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ピンク岩(馬門石)とは


 近畿を中心とした地域で発見される古墳の中にある特徴的な一群があります。(「継体」の陵墓とされる大阪府の今城塚古墳や、「推古」の初陵とされる奈良県の植山古墳などです)
それは五世紀後半から六世紀前半の間に集中して作られたと考えられているものですが、それらの特徴は古墳の「石棺」に、九州の「阿蘇山」の「溶結凝灰岩」(通称『ピンク岩』) が使用されていることです。また時代的には六世紀後半以降のものは全く見いだせないという特徴があります。

 そもそも、これら石棺材料は非常に大きく、重量のあるものであり、運搬には大きな困難があったものと考えられますが、このようなものをあえて「九州」から運んだのはなぜか? という疑問があります。
 すでに触れたように瀬戸内、畿内の多くの石棺には阿蘇の灰色凝灰岩が使われているのが明らかになっており、それによると石棺の形も九州(熊本)の古墳のものと同一でした。(産地としては熊本県氷川と菊池川上流があります)このことからこれらの石棺と肥後(熊本)との深い関係が考えられるところですが、しかし、灰石石棺とピンク岩石棺には明確な違いがあり、灰石石棺は九州でもポピュラーであるのに対して、ピンク岩石棺は地元からは全く出ない、という事実があります。これらは畿内・瀬戸内の特定の古墳にしか出ないのです。
 (ただし、九州の古墳に「石人・石馬」というものが随伴することがあり、ちょうど「埴輪」のように古墳の周囲に設置されたものですが、これに「阿蘇ピンク岩」が使用されていることがあります。たとえば「磐井」の墓として有名な「岩戸山古墳」やそのすぐ近くにある「石人山古墳」などがそうです。これらの例は五世紀前半から六世紀中ごろのものと考えられており、畿内・瀬戸内の古墳で石棺にピンク岩が使用される直前の使用法を示しているようです。)

 一般に「古墳」というものが、「仏教以前」の時代に区分される宗教的建築物なのは常識です。そこで行われていた「祭儀」は国内に仏教が認知、普及されていくと「古墳」に替わり「寺院」において「仏式」による「祭儀」が行われるようになります。その転換点は六世紀の終わりであり、このころ近畿では最初の寺院である「法興寺」が建設されます。これ以降、古墳(前方後円墳)は急速に衰退し、墓としては「終末期古墳」と呼ばれる小型の方墳や円墳が作られ始めます。さらに各地に権力者の手により寺院が多数建築されることとなります。
 ピンク岩を石棺の材料として使用している古墳というのはちょうどこの古墳時代の最終末に位置しており、あたかも古墳と寺院をつなぐ役割をしているようです。そして主要な材料として「九州」の岩が使用されているということは、これらの古墳が仏教に関する影響の第一波を「九州から」受けた、ということを意味していると考えられます。

 寺院建築の技術において九州が常に先行しているのはすでに各種の研究で明らかになっていますが、これは単に技術の問題ではなく仏教というものの国内における淵源が九州にあり、そこから波及して全国に行き渡って行った、という事実の裏返しであろうと考えられます。
 この「ピンク岩」を使用した石棺が「上宮法王」の時代と重なっている、ということはもちろん偶然ではなく、彼の推進した「阿弥陀信仰」の広がりと深い関係があると思われます。詳細は後で触れますが、彼は倭国内統治策の柱として仏教を利用したものであり、そのことにより「古式」としての「祭儀」にかかわる勢力に打撃を加える意図もあったであろうと思われます。
 『隋書たい国伝』に現れる「阿毎多利思北孤」は「隋」の高祖(文帝)から「統治体制」について「前近代的」だとされ改善するよう「訓令」を受けています。この「訓令」が当時「文帝」が推進していた「仏教治国策」と同質の内容であったであろうことは想像に難くなく、これを受け入れざるを得なかった「阿毎多利思北孤」は、これを逆に好機と捉え、国内統治に利用する方針により「諸国」に「仏教」推進策を進めていったものと思われますが、その視点で「大古墳」の築造が停止させられたものと思われ、「前方後円墳」の築造がその時点以降不可能となったものです。しかし「遣隋使」を派遣するなどの行為の前提として、るある程度国内統治が進んでいた時点では「仏教」を統治に利用する施策はそれほど強力ではなく、古墳に使用する材料に対する制約あるいは強制があった程度ではなかったかと思われ、それが「肥後」から材料を調達するという行為の中に現れていると思われるわけです。

 またこの信仰が基本的に「海人」に受け入れられやすいものであることも重要な要素です。経典にもあるように「如意宝珠」を手に入れるには「海中に入る」必要があり、それらが可能なのは「海人族」なのです。九州では「安曇氏」や「宗像氏」など海人族の勢力が強く、彼らの信仰に仏教的要素が加わっていく過程においてこれらの如意宝珠に関する経典が重要な役目を果たしているようです。
このような時期に発生した「古墳」は、「仏教寺院」が現れる「過渡期」としての存在であり、またそこに「阿蘇山」の「ピンク岩」が使用されているというのは、死後も「阿蘇山」の懐に抱かれていたい、という願望があるようです。このような「古墳」は「九州」と関係がある人物の墓である可能性が非常に高いものと考えられます。


(この項の作成日 2011/01/03、最終更新 2021/03/06)