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装飾古墳について


 「装飾古墳」は九州の古墳文化に特徴的なものです。「不知火海」沿岸地域で石棺に線刻や浮き彫りを施すことから始まった装飾は、石障から石屋形、石室壁へと施され、彩色画へと発展し、熊本県、福岡県、佐賀県、大分県など中・北部九州へと広がっていったものです。装飾古墳の分布は「九州」(薩摩を除く)及び「出雲」「東海」「常陸」が主要なものです。

 「装飾」の内容は、「彩色」されたもの(土や岩を砕いて作った絵の具で直接に描いたもの)、「線刻」(先のとがったもので文様を刻んだもの)、「彫刻」(鏨「たがね」などで文様を掘ったもの)などが確認されています。
 代表的な模様としては「幾何学文様」があります。「円文」、「同心円文」、「三角文」、「連続三角文」、「蕨手文」、「双脚輪状文」、「直弧文」、「菱形文」などがあり多彩です。

 また具体的なものを描いたものとしては「靭(ゆき)」、「鞆(とも)」、「盾」、「大刀」、「弓、」、「翳(さしば)」等が確認されています。もちろん人間や動物を書いたものもあり、ヒキガエルや四神のように明らかに「大陸文化」の影響が感じられるものもあります。
 これら古墳内へ装飾壁画などを施すことは「畿内古墳文化」の影響でないことは確かです。
 
 一般には「装飾壁画」自体に「破邪」の観念があると考えられ、その「早期の例」が「大阪府柏原市」の「安幅寺」の敷地から発見された「割竹式石棺」の蓋に刻まれた「直弧紋」とされていたのです。しかし、この石棺の材料は「四国」の「香川」から運ばれたことが判明しています。「香川」には「割竹形石棺」が数多く見つかっていることから、この石棺は「近畿」で作られたものではなく、「香川」から持ち込まれたものと考えられるようになりました。
 「香川県」には「装飾古墳」が多く見られ、この「割竹式石棺」自体が「装飾古墳」の影響下にあるものと考えられるものです。つまり、「近畿」には「九州」から「香川」を経て伝搬したものと推察されるものです。

 また、装飾の中には「船」が描かれているものがかなりあり、「船に乗って遙かな地」(あの世)に旅立つイメージで語られることもあったのですが、調べてみるとこの船は「桟橋」(港)に到着した状態を描いていることが明らかになりました。従来考えられていたこととは全く逆になったわけです。
 これについては『隋書俀国伝』の葬儀の記事が思い起こされます。
 そこでは「死者」を船に乗せ「陸上から引っ張って陸地に上げる」様子が書かれています。特にこれは「貴人」の葬儀に関することのようであり、古墳に埋葬する前の葬儀段階で、このような儀式を行っていたものと思われ、それが「装飾」として石室内部に書かれているのだと推測されます。

 静岡県の「相模湾」エリアにも「装飾古墳」があります。同じ静岡県の「駿河湾」には「宇戸」という地名が見えますが、装飾古墳が濃密な熊本(肥後)にも「宇土」という地名があり、これは「単なる偶然」ではなく、地名と共に装飾古墳が伝搬したものであると思われ、九州からの伝搬と思われます。
 その後この地が九州に特に関係が深いこともあってこの場所(宇戸)に「屯倉」が設置されることとなったものと思われます。(『安閑紀』に屯倉設置記事あり)
 

(この項の作成日 2011/01/03、最終更新 2011/11/15)