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「廣瀬」「龍田」記事について


(『古田史学会報』(一一八号二〇一三年十月十日)に採用・掲載されたもの。投稿日付は二〇一三年三月二十二日。)

「廣瀬」「龍田」記事について −「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において−

 以下は「天武紀」「持統紀」に集中的に見られる「廣瀬」「龍田」遣使記事について、それが「灌仏会」と「盂蘭盆会」に相当するものであることを述べ、それらが「倭国王権」の「祖先信仰」を現わすものであったことを示すものです。

一.「灌仏会」「盂蘭盆会」から「廣瀬・龍田」へ
 「推古紀」には四月(八日)と七月(十五日)にそれぞれ「灌仏会」と「盂蘭盆会」を始めたという記事があり、それ以来「毎年行なう」とその時点では決められたとされます。

「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰(八日)。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」

 この記事の「丈六仏像」を堂に納めた「四月八日」は「仏陀」の誕生日とされ、この日に「仏像」を金堂に納めるという計画であったものであり、またこの日を期してその「釈迦」の誕生日を祝う「灌仏会」(及び「盂蘭盆会」)が始まったというわけです。しかし、それ以降「灌仏会」「盂蘭盆会」に関する記事は見られなくなります。ただし、「孝徳紀」に「冠位改定」の記事の最後に「四月七月齋時」に着用すると書かれています。

「六四七年」大化三年…
是歳。制七色一十三階之冠一曰。…此冠者大會饗客。『四月七月齋時』所着焉」

 これは明らかに「灌仏会」と「盂蘭盆会」の「齋時」の際に着用するということと考えられ、この時点では「灌仏会」も「盂蘭盆会」も「国家的行事」として行っていた事は確かと考えられますが、これ以降は明確ではなくなり、以下の「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事が僅かに該当するものと理解されます。

「(斉明)三年(六五七年)秋七月…
 辛丑 作須彌山像於飛鳥寺西 且設『盂蘭盆會』」

「(斉明)五年(六五九年)…
 秋七月…
 庚寅 詔群臣 於京内諸寺 勸講『盂蘭盆經』 使報七世父母」

 ただし、下に見る「白雉三年」の記事は「灌仏会」と関係があるかも知れません。

「六五二年」白雉三年
夏四月戊子朔壬寅(十五日)。請沙門惠隱於内裏使講無量壽經。以沙門惠資爲論議者。以沙門一千爲作聽衆。
丁未(二十日)廿。罷講。…」

 しかし、その後は全く見あたらなくなりますが、「忽然」として「六七五年四月」の「廣瀬」「龍田」記事になるのです。

「(天武)四年(六七五年)…
夏四月甲戌朔…
癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」

 これ以降、この「廣瀬大忌神」「龍田風神」へ「使者」を派遣し「祭る」という記事が頻繁に見られるようになります。そして、それは「六九七年」という『書紀』の最終段階まで見られるものの、「続日本紀」に入ると「突然」、全く見えなくなります。
 このように「廣瀬」「龍田」記事は「天武」「持統」時代に特徴的かつ集中的であるわけですが、これが何を意味する記事なのかという点については、余り多くの議論を聞きません。
 両神は「一見」「水神」と「風神」という自然神あるいは「天武」が道教に傾倒していたという見方から「道教神」であるように受け取られており、この儀式については単に「天候」に関する神として「日照り」「大雨」などの自然災害のなきことを祈るという意味以上には受け取られていないようです。
 しかし、そうであれば、特にこの時期に集中する理由を説明する必要があるでしょう。

 調べてみると、これらは「四月」と七月」に行なわれており、またその日付を見ると「四月」「七月」ともかなり「ばらつき」はあるものの、「四月」の場合は「平均」すると「十日」付近、「七月」の場合は、同じく平均すると「十三日」ほどとなり、ともにほぼ「灌仏会」の「七日」及び「盂蘭盆会」の「十五日」と大きくは異ならないと見られ、その周辺の日付が選ばれているように見えます。(注一)このことは、この「祭廣瀬龍田神」という行事(儀式)は、「灌仏会」と「盂蘭盆会」に相当する行事であったのではないかと推測できるのではないでしょうか。それはまたこの時期「灌仏会」・「盂蘭盆会」という本来国家的行事であったはずのものが見受けられないことと重なるものといえます。 
 つまり、「推古朝」時代に定められた「灌仏会」と「盂蘭盆会」という「国家的行事」が(どの時点かは不明ではあるものの)行なわれなくなり、この「六七五年」という時点以降、代って「廣瀬大忌神」と「龍田風神」が「国家」により祭られるという事となったものと考えられます。その背景となったものについて以下に検討してみます。

二.「祖霊信仰」について
 そもそも「灌仏会」と「盂蘭盆会」という「齋会」には「祖霊(祖先)信仰」の要素が多分にあったと考えられています。
 この「灌仏会」と「盂蘭盆会」は「中国」の南北朝期に盛行したものであり、特に「灌仏会」は「皇帝」以下の宮廷行事として各王朝で行なわれ、「北魏」以降の「北朝」で盛大に行なわれたとされます。
 そして「灌仏会」や「盂蘭盆会」を行なう際の経典として使用されたと推定されているものに「般泥?後灌臘經」「仏説灌洗仏形像経」「仏説摩訶刹頭経」の三種があるとされ、いずれも「仏」に対する信仰と共に「祖霊(祖先)信仰」がそこに込められているようです。
 そこでは「四月八日及び七月十五日」の両日とも「灌仏」つまり「仏」の像に「香水」を掛けること、および「七月十五日」にも「灌仏」を行なう事は「七世父母五種親族」で苦しむものを救う功徳があると説かれるのです。
 たとえば、「般泥?後灌臘經」では以下のように書かれています。

「若佛般泥?後。四輩弟子比丘比丘尼優婆塞優婆夷。四月八日七月十五日。灌臘當何所用。…」

 ここでは「佛」が涅槃に入られた後「四月八日」と「七月十五日」には「灌臘」(像にかける水のこと)は何を用いたらいいかと尋ねています。この質問の趣旨から考えて「灌仏」は「七月十五日」にも行う前提であると思われますし、また同じ経典の中の別の部分にも以下のようにあります。

「…七月十五日。自向七世父母五種親屬。有墮惡道勤苦劇者。因佛作禮福。欲令解脱憂苦。名爲灌臘。…」

 つまり、「七月十五日」に「灌仏」を行う事で「七世父母五種親屬」の中で「悪道」で苦しんでいるものを「解脱」させられるとされているのです。
 また「南朝劉宋」などでは「皇帝」(孝武帝)自ら「内殿」において「灌仏会」を行い、その際には「初代皇帝」である「高祖(武帝)」の供養も併せて行なっていたという事例があります。
 これらのことから、「倭国」において「灌仏会」と「盂蘭盆会」が受容されるにあたっても、「祖霊信仰」がベースにあったものと考えられ、(そのことは「斉明紀」の「盂蘭盆会」記事においても「使報七世父母」とあることからも推察できますが)、そのことがその後「祭廣瀬龍田神」という現象(儀式)と深くつながることとなった要因であると思われます。
 たとえば、「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘文の解析からは、「上宮法皇」という人物(これは「阿毎多利思北孤」と思われます)について「釈迦」と同一化する信仰があったと見られ、「灌仏会」というものが「釈迦」の誕生日を祝うものですから、「阿毎多利思北孤」に対する畏敬の念を表すには適切なタイミングと考えられたということも有り得ると思われます。
「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたものとされています。この「銘文」の中には「懐愁毒」という用語があり、これが「大方便仏報恩経」という経典に典拠があるものと判明しています。
 
(以下「釈迦三尊像」の光背銘文を抜粋。ただし「/」は改行を表します。)
「…法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/『懐愁毒』共相發願仰依三寶當造釋/像『尺寸王身』蒙此願力轉病延壽安/住世間…」

(以下「大方便佛報恩經」からの抜粋)
「優填大王戀慕如來。心『懷愁毒。』即以牛頭栴檀。?像如來所有色身。禮事供養。如佛在時無有異也」

 この銘文はこの「経典」を踏まえたものであり、鬼前大后が亡くなられた後すぐに「上宮法皇」とその夫人(干食王后)が亡くなられたのは、「お釈迦様が亡き母に説法するため天に行かれた」という事跡を踏まえて理解されたことを示していると思われます。このことから「釈迦三尊像」が「法隆寺」の「主尊」として入った時点以降「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)は「釈迦」に擬されることとなったと思われます。それは、上でみるようにこの「釈迦像」の「光背銘文中」に「尺寸王身」という表現があることも、「釈迦」と「王」が同一化されていることを示していると思われます。
 「釈迦」に対する敬慕を表す「灌仏会」を行なうという趣旨を考えても、この「灌仏会」が「阿毎多利思北孤」死去という時点以降「先皇供養」という面も重視されるようになったと見られますが、そのことと「廣瀬大忌神」「龍田風神」という両神を「祭る」という事がつながっていると見られ、この「両神」への「遣使」と「祭祀」を執り行うことの中に同様の意義があることを示すものと思料されるものです。また、これらの「神」が「倭国王権」の「祖霊」であると同時に「阿毎多利思北孤」に直接つながる存在である事を示すとも考えられます。

 そもそも、「廣瀬大忌神」とは、奈良県北葛城郡河合町に現在も存在する神社であり(現在は「広瀬大社」と名乗っています)、その祭神は社伝では「若宇加能売命 」(わかうかのめのみこと)とされていて、これは「伊勢神宮外宮」の「豊宇気比売大神」や、「伏見稲荷大社」の「宇迦之御魂神」と「同神」ともされています。
 また、この「宇迦之御魂神」は「全国」の「稲荷社」において祭神であるとされる場合が非常に多く(特に「東国」で多いとされる)、このように多数の神社で祭神とされるためには、「国家」による祭祀が行われるなどの事象が無くてはならないと考えられ、「ある時点」で全国に半ば強制的に「創建」されるなどのことがあったと見なければならないと思われます。これを示すと考えられるのが「白雉年間」に創建された「寺社」についての解析です。
 「古田史学」の会のホームページには「九州年号資料」が閲覧可能ですが、それを見ると「白雉」年間に創建された寺社が非常に多いことが判ります。しかもその寺社のうちかなりの数が、その祭神を「宇迦之御魂神」としている「稲荷社」であるようです。(注二)
 つまり「白雉年間」(七世紀半ば)に多数の神社(および寺院)が「創建」されたことと、この「廣瀬・龍田祭祀」というものが強く関連していると考えられるわけです。
 またそれは「稲荷台古墳」「稲荷山古墳」という名称の古墳が特に東国に多いと言う事とも関連していると考えられます。これらの古墳は共通して「五世紀」以前のものであり、既にその古墳の主であった人物については「神格化」されて、地場では信仰の対象であったのではないかと考えられますが、それを「宇迦之御魂神」を祀る神社に変更するよう「(政治的)圧力」をかけられたのではないでしょうか。これらのことがあったため、東国に多くの「稲荷社」ができる事となったと考えられるものです。

 また「龍田風神」は奈良県生駒郡三郷町にある「龍田神社」の祭神であったものであり、「延喜式」に載る「龍田風神祭祝詞」では、「崇神天皇」の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら「天神地祇」を祀って祈願したところ、「天御柱命」「国御柱命」の二柱の神を「龍田山」に祀るように「夢告」があり、これに基づき創建されたと書かれています。
 『書紀』を見ると、「風神」として「級長戸邊命」「級長津彦命」が「伊弉諾」から生まれています。

(『日本書紀』巻一第五段一書第六)
「一書曰。伊弉諾尊與伊弉冊尊。共生大八洲國。然後伊弉諾尊曰。我所生之國唯有朝霧而薫滿之哉。乃吹撥之氣化爲神。號曰級長戸邊命。亦曰級長津彦命。是風神也。又飢時生兒號倉稻魂命。…」

 この両者が「延喜式」にいう「龍田風神」を指すと考えられ、「二柱」の神というのがこの両者であると推測できます。
 また、この時点で「倉稻魂命」(宇迦之御魂神)も生まれており、共に「伊弉諾」の吐く息から生まれた事となっていますから、これらの神は非常に近しい関係にあったということがわかります。
 また「龍田」はその名が示すとおり「龍」に関係しているという伝承もあり、「龍宮」伝説もあるようです。
 「謡曲」「逆矛」ではこの「龍田の神」は「瀧祭の明神」とされ、また「天地開闢」の際の「天瓊矛」を納めてあるともされ、「国生み」に直接関わる神とする伝承があったことが判ります。

(謡曲「逆矛」より抜粋)
「…時に国常立伊弉諾に託して宣はく。豊芦原千百五種の国あり。汝よく知るべしとて。則ち天の御矛を授け給ふ。伊弉諾伊弉冊は。天祖の御教。すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。二神たゝずみ給ひて。この御矛を海中に。さしおろし給ひしより。御矛を改めて。天の逆矛と名づけそめ。国富み民を治め得て。二神の始より。今の代までの宝なり。その後国土治まりて。御世平かになりしかば。瀧祭の明神。この御矛を預かりて。所もあまねしや。この御山に納めて。宝の山と号すなり。…」

(ただし、これについてはその他の伝承は全て「伊勢神宮」にその「天瓊矛」はあるとされますが、上に見たように「祭神」が共通していることには注意すべきでしょう。)
 このように「龍田神」は「風神」であるはずですが、「瀧」「龍宮」など明らかに「水」に関係している部分があり、また「天瓊矛」伝承とも関係していることなど不可思議な点が多々あるように思えます。
 また「宇迦之御魂神」についていうと「神話」では「素戔嗚尊」の子供とも書かれており、「出雲系」の要素も多分にあるようです。(「宇迦之御魂神」は「出雲大社」の式内社として敷地内に祀られています)
 いずれにしろこの両神が「祖霊信仰」の対象であったものであり、「国家」として「祭祀」が行なわれたものとすると、これらの神は「倭国王権」と深い関係にあると考えざるを得ないものです。
 このような「祖霊信仰」的儀式を「仏式」から「神道形式」に変更した理由、さらにこの「両神」と「倭国王権」の関係などについてさらに検討するべきですが、以降は別途稿を改めて述べたいと思います。


結語
一.「天武紀」「持統紀」に現れる「廣瀬大忌神」「龍田風神」への遣使という記事群は、「推古」朝以降行われていたと考えられる「灌仏会」と「盂蘭盆会」に代るものであること。
二.「灌仏会」「盂蘭盆会」も実際には「祖霊信仰」が主であったこと。「阿毎多利思北孤」死去以降は「灌仏会」と「盂蘭盆会」そのものについて「先皇供養」の意義が発生したと思われること。「廣瀬大忌神」「龍田風神」への遣使と「祭祀」は、それを「仏式」ではなく、「神道」形式で行なう事としたことを表すこと。

以上を考察しました。


「注」
(一)『養老令』の中の「神祇令」では「神祗官」の祭る定期的な祭祀として各季節ごとに定めがあり、その「孟夏」と「孟秋」の祭祀として「大忌祭・風神祭」というものがあり、この日付としては「凡大忌風神二社者。四月。七月四日祭之。」というように「四月四日」「七月四日」とされていますが、上で見たように『書紀』ではこの日付よりも「四月」も「七月」も、もっと遅れて行われていると思われます。
(二)「古田史学の会」のホームページ資料による「白雉年号」を記す社伝などを有する神社の中で、「宇迦之御魂神」(倉稲魂神)(保食神)を祭神としている神社は以下の通り。
市原稲荷神社(愛知県刈谷市)、岡田神社(長野県松本市)、鵜坂神社(富山県婦負郡)、椿郷祇園社(山口県萩市)、細田神社(兵庫県美嚢郡)、岡神社(滋賀県坂田郡)、笠間胡桃下稲荷神社(茨城県笠間市)
 また、「宇迦之御魂神」の近縁である「素戔嗚尊」、「大国主」あるいは「味鋤高日子」を祭神としている神社は以下の通り。
山邊神社(島根県江津市)、老松神社(山ロ県防府市)、生石神社(兵庫県高砂市)、石都々古和気神社(福島県石川郡)


「他参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
黒板勝美「国史大系『令義解』」吉川弘文館
古市晃「四月、七月齋会の史的意義:七世紀倭王権の統合論理と仏教」古代文化五十九巻三号二〇〇七年 神戸大学リポジトリ
大正新脩大蔵経テキストデータベース
國學院大學21施世紀COEプログラム「神社資料集成」