「一九七四年」に富山市で「四隅突出型古墳」といわれるタイプの古墳が発見されました。このタイプの古墳は、それまでは「出雲」地方にしか見られないものでした。そのものとおなじものが「越」の地である富山地方で発見されたのです。
それまでの学界の常識では全ての文化的影響は「近畿」からであり、ある地域が「近畿」の文化的影響無しに他の地域と、しかも遠距離を超えてつながっているという事は全く想定されていなかったのです。しかし、調査が進むにつれて、「出雲」と「越」の直接関係というものが事実である事がはっきりしてきたのです。
古代においては、地域を異にする権力者同士が同じような形の墓を作っていたという事は、この権力者同士の間に何らかの交流があったという事を意味します。(たとえば血筋がつながっている、あるいは王と臣下の関係など)
このことは、少なくともこの古墳が作られた「古墳時代初期」には「近畿」の権力者が介在しない交流が日本海側にあったという証拠とみられます。
ちなみに、この時代を「弥生時代」とする考え方がありますが、(「土器の並行関係」という考え方)それは「近畿」ではまだ「弥生時代」が継続していたと言う以上のことは示さないものであり、「時代相」が地域により異なるというある意味当然のことを示しています。つまり、「同じ土器」が出たら「時代」も同じという考え方には、「誤解」と「限界」があると言えるのです。
また、これらの「四隅突出型古墳」と同一台地内に、同時期と見られる「方形周溝墓」がありましたが、副葬品として出土したものは「ガラス小玉」、「素環頭鉄刀」などであり、「九州北部」に分布するものと酷似していました。またこの鉄刀には「絹」が付着しており(刀を入れる袋の生地か)、これは「北部九州」に「集中的」に出土するもので、「弥生」から「古墳時代初期」には「近畿」では決して出土しないものなのです。このことは「北部九州」と「北陸及び山陰地方」との間に日本海を通じた緊密な関係があった事をうかがわせるものです。
その後ほかにも同様な墳丘墓が富山県地方から福島県に渡る地域で多数発見されており、何れも「弥生中期」から「古墳初期」のものと推定され、長い間にわたってこれらの地域と「出雲」、「筑紫」地域の交流が「直接」的であり、深くまた「継続的」であったことが立証されているのです。このような関係は「出雲」に王権があった時代から、その後大地震と大津波を経た後に筑紫に権力が移動された後も日本海を通じた交流は安定して続いていたことを示すものであり、「邪馬壹国」率いる「倭王権」の統治範囲の一端を示していると考えられます。
また、近辺からは「前方後方墳」も発見されています。このタイプの古墳は「東海地方」で見られるものであり、同様に「近畿」を介在しない関係が存在していたことの証であります。これは「出雲王権」との関係が遺存していたと見るべきかもしれず、その意味でも「出雲王権」の統治がかなり長期にわたっていたであろう事が推察されることとなります。
(「原」と書いて「ばる」「はる」と呼ぶ地名の分布も「九州」と「富山県」にしかなく、特に「福岡」、「北九州」に顕著であることや近縁語と考えられる「丸」のつく地名も同じ傾向があり「筑紫」と「越」に濃密であることなどの事実もあります。さらに「筑紫」の遺跡から「翡翠」の加工場跡が発見され、「翡翠」の原石も出土するなど「筑紫」と「翡翠」の原産地である「越」を直接結ぶ日本海側の文化圏の存在が改めて立証されています。
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2019/02/10)