我が国の「年号」についての、私たちの「常識」(「知識」)では「わが国においては「年号」と言えば「天皇家」の「公布」するものであり、「それ以外」の「権力者」による「年号」など、「念頭」にもないと思われます。そして、「年号」の最初というものは、「孝徳天皇」の時代の「大化」(六四五〜六四九)であり、「白雉」(六五〇〜六五四)と続き、その後断絶したものの、「一年間」だけの「朱鳥」(六八六)を過ぎて、「大宝」(七〇一)に続き、そこからは「現在」まで(平成まで)連続している、というものではないでしょうか。
これは「現代人」の(戦後の)一般的と言うには余りに「明白」な「年号」についての「教養」と思われます。
このように、一般には「年号」というものについては、完全に固定的」観念が出来上がっており、それを「揺るがないもの」と信じ込んでしまっているように思えます。
しかし、そのような「常識」は実は「明治」以後のものであり、それ以前はそうではありませんでした。
多くの学者達が(「鶴峯戊申」、「貝原益軒」、「新井白石」等々)、「天皇家の史書に見えない年号」が存在していることに気づき、そのことついて各々が論じ、書物を著すなどの活動をしていたのです。かえって「江戸時代」の方が「思想」の羽は大きく広げられていたように思えます。しかし、「明治維新」以後こうした傾向はなりを潜めてしまいます。
「万世一系」と表現されるように「天皇家」は「古代より」唯一かつ絶対の日本列島の代表者であり、「年号」を公布出来る「唯一」の「公権力者」である、という、学問とは別の世界の「明治政府」の「イデオロギー」ともいうべきもの(皇国史観)により、これらの「古代年号群」は後代に「偽作」された「偽年号」であるとされ、論争はおろか学問の対象にもされなくなっていくのです。
この「イデオロギー」はその後も「政府」(国家)の中心的思想として継続、発展され、その思想により「昭和」になって「戦争」が遂行されることになるにも一役買ったわけであり、「天皇」の「神聖性」、「天皇家」の「神聖性」の樹立とその拡大の果ての「信仰」(狂信)につながっていくわけです。
右翼も左翼も、戦前も戦後も、「天皇の神聖性」を疑わない、という立場は共通でした。「歴史学」も「考古学」も「倫理学」も「経済学」も「近畿天皇家一元史観」という共通の基礎の上に立った議論が展開されてきていたわけです。
しかし、ついに「現代」に至り、これらとは別の思想的根拠の中から、新たにこれらの年号群についての学的研究が行われ、それにより新しい見解が得られつつあります。
従来これらの年号についての研究(江戸時代以前からも含め)は大きく分けて三つの立場からのものでした。ひとつは「天皇家」が公布したという記録はないが実際には公布され、使用されていた「逸年号」である(公布したのは天皇家である)というものです。ふたつめは、天皇家が使用したものではなく、豪族などが領地内に使用させていた「私年号」であると言う見解です。三番目は「僧徒」などが実際には使用されていなかったにも関わらず、使用されていたように見せかけた「偽」の「年号」である(偽年号)という見解です。
「新井白石」などは第一の立場のようです。「新井白石」は、水戸藩の知人「安積澹泊(たんはく)」という人物宛の書簡で次のように問い合わせています。
「朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻二八四頁)
というように、新井白石は「逸年号」、つまり実際に天皇家が使用させていたのだが、『書紀』が記載の際に落としたのだという見解のようです。
これに対し宇佐八幡宮神祇の「卜部兼従」によると「八幡宇佐宮繋三」(一六一七年成立)の中で
「文武天皇元年壬辰(ママ)大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時(筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、)天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」
と書いています。この中では「筑紫の教到四年にして」という言い方がされており、「教到」という年号が「筑紫」という地域に関連するもの、という彼の認識を示しています。これは先に挙げた三つの立場の中では第二の立場(「私年号」である)というものに近いと思われますが、彼が「宇佐八幡宮」の人間であるということを考えると、「筑紫」という政治領域について重要な視点を与えるものともいえ、さらに「筑紫」というかなり後代な領域で使用されていたという認識をも示すものと考えられますから、その存在を重く見ているとも言えるでしょう。
また「本居宣長」の著書「玉勝間」には以下のような文章があります。
「『體源抄』(豊原統秋著)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり」。
以上のように「東遊」の起源として『體源抄』の記事を引用したものですが、この中に「教到六年」(丙辰、五三六)という年号が出て来ます。「宣長」はこの年号について何もコメントを記していないため、態度不明ですが、「偽年号」とは思っていないようです。しかし、彼は、彼の別の著書である「馭戎慨言」の中で「筑紫なりしもの」が「姫尊」(神功)の名を偽って使った、としています。つまり、「邪馬台国」女王の「卑弥呼」が「魏」との間に行った交渉は「九州筑紫」の豪族が倭王であるかのように「装った」ものである、と言うのです。
この見方は逆に言えば、そう考えるより論理的に整合し得ない部分があったということでしょう。それは「倭国」情報と国内資料『古事記』『日本書紀』との間に食い違いがあったからです。
この点については彼の弟子の「鶴峯戊申」の「襲国偽僭考」もこの考え方に近いものです。彼は「襲」つまり「薩摩」の国の女酋長が「倭国の女王」を僭称して偽の国と交渉したのだ、と言う主張です。ですから、いわゆる「九州年号」はその「襲」を中心とした領域で使用されていたのである、と言うものであり、「私年号」という主張になると思われます。
他にも、関東の足利氏等が年号を作って使っていたのが明らかになっています。当時(鎌倉、室町)に関東一円で実際に使われていたのです。研究者の中には問題となっている年号群についてもこれと同じもの、と言う考え方があり、この場合は「私年号」に当たる、と言う立場です。
第三の立場に近いものとしては、筑前黒田藩の儒者「貝原益軒」(一六三〇〜一七一四)がいます。彼はその著書「和漢名数」「続和漢名数」において、わが国における年号の始まりについて論じています。
益軒はこの中で、俗間では大寶年号以前に「善記」や「僧聴」等の年号があったと言い伝えられているが、それらは虚妄であり信じることはできないと、古代年号=「偽年号」であるという見解を示しています。もっとも、そう判断する根拠や論証は記されていません。『続和漢名数』(元禄五年、一六九二成立)でも、これらの「偽年号」は浮屠(仏教僧侶)が「妄作」したものとしています。
これに対し明治二十五年(一八九二)に京都市で刊行された広池千九郎編『日本史学新説』に「今泉定介」による「昔九州は独立国にて年号あり」いうものと「飯田武郷」の「倭と日本は昔二国たり・卑弥呼は神功皇后に非す」があります。(※)
「今泉」の論文はその基礎となる資料が「鶴峯重信」が見たという「九州年号」という表題を持つ古写本と同一のようであり、彼はそれを明治中頃に見たとしています。また、「飯田武郷」はその論文中で「上古彼史にて倭と云は我皇国に非ること断然明也」と主張しています。
つまり、「倭国」とは「我が国」ではなく、言い換えると古代に「我が国」以外に「倭国」があり、「二国」が存在していた、という主張です。このような主張をしていた彼らですが、その直前に「大日本帝国憲法」発布(明治二十二年)や「教育勅語」の制定(同二十三年)によって、明治政府が「天皇家一元論」という「イデオロギー」を推進し始めているわけであり、彼らもその思想の「波」に飲まれ、以降はそれらの論文とは別の立場として著述・出版・教育などに活躍することになりますが(つまり主張を変えてしまった)、これらの論文等は、「九州は独立国」、「倭国は『我皇国』とは別の国」、という一種「異端」の見解が「明治」に存在していたという事実を示しているのです。
(※)冨川ケイ子『九州年号・九州王朝説 ー明治二五年ー』古田史学会報No.六十五 二〇〇四年十二月九日によります。
(この項の作成日 2011/07/30、最終更新 2011/09/22)