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(二)


「熟田津」の歌の別解釈(二)

「趣旨」
 前稿に引き続き「万葉八番歌」について考察し、「熟田津」は当時の瀬戸内海路において中継基地として機能していたと思われること。「難波」から船出する際には「満潮」を待つ必要があったと思われること。以上を考察するものです。

T.「熟田津」の重要性
 ところで、上で考察したようにこの歌が「難波」から軍事行動を起こす際の歌であるとすると、行き先がなぜ「娜大津」ではないのか、なぜ「熟田津」なのかが問題となるでしょう。それはそこがこの海域の「潮流」の「潮目」であり、「西行」から「東行」へと変る場所であるため、「西行」してきた船団にとっては一旦小休止が必要であったものだからと考えられます。
 ここまでは「潮」の流れに沿ってくることが可能ですが、そこからは流れに逆らって運行する必要があり、この時点で漕ぎ手を増やして対応したと思われます。場合によってはここで船を乗り換えたという可能性もあるでしょう。
 つまり以前から「熟田津」は中継地としての機能があったと思われることとなるでしょう。この「斉明」の船団と似たような時期に「難波津」を出発した「遣唐使船」(伊吉博徳の乗船していたもの)の行路記事によれば「…以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。…」
とされ、ここでは巧妙に「難波」から「筑紫」までの所要日数は伏せられていますが、『倭人伝』の水行の距離と日程の関係をここに敷衍して考えると、「難波」から「博多」まで距離にして六〇〇キロメートル弱ありますから、(正木氏のいうように水行千里を二日間と考えると)約二週間ほどで到達可能です。当然「筑紫」で若干の小休止を含んでいるわけですが、途中食料その他の補給などが全くなかったとも考えにくく、「潮目」が代わる「熟田津」で「小休止」があったと見るのが相当ではないかと思われます。それは「斉明」が亡くなった後「難波」へ帰還した「天智」の行程からも窺えます。
「冬十月癸亥朔己巳。天皇之喪歸就于海。於是皇太子泊於一所哀慕天皇。乃口號曰。枳瀰我梅能。姑衰之枳舸羅爾。婆底底威底。舸矩野姑悲武謀。枳濔我梅弘報梨。
乙酉。天皇之喪還泊于難波。」
 これを見ると十七日間で帰還しており、水行日程からの類推とも大きく異ならず、ほぼ自然な日数と思われます。また、「泊於一所哀慕天皇」とありますからどこかで「泊り」そこで「斉明」を哀慕したというわけですが、最も可能性が高いのは「熟田津」においてではなかったでしょうか。この場所が「中継地」として使用されていたとして、そこがまた「斉明」が好んだ場所であるとすると、そこで「哀慕」して歌を詠むのはあり得ることと思われます。
 これらのことから、この「熟田津」そのものが「中継地」としての機能を有していたものであり、ここで「物資の補給」など「筑紫」への航海の体制を整える意味があったものでしょう。
 また、この経路を「筑紫」から「伊豫」へというように理解する向きもあるようですが(註1)、それは困難と思われます。理由はこの「熟田津」の歌が語調が良すぎるからです。これは明らかに「戦闘開始」に近いものであり、軍発進の号令としては首肯できますが、「石湯」へ行くためには大仰すぎるでしょう。また軍出動の一環であるならば「筑紫」から「伊豫」へ一旦向かう理由が不明となります。「新羅」への軍出動を指示しながら、自らは後方へ移動していることとなり、これでは軍の指揮や連絡がスムーズに行くはずがないと思われます。

U.「月を待つ」とは
 ところでこの歌の中では「月を待つ」という行為が為されています。この意味についても従来諸説がありますが、もし潟や陸地に船があるとすると「満潮」にならなければ船出できないこととなるでしょう。
 出航する船が大型であれば「満潮」から「潮」が引き始めるタイミングが絶好の船出のチャンスでしょう。皆船に乗り込んで準備していて、月が出て潮が満ちたその瞬間を選べば、通常は大型の船が出入りできないような遠浅の港からでも容易に外洋に出られます。
 軍用船は装甲(「矢」などのための防御板)などが船体各所にあったと思われ、重量があった可能性があるでしょう。そうであれば通常より「喫水線」が高かった可能性があり、これを進水させようとすると水位を高く保つ必要があったかも知れず、それには「満潮」が必要であったとも考えられます。(ただし『書紀』によれば「斉明」達の「難波」からの出航日時とされる「春正月丁酉朔壬寅」は「大潮」ではありません。(六日です)その意味では単に「満潮」を待っていたと推定されます。特に「大潮」である必要はなかったか、あるいは「大潮」の日(前月の晦日か当月の朔日)が天候不良であったからとも考えられます。)
 「難波津」ではありませんが同じ近畿の「住吉」の岸に船が到着する際には「潮が満ちる」タイミングを利用していたらしいことが「謡曲」から窺えます。
「…我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\『潮の満ちくる浪に乗つて』。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。『汐にひかれ波に乗つて。』長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。…。」 (謡曲「岩船」からの抜粋)
 ここでは『潮の満ちくる浪に乗つて』あるいは『汐にひかれ波に乗つて』とされ、それによって「住吉の岸」に到着したように書かれています。
 ここに出てくる「磐船」は当時としては「大型船」をいうと思われ、金銀財宝を満載しているという書き方からも喫水線は高かったと思われますから、「満潮」を待たなければ岸に着けなかったものではないでしょうか。「熟田津」の歌ではちょうどこの逆を行おうとしたと思われるわけです。

 さらに『斉明紀』の「伊吉博徳」が乗った「遣唐使船」にも同様のことがいえるようです。
 「…以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以『十四日寅時』。二船相從放出大海。…」(斉明紀)
 ここに書かれた「難波」からの出発日時はやはり「大潮」の日ではありません。しかし「三日」であればまだ月と太陽の方向はそれほど違わず「大潮」に準ずる程度の海面上昇があった(註2)と見る事ができるようです。また「百濟南畔之嶋」からの出発の日時として書かれた『十四日寅時』は確かに「大潮」の時間ですからここでは「大潮」である必然性があったと見られることとなります。この時は意図せずして流れ着いたわけであり、浅瀬に乗り上げていた(座礁していた)という可能性もあるでしょう。「遣唐使船」のような外洋船がそのような状況に立ち至った場合は、そこから船出(というより「離礁」でしょうか)する際には「大潮」でなければ外洋に乗り出せないということがあったものと推量されます。そしてこのような方法は通常の船出の際にもかなり有効であったことが推測できるものです。

「註」
1.室伏志畔『万葉集の向こう側』五月書房二〇〇二年
2.気象庁の発表する潮位表によれば大潮である満月と新月の前後3〜4日間は大潮の時の海面上昇から10cm程度減少するだけのようです。

「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系『日本書紀』」岩波書店
高木市之助・五味智英・大野晋校注「日本古典文学大系 『万葉集』」岩波書店
大森亮尚「熟田津歌考 ―その表現と神事をめぐって―」『上智大学国文学論集』二十六号一九九三年一月
景山尚之「額田王九番歌について」『園田学園女子大学論文集』三十七号二〇〇二年十二月
長洋一「朝倉橘廣庭宮をめぐる諸問題」『神戸大学論集』二十六巻三号一九八〇年