(以下は『古田史学会報』(一三三号二〇一六年四月九日)に採用・掲載されたもの。)
「善光寺」と「天然痘」
「趣旨」
ここでは「厩戸勝鬘」の「善光寺如来」への手紙について「治病回復」を求めたものと推察されること。そのような効能があると見られたのは「善光寺」に関する根本経典が『請観音経』であり、それが「ヴァイシャーリー治病説話」を重要な部分として持っているためであること。その「ヴァイシャーリー治病説話」はそもそも「天然痘」の流行を示すものであり、その救済のための経典が『請観音経』であったと思われること。「金光」年号も『請観音経』と深く関係しているらしいこと。そのことから「金光改元」と「天然痘」の流行に関係があると考えられること。「厩戸勝鬘」本人か近親者が「天然痘」に苦しんでいたために「善光寺」へ手紙を出すこととなったと思われること。以上について考察します。
T.「厩戸勝鬘」の「善光寺如来」への手紙と『請観音経』
古賀氏の研究(註1)などでも明らかですが、『善光寺縁起』関係の資料には「厩戸勝鬘」という人物との手紙のやり取りが記されています。
「御使 黒木臣/名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩/仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念/命長七年丙子二月十三日/進上 本師如来寶前/斑鳩厩戸勝鬘 上」(『善光寺縁起集注』)
この「厩戸勝鬘」が「聖徳太子」ではないことは明白ではあるものの「倭国王権」の誰かであるということは間違いないものと思われ、そのような人物が特に「善光寺」に向けて消息をしたためたというわけですが、従来その「理由」というものについては充分説明し切れていないように見えます。
この「消息」が「延命祈願」であるというのは諸氏共通していると思われるわけですが、そのようなものが特に「善光寺」に対して書かれた理由は何なのでしょうか。そのヒントとなるものは『請観音経』(『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』)の存在であると思われます。
『請観音経』によれば「観世音菩薩」の「名号」を称え、「懺悔」すると「罪過」が「滅」せられるとされ、特に「病気の回復」に効果があるとされています。
「…設火焚身節節疼痛。一心稱觀世音菩薩名號。三誦此呪即得除愈。…」(「請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經」『大正大蔵経』第一〇四三 難提譯 巻二十による)
これを見ると「設火焚身節節疼痛。一心稱觀世音菩薩名號。三誦此呪即得除愈」つまり「火に焼かれるように節々に痛みがあったとしても「観世音菩薩」の名号を三回唱えれば治る」というわけです。
それに対し『善光寺縁起』を見ると、そこに「月蓋長者」とその「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」が書かれていますが、これは『請観音経』の中の記載とほぼ同じ内容であり、『請観音経』が「善光寺」において最も重要視された経典であることが明確となっています。これについてはすでに倉田治夫氏等の研究(註2)がありますが、そこでは『善光寺縁起』と『請観音経』は「ヴァイシャーリー治病説話」をキーワードとして強く関連しているとされます。
U.『請観音経』と『善光寺縁起』
『扶桑略記』が引く『善光寺縁起』(これが『善光寺縁起』の類で最も古いとされます。またそこでは「縁記」と書かれています。)によれば「善光寺如来」と「ヴァイシャーリー国」とは深く関係しているとされます。
「…件仏像者。尤是釈尊在世之時。毘沙離国月蓋長者。随釈尊教。正向西方。遥致礼拝。心持念弥陀如来。観音。勢至。爾時三尊促身於一?手半。現住月蓋門?。長者面見仏菩薩。忽以金銅所奉鋳写之仏菩薩像也。月蓋長者遷化之後。仏像騰空。飛到百済国。已経一千余年。其後浮来本朝。今善光寺三尊。是其仏像也。」(『扶桑略記』より)
これによれば「善光寺」の本尊である「善光寺如来」は「月蓋長者」が釈尊の教えに従って西方を礼拝した際に門の上に現れた、「阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩」の三尊を写したものとされ、それが「百済」を通じて「本朝」にもたらされたものとされています。
さらに、「善光寺」に関する別の史料(『信濃国善光寺生身如来御事』)にも以下のような文章があり、そこでは「毘舎離国」に「天下熱病」があり、「人民滅ぶ」とされています。
「長者申云、釈尊大慈悲ヲタレテ、長者カ申スコトアキラカニキコシメシ候。毘舎離国ニ五種病広発シテ、『天下熱病』人民ホロフ。」(『信濃国善光寺生身如来御事』より)
これらの記述の元となったと思われる『請観音経』には「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」の「月蓋長者」に関する説話が書かれており、そこでは「国中」に「大悪病」がはやり、目が赤くなる等々の症状が羅列されています(以下の記事)。
「毘舍離人下明破障功能。經云。爾時毘舍離國一切人民遇大惡病。一者眼赤如血。二者兩耳出膿。三者鼻中流血。四者舌噤無聲。五者所食之物變成麁澁。六識閉塞猶如醉人。疏云。五根病故意識昏迷。故云六識乃至如醉。經云。有五夜叉吸人精氣。」(「請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經」『大正大蔵経』第一〇四三 難提譯 巻二十による)
ここに書かれた症状である「目が赤くなる」、「鼻血が出る」「舌が麻痺して喋れなくなる」等々は、一般に「高熱」を発した際の症状によく似ています。その意味で「天下熱病」と呼称されているわけですが、「天下熱病」と同等と思われる表現は『書紀』にも出てきます。
「(欽明)十三年…冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒?斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。…於後國行疫氣。民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰。昔日不須臣計致斯病死。今不遠而復。必當有慶。宜早投弃。懃求後福。」(『欽明紀』より)
「(敏達)十四年…辛亥。蘇我大臣患疾。問於卜者。卜者對言。祟於父時所祭佛神之心也。大臣即遣子弟奏其占状。詔曰。宜依卜者之言。祭祠父神。大臣奉詔禮拜石像。乞延壽命。是時國行疫疾。民死者衆。
三月丁巳朔。…天皇思建任那。差坂田耳子王爲使。屬此之時。天皇與大連卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰。不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。」(『敏達紀』より)
『欽明紀』記事では症状についての記載はないものの、「治療」不可能な患者が多数出たことが記されています。さらに『敏達紀』では「瘡」の患者はあたかも「身を焼かれ」「打たれ」「砕かれる」と表現されていますから、高熱を発して全身を痛みに襲われるもののようですが、「瘡」が「天然痘」を意味するものであるのは定説となっており、実際に「天然痘」に冒された場合40℃にも達するほどの高熱が出るとされ、やはり全身に痛みがあるとされますから記述には信憑性があると思われます。
つまり『善光寺』関係史料に出てくる「天下熱病」という表現とその症状は『書紀』の「疫気」記事や「疫疾」記事と重なるものであり、これを「天然痘」と考えたときに最も整合するものといえます。
V.『請観音経』について
『請観音経』は「六世紀代」に「半島」で信仰されていたものであり、その際の本尊としては「一光三尊」形式(一つの光背の中に三尊が置かれている形式)であったらしいことが知られています。
たとえば、旧「高麗」の地域である韓国黄海道谷山郡花村面蓬山里から出土した「一光三尊像」があります。その背面には「銘文」があり、そこには「景四年在辛卯、比丘道口、共諸善知識那婁賎奴、阿王、阿据五人、共造『無量寿像』一躯、願亡師父母、生生心中常知遇弥勒、所願如是、願共生一処、見仏聞法」と書かれていました。
この「景四年辛卯」は「高句麗平原王十三年」である「五七一年」と考えられています。それは「〜景」という中国年号そのものが存在していないこと及びこの「辛卯」と干支が表す年次が「四年」に相当する中国年号もまた存在していないことから、「景四年」を「高句麗」の「逸年号の一部」を表すとみられる事からの判断であるようです。これを信憑するとこの「像」は「六世紀後半」のものと考えられるわけですが、ここに「無量寿像」とあるところからみて、この仏像が「阿弥陀仏像」であることとなり、「六世紀後半」という段階で既に半島には「阿弥陀信仰」があったこととなります。
一方「善光寺」の本尊は「絶対秘仏」とされ、その詳細は不明であるわけですが、伝えられるところによると「阿弥陀如来像」であり、脇侍に「観世音菩薩」と「勢至菩薩」が同じ光背の中に控えているとされます。この「善光寺」に見る「一光三尊」という形式は『請観音経』と同じく「六世紀」代に「半島」諸国で流行したものであるわけですが、そのことは「善光寺」自体の古さの証明でもあると同時にまたその『縁起』の内容についてもやはり「六世紀」の真実を映している可能性が高くなるものです。
また「天然痘」は当時すでに「朝鮮半島」で流行していたと推定されていますが、その時点で「倭国」と「百済」の間は人を含めた文物の往来が頻繁であったことが推定されますから、そのような中で「病原菌」がもたらされたと見ることは無理ではありません。
この「天然痘」は本来「倭国」にはなかったものと見られ、免疫ができていたとは言えないと思われます。このため「大流行」となったものと思われますが、当時の「倭国」においてそれが仏教伝来と時期として重なっているのは偶然ではなく、半島においてもこの「熱病」が大流行し、それに対し「薬」なども全く効かないという状況の中で仏教にその救済を求めたものと思われるわけです。つまり、「百済」から「天然痘」も『請観音経』も同一事象の裏表の関係で渡来したものと考えられることとなります。
古来「宗教」の本来の存在意義は「現世利益」ですが、その第一が「病気」に対する救済であり、「苦」や「痛み」からの解放でした。多くの人々が『請観音経』への帰依をしたとすると、その時点で「疫病」が蔓延していたこと(「天下熱病」)が推察され、「ヴァイシャーリー治病説話」が注目されたものと見られます。
W.『請観音経』と「金光年号」
ところで、『請観音経』の「ヴァイシャーリー治病説話」では「月蓋長者」の「一心称名」に応じて「阿弥陀如来観音勢至」という三尊が「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」に現出しその光で国中を照らし、金色に染まったと書かれています。
「時世尊告長者言。去此不遠正主西方。有佛世尊名無量壽。彼有菩薩名觀世音及大勢至。恒以大悲憐愍一切救濟苦厄。汝今應當五體投地向彼作禮。燒香散華繋念數息。令心不散經十念頃。爲衆生故當請彼佛及二菩薩。説是語時於佛光中。得見西方無量壽佛并二菩薩。如來神力佛及菩薩倶到此國。往毘舍離住城門?。佛二菩薩與諸大衆放大光明。照毘舍離皆作金色。」(『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』第一〇四三 難提譯 巻二十)
つまり「世尊」(釈迦)が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て金色に染まったとされています。
また『善光寺縁起』の中にもほぼ同内容の文章があります。
「…、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、『放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道』、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。…」(『善光寺縁起』より)
ここでも「阿弥陀如来」は「一尺五寸」の「聖容」となり、「強い光」を放ち「毘舎離城」は全て「金色」となったとされています。
『二中歴』などには「金光」年号が存在していますが、この「金光」という年号の「由来」については上の『請観音経』にあると見るのが相当と思われます。
そもそも「改元」を行うことのできるのは「倭国王権」以外にはないわけですから、『請観音経』の伝来と「金光改元」を行った「倭国王権」との間に深い関係があることは明らかであると思われます。(それが信州の地に存在しているのには種々の理由があると思われますが、別途考察します)
以上のことと関連しているのが「元岡古墳」出土の太刀(註3)であり(それは正木裕氏により「四寅剣」(寅年の寅の月日時の鍛造の剣)と解明されたわけですが)、この「太刀」については氏の論考(註4)において「金光改元」と「天然痘」の流行という事象に深く関係しているという指摘があり、首肯できるものです。(このことは「四寅剣」と「善光寺」の間にも何らかの関係があることを意味することとなりますが、現時点では不明です)
「厩戸勝鬘」が「消息」を「善光寺」に出した理由も、そもそも「善光寺」と「倭国王権」が深い関係にあったことがその第一であると思われ、親しい人が「病」(特に「天然痘」)に罹っているらしいことやそのため「一心称名」を「七日間」行ったということを伝え、その病の治癒に助力を祈願したものと思われることとなります。(「消息」中に見られる「済度」という用語は「衆生」など自分以外の誰かを救済するという時に使用されるものですからこの「済度」の対象は少なくとも自分ではないでしょう)
「註」
1.古賀達也「法隆寺の中の九州年号 聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」(『古田史学会報』第十五号一九九六年八月)
2.倉田治夫・倉田邦雄「善光寺縁起研究(1)「善光寺縁起」の諸本と月蓋説話(序説)」(『説話』九巻一九九一年説話研究会編)、倉田治夫「善光寺創建説話と請観音経 : ヴァイシャーリー治病説話を中心に」(『信州大学人文社会科学研究』第五巻二〇一一年)、及び「月蓋長者説話の展開 : 『信濃国善光寺生身如来御事』を中心に」(『信州大学人文社会科学研究』第七巻二〇一三年)など
3.福岡市西区元岡古墳群G6号墳より出土した太刀であり、X線撮影により以下の銘文が象嵌されていることが確認されています。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■(練か)」(福岡市教育委員会文化財部埋蔵文化財第2課作成資料による)
4.正木裕「元岡古墳出土太刀の銘文」(『古田史学会報』第一〇七号二〇一一年十二月)
他参考資料
黒板勝美編「国史大系十二巻『扶桑略記』『帝王編年紀』」吉川弘文館
小林敏男「善光寺草創事情(一)〜(四)研究史概観」『大東文化大学紀要』人文科学三十四、三十六、三十七、三十八号/一九九六、九八、九九、二〇〇〇年。
嶋口儀秋「善光寺縁起について」(『印度學佛教學研究』二十一巻二号 一九七三年)
中野猛「善光寺縁起」翻刻(上・下)(『都留文科大学研究紀要』二十四号、二十五号 一九八六年)
吉原浩人「『善光寺縁起』生成の背景 ―『請観音経』との関係を中心に」(『国文学解釈と鑑賞』六十三巻十二号一九九八年十二月)
『大正新脩大蔵経』(web上の「大蔵経テキストデータベース委員会」により作成・運営されているもの)