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前方後円墳の変遷


 「五−六世紀」になり、各地で古墳造営が盛んになり、巨大古墳が見られるようになります。その中心となる形式は「前方後円墳」です。この形式の古墳は従来「畿内」が発祥で、それが各地に広がっていくという説明がされていますが、それは実際の古墳の状況とは整合しない話なのです。
 たとえば奈良盆地からは「前方後円墳」の原型といえるものも、その前身とも言うべき「弥生墳丘墓」も発見されていないのに対して「九州」では「宮崎県西都原古墳群」から「弥生時代」から「古墳時代」への過度期にあたる、「三世紀中ごろ」の「古式前方後円墳」が発見されています。
 「吉備地方」でも、「楯築遺跡」から「前方後円墳」の原型と考えられる「弥生墳丘墓」が発見されています。しかし、それらに比べ「畿内」(奈良盆地)からはそのような「弥生時代」と「古墳時代」をつなぐものが発見されていないのです。ただし「弥生時代」に多く見られる「方形周溝墓」は「墓域」の周囲を「濠」が廻っているという型式は共通しており、「前方後円墳」につながるという考え方もありますが、その「方形周溝墓」の祖型は「筑紫」にあったと見られますから、その意味で「近畿」と「前方後円墳」が特に結び付くというわけではありません。
 「前方後円墳」から同時に出土する事の多い「円筒埴輪」についても、その起源が「特殊器台形土器」にあるのではないかと言われており、「特殊器台形土器」から「特殊器台形埴輪」へ、そして「円筒埴輪」へと変遷した過程が強く推論されています。しかし、古墳文化の発祥といわれている「畿内」の弥生文化には「円筒埴輪」の前身になるような土器は発見されていません。

 また、「畿内」の「前方後円墳」に関してはその建設において「他の地域」(「九州」「吉備」「瀬戸内」等)の影響により造られており、「測量技術」や「土木技術」などについても近畿起源とは考えられない、と言われています。つまり、「墓制」の基本的要素が「近畿」以外の地域からの持ち込みであり、近畿のオリジナルなものではないことを示しています。「古墳」を製造するには高度な土木技術等の先進的技術が必要ですが、そのようなものが前触れもなく身につくものではないことは明らかであり、巨大な「前方後円墳」が作られるためにはその前段階というものを経なければならないのは自明であるのに対して、「近畿」にはそれが存在していないのです。
 「箸墓古墳」の場合、周辺から出土した「近畿」タイプの「土器」などの状況から、「近畿」(大和)の民衆はこの古墳の被葬者に対して「崇拝」の念を持っていたことを示していますが、この「信仰」についてもそれ以前の「近畿」地方にはそれを窺わせるものが全く見られず、他から政治的圧力が加えられていたという可能性が想定されています。
 そもそも「墓制」というものは容易に変化しないものであり、新しい形式の古墳などが発生すると言う事は、「征服」「改宗」などの他からの「軍事的」「政治的」な圧力があったものと考えなければならないことを示すものであり、それは「前方後円墳」の発生に関するメカニズムについても同様のものがあったと想定すべきこととなります。

 「国立民俗博物館の春成秀爾氏によれば、「前方後円墳」は「葬制」というより「即位制」であり、あくまでも「前首長」(王)の身に付けていた「霊性」を「新首長」に移動するための儀式の場であったとされています(※)。そしてそのような「首長」の交替時の儀礼は「弥生時代」の「墳丘墓」からは推測することができないとされ、ここに「断絶」のあることを表明しています。
 「弥生」の墳丘墓からは「鬼神」に対する信仰以上のものが看取できず、死者を「祖霊」に組み入れる儀式だけが行われたものであり、「権力者」の交替時の儀礼に結びついたのが「前方後円墳」においてであったとされているわけです。氏によればそれの主要な装置とされたものが「高野槙」製の「割竹型木棺」であったわけですが、その原初的なものは「筑紫」の代表的弥生遺跡である「平原遺跡」から出土しています。
 このような「葬制」と「権力者」(ここでは「首長」)の交替儀礼が結合するには、そのような「権力者」がその地位を得るにあたり特別な権能が付与される過程があったことを示し、それは「副葬」されるものが「武器」的傾向を持つものになっていくことにその過程が如実に透かし彫りにされています。

 ちなみにこの「箸墓古墳」は「卑弥呼」の墓であるかのように言われることがありますが、『書紀』は「神功皇后」を「卑弥呼(と壱与)」に充てようとしています。そのために「年次」も大きく「ずらされている」ほどです。そこまでして『魏志」の記事に適合させようとしている事を考えても、それとは別の人物である「孝霊天皇」の皇女、「倭迹迹日百襲姫命」が「卑弥呼」である、という考え方は、少なくとも『書紀』を編纂した「八世紀」の「日本国王朝」関係者の念頭にはなかったことを示しています。
 このことは「近畿王権」内の伝承に「卑弥呼」に相当すると考えられた人物がいなかったことを示しており、「箸墓」と「神功皇后」に関する『書紀』の記述は「八世紀」の『書紀』編纂者たちが、「倭迹迹日百襲姫」が「卑弥呼」であるとか「箸墓」が「卑弥呼」の墓であるとかということを全く主張していない事を示しています。
 つまり、「箸墓」が「卑弥呼」の墓でないことは、誰よりも『書紀』の主張であるのです。それを考えると現代の学者達がこの「古墳」を「卑弥呼」の墓に擬することのいかに根拠がないことかがわかると思われます。
(ただし、この時代「神」に仕えるのは「女性」と決まっていたものと思われ、「倭迹迹日百襲姫」も「大物主神」という「神格性」の高いもの(「蛇」の化身)と結婚したことになっており、これは「蛇」を祀る信仰との習合と合体を示すものと思われ、「倭迹迹日百襲姫」が「巫女」のような存在であることは確かであると思われます。)

 以上のことから「前方後円墳」の起源が「畿内」にはないことは明らかであり、「畿内」の「前方後円墳」の発生のストーリー(メカニズム)に関し、従来の定説について強い疑義が生じるものです。
 そもそもこの古墳は、現在「宮内庁」により「天皇陵」に準じる扱いをされており、「研究」の対象となっていないため、年代は不明なのです。
 この墳丘付近からは宮内庁職員により「採集」された「特殊器台・特殊壺」が発見されていますが、これは「吉備」の地である「岡山市付近」から運ばれたと推測されています。しかしこのような「採集」が「学問的手順」を正確に踏まえた上で実行されているのかが全く不明であり、「宮内庁職員」などの手が入ることには強い疑問を感じるものです。

 また「通説」では、「前方後円墳」の時代の全ての時期で「近畿」が最大古墳である、と言う主張がされることがありますが、そこには論理の「巧妙な」すり替えがあります。
 この「前方後円墳」という単語を「天皇陵」に置き換えてみると、答えは突然変化します。つまり、「天皇陵」とされる「古墳」よりも巨大な「前方後円墳」が、その「天皇陵」と「同じ時代」に存在しているのです。
 「吉備」にも「関東」にも「日向」にも、同時代の「天皇陵」とされる「前方後円墳」より大きい古墳が存在しているという事実があります。更にいうと、同じ「近畿」の中でも同時代の「天皇陵」よりも巨大な「前方後円墳」があるのです。(そもそも「天皇陵」というものが本当に「天皇陵」なのかを考えてみると、その根拠として考えられているのが『書紀』の記述が中心なのであり、この「『書紀』の記述に即して考える」という方法論そのものがその有効性を問われていると言ってもいいでしょう)
 これらから言えることは、「権威」の高さと「古墳」の大きさは必ずしも「一致」するものではない、と言う事です。「巨大古墳」であろうと「副葬品」が多量であろうと、「権威」の高さ、「大義名分」の確かさとは、それらは直接は関係しないし、「一体一」で対応しているものではない、と言う事を示しています。それよりもむしろ「同型古墳」の「新−旧」という時系列が「権威」の根源を示しているという風に考えるべきではないかと推察されます。
 たとえば「関東」や「九州」で「近畿」の古墳と「相似」(寸法の比率が同じ)の古墳がいくつか存在しています。これも「通説」では「近畿」の古墳の「縮小コピー」という言い方をされることがありますが、時代の前後関係が明確でなかったり、あるいは同時である事が明確であっても「中央」は「近畿」という先入観で、「縮小コピー」という考え方になってしまっています。
 しかし、逆に「拡大コピー」である、と言う可能性も考慮すべきなのはもちろんです。まして、「前方後円墳」は「祖型」が「九州」にあるのが明確になったわけですから、「拡大コピー」である可能性が強くなったと言えるでしょう。

(※)春成秀爾「  」


(この項の作成日 2011/01/03、最終更新 2015/06/04)