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(一)


「熟田津」の歌の別解釈(一)

「趣旨」
 「万葉八番歌」に歌われた「熟田津尓」の「尓」は「目的地」や「方向」を表す助詞と見ることができること。そのことからこの歌は「難波」から「熟田津」に向けて出発する際に読まれたものと考えられること。以上を考察します。

T.「熟田津『尓』」の『尓』
 万葉集に「額田王」の歌として「熟田津の歌」が書かれています。
(万葉八番歌)「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜/熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
 この歌の解釈は古今、諸説が入り乱れていますが、いずれの論者もこの「熟田津」を「発進地」として理解しているようです。しかしこの「熟田津」は「目的地」として書かれていると考えることも可能ではないでしょうか。
 この歌の最大の問題は「熟田津尓」の「尓」(に)という助詞であると思われ、この助詞の意味するところがこの問題を解く鍵ではないかと考えます。
 この「に」という助詞には色々意味がありますが、ここでは目的地や到着地(方向)を表すものとして使用されていると考えます。(註1)
 「船乗りせむ」という言葉からは、「陸」あるいは「浜」から「海」へという「方向」が内蔵あるいは暗示されていると思われ、これは『万葉集』に確認できる他の例からも英語で言えば「to」の意義で使用されていると思われます。
 この「熟田津」の歌に使用されている「に」とほぼ同義の「に」が万葉集の中にいくつか確認できます。

(万葉三二三番歌)(山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首[并短歌])反歌
「百式紀乃 大宮人之 飽田津『尓』 船乗将為 年之不知久/ももしきの大宮人の熟田津『に』船乗りしけむ年の知らなく」
(万葉三二七番歌)或娘子等<贈>L乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
「海若之 奥『尓』持行而 雖放 宇礼牟曽此之 将死還生/海神の沖『に』持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ」
(万葉三五九番歌)(山部宿祢赤人歌六首)
「阿倍乃嶋 宇乃住石『尓』 依浪 間無比来 日本師所念/阿倍の島鵜の住む磯『に』寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ」

 上の例のうち「三二三番歌」は「熟田津」の歌を踏まえた「本歌取り」ですから、これは別としても、「三二七番歌」は「海人の沖まで」という意味であり、また「三五九番歌」は「鵜の住む磯に向かって」という意であると思われ、いずれも「持ち行く」であるとか「寄する」というような方向性を内蔵した動詞が述語として選ばれています。
 つまりここでは「尓」は「方向」や「目的地」を表す意の助詞として使用されており、これは「熟田津尓」と同様の使用法と思われます。
 それに対し異なる用法の「に」も確認できます。
(万葉集四十番歌)「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」
「鳴呼見乃浦『尓』 船乗為良武 嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香/嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか」
 この「尓」は場所を示す「で」の意味であり、「at」の意と見られます。「熟田津」の歌についてもこれと同義であるというのが通常の理解のようです。つまり「熟田津に」と「月待てば」が対応しているとみて、この「尓」をその「場所」を表す「で」の意味で理解しているわけです。しかし、月を待っているのは船出するためであり、どこから船出するのかと言えば「熟田津」からとするわけですから、この「尓」には「から」の意として使用されていると考えるのが正しいはずです。

U.「に」という助詞について
 元々「に」という助詞は「方向」や「着点」を示すのがその本義と思われ、それ以外の意味はそこからの派生であると理解されています。それに対し従来の全ての説はこの「熟田津」を「出発地」として「から」の意で理解していることとなるわけであり、本義からはずれた解釈と言えるでしょう。
 「出発地」として歌うならば本来もっと適切な助詞があります。

(万葉二三四番歌)(霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王<薨>時作歌一首[并短歌])或本歌曰
「三笠山 野邊『従』遊久道 己伎<太>久母 荒尓計類鴨 久尓有名國/御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに」
((山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌])反歌
「田兒之浦『従』 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留/田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」
(万葉三六六番歌)角鹿津乗船時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]
「越海之 角鹿乃濱『従』 大舟尓 真梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨為而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努櫃 日本嶋根乎/越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真楫貫き下ろし 鯨魚取り 海道に出でて 喘きつつ 我が漕ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海女娘子 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見る験なみ 海神の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を」

 「出発地」(発進地)を示す助詞としてはこれらの例にみるようにこの当時は「従」(ゆ)を使用していたと思われます。
 これらの例における「ゆ」という語には「従」という漢字が使用されており、これは「漢語」において「起点」「基点」を表す「語」であり、「より」「から」という方向性の意味を表すものです。
 「熟田津」の場合も出発地を表すなら「従」を使用するはずですが、そうはなっていないのですから、ここで使用されている「に」は「着点」などを示す「に」の本義としての用法と考えられることとなるでしょう。

V.「左注」について
 ところで、この「熟田津」の歌には「左注」が付いており、そこには以下のように書かれています。

「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁<酉>十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔<壬>寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧『昔日猶存之物』 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」

 ここではこの歌は「山上憶良」の「類聚歌林」によれば「天皇大后」が「伊豫湯宮」に行幸した際に、『昔日猶存之物』をご覧になり、歌を詠まれ「哀傷」したというのですが、『昔日猶存之物』というのが何なのかが全く書かれていないことや、それに対する「哀傷」というものとも全く異なるトーンでこの歌は作られています。つまりこの「左注」の内容と歌とは全く整合していないこととなります。
 この歌は当時「百済」から援軍を請う使者が来て、それに対し「斉明」が「難波宮」から在筑紫の将軍達に対して「百道」(これは筑紫の地名)からの発進指令を出し、自分も押っつけ駆けつけるという形となったものであり、その際に読まれたものと考えるのが正しいと思われます。つまり当初の出発地は「近畿」ですから、このような軍事船団の出発を言祝ぐために歌うなら、出発地である「近畿」(難波)で歌われたと考えるのが妥当と思われることとなります。
 この歌の内容が「左注」と整合していないということは、「左注」に拘泥していては歌の本義が解明できないということです。従来の研究者達は「左注」を無条件に重視あるいはそれに依拠していて、その結果この「に」を「目的地」とすることが出来なくなったものでしょう。
 すでに見たように『万葉集』の中には「に」が「方向」や「目的地」を表す助詞として使用されている例はいくらもあり、「熟田津尓」の「に」についても同様の解釈は可能であるわけですが、従来はそういう方向には傾かず、「に」を「内在的」には「from」の意味で使用しながら、体裁(外面)としては「at」の意味であると強弁しているのです。それは「左注」との整合をとるためと思われるわけです。
 しかし、そもそも「左注」と「本文」(本歌)は本来別であり、「左注」に引きずられて正当な解釈ができないというのは本末転倒以外の何者でもありません。
 古田氏も主張されているように(註2)「左注」から「本文」を解放するべきであり、独立して研究の対象とすべきでしょう。
 『書紀』の記事の「御船西征。始就于海路」という言葉の調子と「船乗りせむと〜今は漕ぎ出でな」という言葉の調子は互いに響き合っていると言え、この段階で全軍に対しての士気を鼓舞する意味も込め「難波」から船出する際に歌が詠まれたとする方がよほど首肯できるものです。
 次稿では「熟田津」について「瀬戸内海航路」の中継基地の機能があったことや「月」を待つという表現が「満潮」を待つ行為であることなどを考察します。

「註」
1.手持ちの辞書(古語林)によれば「に」は格助詞として使われる場合大きく三種有り、@「場所・方向を示す」A「時を示す」B状態を示すとされ、それが各細分化され、計十六種あるとされます。
2.古田武彦『新・古代学』第四集(一九九九年十一月)及び「失われた『万葉集』─黒塚と歌謡の史料批判─」(大阪市天満研修センター)一九九八年六月等