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『安閑紀』の「建号」記事


 正木氏によって『安閑紀』に「九州年号」建元記事があることが指摘されました。(2015年12月24日関西例会)
 詳細はまだ不明ですが、多分以下の記事を指すものと思われます。

「(安閑)元年(五三四年)春正月,遷都于大倭國勾金橋,因為宮號.…閏十二月,己卯朔壬午,行幸於三島,大伴大連金村從焉。…大伴大連,奉敕宣曰:「率土之下,莫匪王封;普天之上,莫匪王域。故先天皇,建顯號垂鴻名,廣大配乎乾坤,光華象乎日月。長駕遠撫,逸乎都外,瑩鏡區域,充塞乎無垠!上冠九垓,旁濟八表。制禮以告成功,作樂以彰治定。福應允致,祥慶符合於往?矣。…」

 この記事の中に「故先天皇,建顯號垂鴻名,廣大配乎乾坤,光華象乎日月。」という部分があり、これによれば「先天皇」つまり「継体」の時に「建顯號垂鴻名」、つまり「号」を立て、それによりその名をとどろかせたというわけですが、この「号」というのが「年号」であるというわけです。
 この記述は多くの九州年号史料で「継体」の時に建元されたとされていることと符合するものです。
 この記事については既に注目されている方々がおられますが、「号」を「年号」と捉えた方はおらず、その意味で正木氏の視点がユニークであったこととなるでしょう。
 文中に見られる「建」(たてる)という語は『書紀』中では具体的な目的物が明示されているものばかりであり、この場合も「抽象的」なことではなく何か「具体性」のあるものが措定されてしかるべきと思われます。その意味では従来の解釈である「御名を世に顕し」といような具体性のない事象を指すものとは考えにくいこととなるでしょう。

 この文章中で使用されている語句は多くがいわゆる「美辞麗句」であり、これ以前に余り出現していないものばかりです。それはこの時点付近での「漢籍」の類の流入を示唆するものであり、それは「使者」の派遣(往還)があったことを示唆するものでもあります。(その多くの部分が『藝文類聚』にあるとされます)
 たとえば「九垓」は「九州」と同義であり、この世界全体を表わすものであり、「八表」は「八方」を意味しこれも多くの地域を指す語です。さらに「瑩鏡」の「瑩」とは「磨く」ことあるいは磨かれたものを指すものであり、ここでは統治領域が(磨かれた)鏡の如くはっきりしているという形容として使用されています。
 また「光華」とは美しく光ることや「輝き」をいうものであり、「象」とは物の形をかたどることをいうとされますから、ここでは「日月」つまり「太陽」と「月」を支配して光り輝かせているという意味と理解でき、これは「暦」の作成を意味するものではないかと推察されるものです。
 また「禮」を定めると共にその中で「楽」も創ったと統治実績を誇っています。
 これらは『藝文類聚』にあり、そこに「梁裴子野丹陽尹湘東王善政碑」という「梁」の「裴子野」人物が撰文をした「湘東王」に任ぜられた「丹陽尹」(これは官名)当時の「梁の元帝」についての「善政」を顕彰する「碑」があり、そこからの引用と考えられていますが、これはそもそも「司馬遷」の『史記』に原型ともいうべきものがあるようです。(『漢書』にも同文があります。)

「…軒轅之前,遐哉?乎,其詳不可得聞也。五三六經載籍之傳,維見可觀也。書曰「元首明哉,股肱良哉」。因斯以談,君莫盛於唐堯,臣莫賢於后稷。后稷創業於唐,公劉發迹於西戎,文王改制,爰周?隆,大行越成,而後陵夷衰微,千載無聲,豈不善始善終哉。然無異端,慎所由於前,謹遺教於後耳。故軌迹夷易,易遵也;湛恩濛涌,易豐也;憲度著明,易則也;垂統理順,易繼也。是以業隆於?褓而崇冠于二后。揆厥所元,終都攸卒,未有殊尤?迹可考于今者也。然猶躡梁父,登泰山,『建顯號,施尊名。』大漢之コ,逢涌原泉,??漫衍,旁魄四塞,雲?霧散,上暢九垓,下泝八?。懷生之類霑濡浸潤,協氣流,武節飄逝,邇陜游原,迥闊泳沫,首惡湮沒,闇昧昭晢,昆蟲凱澤,回首面?。然後囿?虞之珍羣,徼麋鹿之怪獸,一莖六穗於庖,犧雙?共抵之獸,獲周餘珍收龜于岐,招翠?乘龍於沼。鬼神接靈圉,賓於闃ル。奇物譎詭,俶儻窮變。欽哉,符瑞臻茲,猶以為薄,不敢道封禪。蓋周躍魚隕杭,休之以燎,微夫斯之為符也,以登介丘,不亦?乎!進讓之道,其何爽與?。…」(『史記/司馬相如列傳第五十七/大人賦』より)

 「裴子野」という人物はその評伝においても「古文」を多く取り入れた「裴子野体」とでもいうべき文体で都を賑わせたとされており、その意味でも『史記』に題材をとって撰文したということは充分考えられます。「司馬相如」になぞらえて後の元帝である「丹陽尹」を賞揚したものと思われるわけです。
 その文章を引用して「安閑紀」を構成しているわけですが、それは単なる「引用」ではあり得ません。それが「継体」に対してのものであることは、特に「継体」がこの文章を引用するのに最適な事業を行ったからに他なりません。しかし、それは当然「中国」の文化との接触の中のことと理解すべきでしょう。古代の日本(倭国)において中国という外来の影響なしに改革などができたとは考えられないからです。
 常に「半島」や「中国」からの「渡来人」が改革の表になり陰になり支えていた勢力であったことは間違いなく、彼らの影響の元に顕彰されるべき「継体」の事業があったと見られるわけですが、それが『書紀』に言う「継体」の時代、つまり「六世紀前半」であるとするなら大いに矛盾と言うべきであり、その年次記述には疑いがあると言うべきでしょう。なぜなら「元嘉暦」の導入がそれ以前の五世紀後半と考えられること、倭の五王の遣使が「武」で途絶えており、「六世紀」に入ってからは「中国」からの文物の導入が低調であったと見られることなどを考慮すると、「六世紀前半」に中国の影響を多く感ぜられる功績が「継体」によって行われたとははなはだ考えにくいこととなるでしょう。またそれは「五世紀代」に「継体」の時代を想定するほうがはるかに合理的と推察する余地を与えるものです。
 
「安閑元年」(五三四年)「上総伊甚直稚子(国造)」が「珠(真珠)」を献上する期限に遅れ、罪を恐れて皇后の寝殿に逃げ隠れたため、さらに罪が重くなった結果「伊甚屯倉」を献上した、と書かれています。

「(安閑)元年(五三四年)…夏四月,癸丑朔,?膳卿膳臣大麻呂奉敕,遣使求珠伊甚.
 伊甚國造等,詣京遲?,踰時不進.膳巨大麻呂大怒,收縛國造等,推問所由.
 國造稚子直等恐懼,逃匿後宮?寢.春日皇后不知直入,驚駭而顛,慚愧無已.
 稚子直等兼坐闌入罪,當科重.謹專為皇后,獻伊甚屯倉,請贖闌入之罪.固定伊甚屯倉,今分為郡,屬上總國.」

 この『書紀』の記事の中では「伊甚(夷隅)」という地域に対する「支配権」を主張しているようにも見え、その「伊甚」が「房総半島」の先端に位置する地域であり、そこに対して特産物の上納を要求していることと「倭の五王」の「東方」への進出という政治情勢もまた符合するものと言えるでしょう。それは当然東海道の整備が(「船」の利用という方法も合わせて)進捗した結果とも言えるものです。その結果「伊甚」に「屯倉」が立てられることとなったものであり、「屯倉」に軍事的前身基地として機能の他、「収穫余剰物」や「特産物」の集積基地としての機能がこの時点以降整備されたことを意味すると思われますが、それは「古代道路」の当初的完成がこの時点であったことを意味するものとも思われることとなります。(ただし「陸路」は「静岡」付近までであったと思われ、それ以降は海路によったものと見られるわけですが、その時点で「沼津」付近に「屯倉」が造られた時期とほぼ重なっていることも重要です)

 「道路(古代官道)」というものが当初「軍事的」なものとして創られ、また利用されたことは明らかであり、馬の利用と共に各地に軍事力を展開できる体制が整ったことが「倭の五王」という強い権力を持った人物と彼の統治体制の発生をうながしたと言えるでしょう。そしてその結果として「建元」や「禮」の整備などの文化的制度等の充実につながったものと思われます。


(この項の作成日 2015/12/26、最終更新 2017/02/26)