、「持統天皇」即位と共に消えてしまういます。この改元についてはなんの説明も『書紀』中にされていません。一見すると「遷宮」と関係がありそうな記述がありますが(「飛鳥浄御原宮」へ「宮」を遷した)、その「宮」名と「年号」の間にはなんの関係も考えられません。ただしここで用いられている「仍」の本紀は「やはり,依然として,いまなお」というものであり、これに従えば「年号」は「朱鳥」となったが、宮殿は「変わらず」「飛鳥浄御原宮」としたとも理解できます。
「朱鳥元年(六八六年)秋七月己亥朔(中略)戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」
上で見るように「改元」されて「朱鳥」(阿訶美苔利)に年号が変わったと書かれています。さらに『二中歴』では「六八六年」から「六九四年」まで九年間「朱鳥」が続いています。また、『万葉集』の中には「日本紀に曰く」という形でいくつか引用があり、それによれば「朱鳥」年号は少なくとも「七年」まで続いていたと思われます。
「右は日本紀に曰く朱鳥七年癸巳の秋」(巻一雑歌作三十四の左注)
そのほか「朱鳥」年号は下記各種資料に確認され、実在性が大きいと考えられ、『書紀』のように一年で終わるものではないことが確かであると考えられます。
「文武天皇御宇朱鳥一三年葛木神讒言」「一代要記 」
「持続天皇御宇朱鳥四年己丑依讒言伊豆国大島被流自夫。…」「會津正統記」
「文武天皇同十五庚子同十六年辛丑改元有大宝云…」「一六八八〜 本朝之大組之雑記」
「持統天皇朱鳥七年壬辰 朱鳥八年癸巳より元禄元年庚午迄…」 「一巻未書 」
「持統天皇御宇朱鳥八年歳次甲午春…」「修験道史料集II 昭和五九年 箕面寺秘密縁起 」
(但し、上の「朱鳥」の例のいくつかは「持統称制」期間と混乱があると思われ、「六八七年」を元年とするものもその中に認められます。)
また、滋賀県大津に「鬼室集斯」の墓、と言うものがあります。「鬼室集斯」というのは「白村江の戦い」前後に活躍した「百済」の将軍であった「鬼室福信」の子息で、「白村江の戦い」の後日本に「亡命」したと『書紀』に書かれています。この彼の墓が大津にあるのですが(六角型をしています)、この中に「鬼室集斯」の亡くなった年次として「朱鳥三年」と書かれています。(というより彫られています)
「朱鳥三年戊子十一月八日」
これは「江戸時代」に偽作されたものという説もありましたが、古賀氏により古代からのものであって「偽作説」が成立できないと論証されています。(※)もっとも、私見では(論旨の一部には同意するものの)重要な点で疑いがあります。なぜなら当時の金石文(墓誌)で「干支」だけではなく「年号」が書かれているのは非常に珍しく、これが唯一と言っていいものです。他に年号が書かれている例は「那須直緯堤」の碑文がありますが、そこには「唐」の「則天武后」の時代の年号である「永昌」が使用されており、それは「六八九年」を表わすものと思われますが、そうであれば「朱鳥」の施行されていた時期に相当すると思われるのにそれは書かれていないこととなります。
この時期「墓碑」や木簡などを見ても通常は「年号」を書くことが慣例化していなかったことが推測されるわけですが、それにもかかわらず、ここには「朱鳥」という年号が書かれているわけです。そうするとことさら「年号」特に「朱鳥」が書かれているということには別の意味があると考えられることとなるでしょう。
確かに「墓碑」などいわゆる「金石文」については「錯誤」あるいは「虚偽」の可能性は低いと考えられ、この「朱鳥」年号についてもその信憑性は非常に高いものと考えられるものの、通常は書かれない「年号」が書かれていることにはある「疑い」が生じます。それは「古さ」を演出するためではないかということです。
確かに「朱鳥」は『書紀』には「一年」しか出現しませんが、そもそも『書紀』自体の成立が一般に考えているよりかなり遅れたという可能性があり、本来は『日本紀』が「正規の史書」とされていた時代が長かったものではないでしょうか。そしてそこには上に見るように「朱鳥」が「年次」を表わすものとして使用されていたという可能性があると思われます。
この「墓誌」の作者がその『日本紀』を見てそれに合わせようとしたという可能性は考えられ、「江戸時代」ではなくても「八世紀」あるいは「九世紀」付近での「偽作」という可能性は捨てきれないでしょう。
またその形が「六角形」をしていることについても、七世紀代の「六角形古墳」が非常に少なく、「マルコ山古墳」と「塩野六角古墳」の二基だけとされています。その「マルコ山古墳」は『書紀』に出てくる「川島皇子」(天智天皇の子供とされる)との説もあるなど、かなり高貴な人の古墳とされており、その「六角形」という形状についても本来誰でも作れるものではなかったという可能性が考えられるところです。
「鬼室集斯」の父である「鬼室福信」は「百済」の「佐平」という称号を持った軍人ではあるものの「王権」とはそれほど近い存在ではありませんでした。その人物の子供が「倭国王」やそれに近い立場の人物と同じ形の「墓」を作るということは「同時代」としては考えにくいものです。
さらにこの「朱鳥」が「六八〇年代」を示すとすると、当時は「古墳」と「金属板の墓誌」という組み合わせが普通であって、「石材」を使用した「墓碑」というもの例がありません。またこの「鬼室集斯」の墓と称する場所には「墳墓」がなく、「墳墓」を伴わない「墓碑」というのも当時としてははなはだ異例です。「墓碑」は「墳墓」の敷地内に立てられる性質のものであったはずだからです。(『養老令』では「喪葬令」に「凡墓。皆立碑。記具官姓名之墓」と規定されており、「墓」には「碑」を立てるとされていますから、同じ敷地内に立てることが前提であったと思われますが、それは前代までの規則を踏襲したものと考えられます。)
これらのことから「鬼室集斯」の「墓碑」と称するものは『現行書紀』が成立する以前の「桓武」「嵯峨」以前の時代に作られたものと見るべきこととなりかなり古いものであるのは間違いないものと思われるものの、その「朱鳥」という年号については正確性には疑いがあると考えられることとなるでしょう。ただしその場合でも「年次」と「干支」の関係は「偽造」しにくい性質のものであり、「朱鳥三年」が「戊子」であるという情報の意味は重要でしょう。つまりその元年としては「丙戌」となり、「七世紀」では「六二六年」と「六八六年」のいずれかの可能性が考えられますが、『日本紀』にはすでに「六八六年」のこととして書かれていたということが推定され、「墓碑」はそれに合わせたという可能性が考えられることとなります。(後でも記しますが、実際の「朱鳥」年間は「一運」上がった「六二六年」という年次を示すものがその本義であったと推定されます)
また『書紀』でなぜ一年間だけ記載されているかは諸説ありますが、この「天武末年」の前年とこの年の二回にわたり「徳政令」(借金の利息と元金とを棒引きする)が発布されていることと関係しているという古賀氏の指摘が重要でしょう。(※)
この「徳政令」と「六八四年」に起きたとされる「白鳳大地震」とは非常に深く関係していると思われ、多くの負債者が(特に西日本で)発生したものと思われ、これを救済するために「徳政令」を発布したものと推量しますが、この時の「債務」は「詔」にもあるようにその多くが「貸稲」とその「利息」であり、それが棒引きされることになって影響を受けるのは「私的」に「貸稲」を行っていてしかも「被災」しなかった地域の「大土地所有者」であったと思われます。
この時の「地震」と「津波」の被災地域は広範にわたったため、大土地所有者達の逸失利益も甚大となり、彼らはこの「徳政令」の発布を受けて「倭王権」に対し「補償」をするよう迫ったものと思われますが、「倭王権」がそれに正確に対応できたかは疑問であり、「権威」と「軍事力」で押し通すには無理があったものと考えられ、その反発は「倭王権」にとって致命傷となった可能性があるでしょう。
『書紀』編纂においてもこの「徳政令」はその契機となったものであり、「新日本王権」は「日本王権」からその地位を禅譲されたものであり、それは「負債」をも継承したこととなります。もし完全な「革命」ならば「負債」については補償しないという立場もあるでしょうけれど、この場合は形式的ではあっても「禅譲」を装っていますから、彼等の支持を得る意味でも「負債」を認める必要があり、その意味で「徳政令」そのものもなかったことには出来なかったものと見られます。その意味でも「徳政令」記事とそれに対となっている「朱鳥」年号は書く必要があったことと見られるわけです。
(※)古賀達也「朱鳥改元の史料批判」(古田史学論集『古代に真実を求めて』第四集 二〇〇〇一年十月 明石書店)
(この項の作成日 2011/07/21、最終更新 2017/01/02)