(以下は『古田史学会報』(一一三号二〇一二年十二月十日)に採用・掲載されたもの。ただし掲載された中に「基本的な史料の年次確認のミス」があり、それを修正したものと差し替えました。)
「八十戸制」と「五十戸制」について
以下では「七世紀初め」の時期に「八十戸制」という「戸制」が存在したこと、それがその時点で「五十戸制」に切り替えられたということについて考察します。
一.「八十戸制」と「五十戸制」
「隋書?国伝」によれば「伊尼翼」という「里長」のごときものが治める戸数は「八十」とされています。
「隋書?国伝」
「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」
この文章を含む「開皇二十年」(六〇〇年)の条にある「上令所司訪其風俗」に続き「使者言」とある以降「大業三年」条手前までの記事は、全てこの「使者言」に掛るものと考えられます。
この「八十戸制」とおぼしき事が書かれた部分も「倭国」から派遣された使者が「唐」の皇帝(高祖「文帝」)から「風俗」を問われ、答えた中にあるものであり、「六〇〇年段階」の「倭国内」のリアルな状況を推定させる資料と言えるでしょう。
そうすると、この「六〇〇年」という段階では「倭国」では明らかに「八十戸」を基本とする「戸制」が布かれていたと考えざるをえないこととなります。
それに対し「五十戸制」が国内に施行されていたことを示すものが「木簡」であり、そのうち最古のものは以下のものです。
(以下木簡に関する情報は全て「奈文研木簡データベース」に拠ります)
「乙丑年(六六五)十二月三野国ム下評大山五十戸造ム下部知ツ従人田部児安」「石神遺跡出土木簡」
この「木簡」からは直接的資料として「乙丑年」、つまり「六六五年」には「五十戸制」が布かれていることを示しています。
また、「常陸国風土記」によれば「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。
「常陸国風土記」「行方郡」の条
「行方郡東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請惣領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」
ここに書かれた「癸丑」という干支は「六五四年」のことと考えられますが、ここでは「茨城」と「那珂」から併せて「十五里(さと)」を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、これは一つの「里」が五十戸程度であることが分かります。つまり、この「五十戸制」は少なくとも「六五四年」までは遡上しうるものであると考えられるわけです。
また「直接」「年次」が書かれているわけではないものの、「大花下」と書かれた木簡と共に出土したものとして「飛鳥京」遺跡から発見された「白髪部五十戸」木簡があります。この「大花下」という官職制度が制定されたのが、『書紀』によれば「六四九年」であり、この木簡と一緒に出土する「白髪部五十戸」木簡についても同年ないしはそれ以降のものという可能性が高く、この年以降については「五十戸制」であったという可能性が指摘されています。
さらに「皇太神宮儀式帳」に「八十戸制」とおぼしき表現が出てきます。
(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」
上の資料を見ると「十郷」で一つの屯倉に充て、そのために「評督」(督領)を置いたとされていますが、「評」の戸数は「七百−八百戸」程度あったと考えられるわけですから、「一郷」は「七十−八十戸」程度あることとなり、これは上に見る「隋書倭国伝」に言う「八十戸制」と強い関連が考えられるものです。またこの記事は「五十戸制」と「評制」の先後関係にも影響を与えるものです。この時点で制定された「評督」の管轄範囲の「郷」の戸数が「八十戸」程度とすると、「評制」の方が「五十戸制」よりも「先行」することを意味するものとも言えます。
つまり、この点に関する事情を時系列で言うと、以下のようになると思われます。
この「評制」という制度については「隋制」にはないものであり、朝鮮半島にその使用例があることが確認されています。そのようなものを「倭国」として採用することとなった契機は「六一八年」に「隋」が「高句麗遠征」を行ない、逆に「撃退」されると言うことがあったことが影響しているのではないでしょうか。
「推古紀」には「隋」を撃退した「高句麗」からの使者が「戦利品」を持ち来たったことが書かれており、そのことはこの時点で「高句麗」の「軍制」について情報がもたらされたことと推定されるものです。そしてその中に「評制」に基づく「兵士徴集」の制度があったと思われ、これを参考にして「評制」を施行することとなったとすると、この「六一八年」からそれほど遅くない時期が想定されます。
更にその後「遣隋使」が帰国し、「隋制」について詳細な情報がもたらされた結果、制度の大改革を実施すると言うこととなり、その時点で「五十戸制」が導入されたと思料されます。
この「皇太神宮儀式帳」の記事のニュアンスからは、「伊勢神宮」というものが「難波朝廷」までは通常の「神社」であったものが「難波朝廷」の時代以降「特別扱い」されるようになったと受け取れる内容であると思われます。このような「画期」となる出来事が「七世紀半ば」にあったとすると、逆にそれ以前の「七世紀初め」付近に何もなかったこととなってしまいますが、それでは「利歌彌多仏利」の改革では何も「変化」がなかったこととなってしまうという矛盾が発生することとなります。この時の大改革で何も変化がないとは考えられず、そのことからも「七世紀初め」という段階に「神だち(まだれ+寺)」から「神宮」へと言う「格上げ」が行なわれたと見るべきではないでしょうか。
また、それは「熊本県菊池市」にある「木柑子フタツカサン古墳」出土の「銀象嵌『鍔』」と「三重県伊勢市」の「南山古墳」から出土した同様の「銀象嵌『鍔』」が、「双生児」の如くに酷似していることからも推測できます。
これらの「銀象嵌『鍔』」は、その形状、象嵌技法と技術などが「瓜二つ」であり、「同一工房」によるという可能性さえも示唆されています。しかも共に「六世紀後半」と推定されていることなどから、この二つの古墳の主には「深い関係」があることは明白であると考えられるものですが、それが共に「伊勢」という地名で連結されているように見えることも重要でしょう。
後述するように元々「伊勢」は「肥後」に存在した地名であると考えられ、それがその後「伊勢神宮」の「移転」(「遷宮」と言うべきでしょうか)に伴い、現「伊勢」の地に移動したものと推察されるものです。
この「六世紀後半」という時期は、「物部」が排除され「九州倭国王権」が確立するその時点とも言うべき時期であり、そのような王権確立の一環として「南山古墳」の主などのような「存在」もあったものと思料します。(ただし「南山古墳」はいわゆる「装飾古墳」ではないようです。この事は「南山古墳」の被葬者は「倭国王」の「血縁縁者」ではないものと考えられ、彼から「負託」を受けた「倭国将軍」の一人であったものと思料します)
このようにして、「七世紀初め」という時期に新しき「伊勢」の地に「倭国王権」の「直轄的」な「宗教施設」が造られたものであり、それを示すのが「皇太神宮儀式帳」の記事であると考えられます。
この「五十戸制」がさらにどこまで遡上するのかが明確ではないわけですが、上に見た「隋書倭国伝」に記されている「八十戸制」とおぼしき表現からは、この時点で「五十戸制」であったとは考えるのは困難であることを示します。
このことから「五十戸制」が施行される以前に「八十戸制」が施行されており、それが「六〇〇年」以降「六五四年」までの「どこか」で「五十戸制」に切り替わったと想定されることとなります。
また、「隋書倭国伝」にいう「軍尼」の統括範囲は「約八百戸」と考えられますが、上で見た「行方郡」創設の記事ではその戸数が「七百余戸」とされており、この二つが大きく違わないことも、制度の中身としてはある程度「連続性」を確保した形跡と考えられます。このことは「五十戸制」が導入された時点で「八十戸制」と齟齬がなるべく少なくなるように工夫されたとも考えられます。
「七世紀」の初め、という段階で「倭国」から「遣隋使」が送られ、その後帰国した彼等により「隋」の諸制度が導入されたと考えられ、そのような中に「国県制」があったものと推量されますが、この時「五十戸制」も導入したと考えるのは自然な事です。
「隋」「唐」の行政制度の末端には「里制」と「村制」の二つがあり、「里制」は租税徴集のために「人工的」に組織されたもので、戸数は「百戸」と決められていました。それに対し「村制」は「自然発生」した集落をそのまま「制度」として組み込んだものであり、これはおおよそ「五十戸」程度あった模様です。
「遣隋使」からこのような「隋」の制度の詳細を知った倭国では、これらの制度を模倣し、導入するにあたって、人口密度等の違いもあり、「里」としての「百戸制」ではなく、「村」としての「五十戸制」を導入したものと推察されます。 つまり「国−県−村」という階層制度がこの段階で構築されたものと見られるわけです。
そして、これは後に「格上げ」され「里」として変更されたものと見られます。それは風土記の記述からも確認され、「石川王」が「総領」である時代に「村」が「里」へ改定されたという記事があります。
「備前国風土記」「揖保郡」の条。
「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」
ここでは「都可村」から「広山里」へ変更になったと書かれており、単純な「名称変更」ではなく「村」から「里」への変更が成されているようです。これは明らかな「制度変更」(それは境界変更も含む可能性があります)であると考えられ、これは「風土記」の性格として「七世紀初め」の時期に「一旦」成立したものを換骨奪胎していると考えたときに、この記事が「常陸国風土記」などと同様「七世紀初め」の記録であることが了解されるものです。その場合、「総領」である「石川王」の死去年次が「六七九年」という『書紀』の記事には「疑い」が生じるわけであり、これが「三十四年遡上」の対象記事ではないかという可能性が考える必要が出てきます。
「天武八年(六七九年)己丑条」
「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」
ここで彼は「六七九年」という時点で死去したこととなっています。しかし、それでは「七世紀初め」という時期から考えると百歳近くになってしまうと思われ、「冠位」から退くのが「七十歳」付近であったことを想定すると、ここではまだ「冠位」に留まっていたと考えられるわけですから、六五〇年代付近がこの「死去記事」の本来の時期ではなかったかと推定されます。(「三十四年遡上」するとした場合、この記事は「六四五年」のこととなります。)
また、そこでは「総領」ではなく「大宰」と表記されています。「総領」よりも「大宰」の方が「位階」が上であったと考えられ、位階が上昇するのにかなりの年月がかかることを想定すると(「筑紫史益」の例から考えると十年以上はかかると考えられます)、その意味からもこの「村から里(五十戸)への改定」は「死去」したとされる「六四五年」から「かなり」遡上した年月が想定され、その場合「利歌彌多仏利」の改革の時代である蓋然性がかなり高いと思料します。
これは「七世紀初め」より「以前」に自然発生的にできた「村」というものを、「七世紀初め」という段階に至って「五十戸」で「一つの里」とする事へと変更されたということを示すものであり、それは「五十戸制」の始まりの時期を示すもの考えられるものです。
これら「隋書倭国伝」に示された「官職制度」や「戸数制度」については明確な「国内資料」(「金石文」、「木簡」)などがいまだ発見されず、「五十戸制」の始まりの時期と共に「八十戸制」の詳細は「不明」となっているわけですが、「五十戸制」の開始が「六世紀代」まで遡上するとも考えられません。それはその始源が上に見たように「隋」「唐」にあると考えられるからであり、「倭国」と「隋」「唐」との間に「外交関係」が確立し、関係を持ち始めたのが「七世紀初め」であるという倭国の外交の歴史から考えると、この「五十戸制」が「七世紀」の前半の「利歌彌多仏利」の時代に行われた「諸改革」の一環であったと考えることにそれほど不自然はないと思われますが、それはそれ以前に「八十戸制」が行われていたことを示すものでもあると思われます。
二.「八十」(やそ)と「五十」(いそ)
ところで、古代日本語で「多数」を表す「数詞形容」としては「二種類」あります。それは「八十」(やそ)と「五十」(いそ)です。どちらも「名詞」の前について、それが「多い」と言うことを形容するものですが、これ以外の「数詞」を使用した「形容」にはお目に掛かりません。「八十」と「五十」という数字だけが「多数」「無数」という表記には使用され、利用されているのです。それがなぜか、と言う事には余り関心が払われた形跡がありませんが、私見によれば上に見た「戸制」に現れる「戸数」と関係していると考えられます。
つまり、上で見たような「制度」の改制(「八十戸制」から「五十戸制」へ)が行われたことと、「数詞形容」に「八十」と「五十」の二種類があることは深く関係していると考えられるのです。
『書紀』では「人名」「地名」などの名前に「八十」が付く例は同種の重複を除いて「十八例」数えられ、その全てが「敏達紀」以前に限られています。なおかつ、「神代」に非常に多く(「天孫降臨」部分など)、それ以外では「神武紀」に見られ、その次は「崇神紀」、その後「垂仁」、「神功皇后」、「応神」、「仁徳」というように出現例があります。これを見ても明らかなように、この分布には明らかに偏りがあり「神武」以降のいわゆる「欠史八代」が全て抜けているなどの不審点があります。
これに対し、「五十」は(同様に重複を除いて)「十四例」あり、「神代」には少なく「神武」以降に多いのが分かります。またその後「綏靖」「孝安」「孝霊」「開化」というように「欠史八代」を多分に含んでいます。また、その後「垂仁」「仲哀」の各時代の記事中に見られますが、一転して「七世紀半ば」の「孝徳紀」へ飛びます。これもまた著しい偏り方を示すわけです。
「八十」の方が出現例が多いことと、その最終出現時期が「八十」が「敏達紀」であるのに対し「五十」は「孝徳紀」です。しかもその『書紀』の「敏達紀」の例では「古語云。生兒八十綿連連」と書かれ、この「八十」の例が「古い」ものであることが明示されていますから、これは「五十」の方が「新しい」時期のものであることを更に明確に示しているといえそうです。
以上のことから見ると、「八十」と「五十」はほぼ共存していないことが分かります。更にこの「八十」と「五十」に明確に時代差があることを示すのが「古事記」の出現例です。ここでは相当程度「八十」の例が多く、「五十」がかなり少数です。またその出現時期も「八十」が「上巻」から「下巻」までむらなく見えているのに対して、「五十」は「上巻」には出てこなく、「中巻」と「下巻」に一例ずつだけと後半に偏っています。
この事実と、「古事記」が「推古紀」までしかないことを考えると、「五十」(いそ)という「数詞形容」が一般化するのは「推古紀」以降であることが推測されます。
このことは、この「古事記」の例が「歌謡」の中に出てくるものであり、「歌謡」そのもが「形式」として「古い」ものであって、その後の万葉集の中でも「短歌」が圧倒的であり、「長歌」に類するものが少ないことからも窺えます。
時代の変化と共に「個人」が詠う「短歌」が増え、民衆の歌、集団の歌とも言うべき「歌謡」が減っていったことを示していると思われ、そのことからも「古事記歌謡」が古いものであることが推定できます。「八十」はその「歌謡」に多く使用されているわけですから、同様に「古い」ものであるという事を示していると思われます。
また、『書紀』の例は、そのいずれも「森博達氏」の研究(注二)による「八世紀」以降の後代編纂部分と考えられる「β群」に属する例が非常に数多く、これらの記事が「日本人」述作者によるものと推定されているにも関わらず、その「β群」の中でも「欠史八代」については「倭臭」が全くなく、「本格漢文」に基づいた原資料がそのまま使用されていると考えられているようですが、そこには「八十」(やそ)という「数詞」は全く存在しておらず、それに対し「五十」(いそ)ならば存在しているということを考えると、おそらく渡来人と考えられる書紀編纂者やそれに原資料を提供した「編纂当時」の有力氏族にとって「八十」(やそ)という「純日本的」数詞形容はなじみがなかったものと推量されるとともに、「八十」という数詞を使用した形容語がかなり「古い」ものであることを裏付けるものです。
例えば、「綏靖」の部分には「多氏」の「記録」(家伝の類か)がそのまま使用されていると見られますが、その「多氏」の活躍が『書紀』に確認できるのが「六六一年」の「多臣薦敷」以降であり、その記録の中に「八十」の使用例がなかったと考えられることも上の推定を裏付けます。
以上の「記紀」の分析からの帰結として、「八十」という数詞を使用した「形容語」としての「人名」などは「古い」ものであり、それがどこかの時点で「五十」という「数詞形容」に取って代わられることとなったと推量します。
ところで、「孝徳紀」の「五十」の例は「東国朝集使への詔」の中に登場する「人名」としての「五十」でした。
「孝徳紀」
「大化二年(六四六)三月辛巳十九。詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫。及國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。以去年八月朕親誨曰。莫因官勢取公私物。可喫部内之食。可騎部内之馬。若違所誨。次官以上降其爵位。主典以下。决其笞杖。入己物者。倍而徴之。詔既若斯。今問朝集使及諸國造等。國司至任奉所誨不。於是。朝集使等具陳其状。…其以下官人河邊臣磯泊。丹比深目。百舌鳥長兄。葛城福草。難波癬龜。癬龜。此云倶毘柯梅。『犬養五十君。』伊岐史麻呂。丹比大眼。凡是八人等。咸有過也。…」
この「犬養五十君」の例は「固有名詞」としての人名にかかるものであり、このことから「君」の名称がもっと早い時期に始められていたことを示し、彼の「生年」と推量される「七世紀初め」の時点で「五十」という「数詞形容」が行われていたことを示すものと思われます。
また、この「例」を代表的なものとして「五十」はほとんど全て「固有名詞」としての「人名」また「地名」に掛かるものです。それに対し「八十」(やそ)は固有名詞ではなく「普通名詞」として使用されており、「普遍化」が進行していると考えられます。「五十」(いそ)という言葉が「勇ましい」という言葉に語感が似ていたことも「名詞」特に「人名」としての固有名詞の前につく動機付けになったものと思料されます。
また、「萬」(万)というのは、それだけで「多くの」という意味となっていますが、更に「無数」のという場合一般に「八百萬」と形容するであろうところで、「八十萬」と形容している例が『書紀』に数多く出てきます。これは「八十」という「形容語」にいわば「引かれて」出来た言葉と考えられ、それは「多い」という意味としての「八十」という「数詞形容」が広く一般化し定着していたことを示すものと思われます。
それはその時代の生活の中に「八十」という数字が深く入り込んでいたからであり、それは「地域社会」と「生活」というものの中に「行政制度」が存在し、それらを「規定」していた事が挙げられます。つまり、「八十戸」で一つの村とする、という「制度」が彼らの生活と習慣の中心にあったものであり、「八十」という数詞が「数多い」という「形容」の基礎となるためにはそれが「村の戸数」である、という背景があったと思料されるものです。
例えば「村」でいちばんの勇者と言う場合、その村の戸数が「八十」であるなら、彼には「八十建」という称号が与えられて何ら不自然ではないこととなります。
このようにして、生活の中の各所に「八十」という数字が顔を出すこととなったものと思われ、「多数」という意味で常用される下地が出来たものと思われます。 後に「制度改革」が行われ、「八十戸制」が改められて「五十戸制」になったと考えられるわけですが、それ以降「数詞的形容」としては「五十〜」というものが優勢になっていったと解されます。ただし、使用例としては「固有名詞」に留まると考えられ、「普通名詞」に及ぶ程の浸透期間がなかったものであり、その結果「八十」は古い時代の古い記録の中の「普通名詞」にだけ出てくるような状態となったものと思料します。
このように「五十」が「七世紀初め」と考えられる「人名」に使用されていると言う事から考えて、この時点での「五十戸制」施行というものが強く推定されるものです。
また「皇極紀」に出てくる「五十」の例は、「蘇我入鹿」が「ボディガード役」としていつも「兵士」を従えているという意味の文章の中に出てくるものです。
「皇極天皇三年(六四四)十一月冬十一月。蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。…大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東。穿池爲城。起庫儲箭。恒將五十兵士続身出入。名健人曰東方?從者。氏氏人等入侍其門。名曰祖子孺者。漢直等全侍二門。」
この記事の「五十」というものが「多数」を意味するのか「実数」なのか微妙ですが、「兵士」の数として書かれており、「軍制」と「五十」という数が関係しているように見えることを考えると、「五十戸制」と「軍制」との関連の中で考慮すべきものと思われ、そうであれば、この「年次」(六四四年)において(後の「軍防令」のような)「軍制」に関するルールが既にあったらしいことが推定されるものであり、それはこの年次に先行する時点である「七世紀前半」において「五十戸制」がすでに存在していたことを強く示唆するものです。
結語
一.「八十戸制」と「五十戸制」の切り替りは「木簡」などから「七世紀中葉以前」であり、有力なのは「七世紀前半」と考えられること。
二.この「戸制」の切替えと、「八十」(やそ)から「五十」(いそ)への「数詞形容語」の移り変わりが連動していると考えられ、この切り替り時期からも「八十戸制」から「五十戸制」への切り替りは「七世紀初め」と考えられる事。
以上を述べました。
(注)
一.拙論「『国県制』と『六十六国分国』」古田史学会報一〇八・一〇九号
二.森博達「『日本書紀の謎を解く』述作者は誰か」中公新書
「参考」
@以下に『書紀』に出現する「八十」(やそ)と「五十」(いそ)の例を書き出します。
「日本書紀」における「八十」(やそ)の例(純粋に数量を表すものは除く)
「八十枉津日神」:巻一第五段一書第六
「天八十河」:巻一第五段一書第七
「八十萬神」:巻一第七段本文、巻一第七段一書第一、巻二神代下第九段一書第一、巻二神代下第九段一書第二(二個所)、巻五崇神天皇紀
「八十玉籤」:巻一第七段一書第二(二個所)
「八十木種」:巻一第八段一書第五
「八十諸神」:巻二神代下第九段本文、巻二神代下第九段一書第六
「百不足之八十隅」:巻二神代下第九段本文(これは実数である可能性があります)
「八十連屬」:巻二神代下第十段一書第二、巻二神代下第十段一書第四(三個所)
「八十梟帥」:巻三神武天皇即位前紀(六個所)、巻七景行天皇紀
「八十平瓮」:巻三神武天皇即位前紀(二個所)(これは実数である可能性があります)
「八十諸部」:巻五崇神天皇紀
「物部八十手」:巻五崇神天皇紀
「八十萬羣神」:巻五崇神天皇紀
「葦原中國之八十魂神」:巻六垂仁天皇紀
「八十船之調」:巻九神功皇后摂政前紀(これは実数である可能性があります)
「子子孫孫八十聯綿」:巻十四雄略天皇紀
「生兒八十綿連連」:巻二十敏達天皇紀
同じく「五十」(いそ)の例
「五十猛神」:巻一第八段一書第四(二個所)
「五十猛命」:巻一第八段一書第四、巻一第八段一書第五
「姫蹈鞴五十鈴姫命」:巻一第八段一書第六(「五十鈴」としては「巻二神代下第九段一書第一」に「二個所」、『巻三神武天皇即位前紀に「二個所」、巻四綏靖天皇即位前紀に「二個所」、巻四安寧天皇即位前紀、巻六垂仁天皇、巻九神功皇后摂政前紀、巻十四雄略天皇紀に各「一個所」)
「五十狹狹小汀」:巻一第八段一書第六
「五十田狹之小汀」:巻二神代下第九段本文、巻二神代下第九段一書第二
「十市縣主五十坂彦女五十坂媛」:巻四孝安天皇紀
「彦五十狹芹彦命」:巻四孝霊天皇紀
「御間城入彦五十瓊殖天皇」:巻四開化天皇紀、巻五崇神天皇即位前紀、巻六垂仁天皇即位前紀、巻六垂仁天皇紀
「生活目入彦五十狹茅天皇」:巻五崇神天皇、巻七景行天皇即位前紀(三個所)、巻八仲哀天皇即位前紀
「彦五十狹茅命」:巻五崇神天皇紀(「五十狹茅命」としても巻五崇神天皇紀)
「五十日鶴彦命:巻五崇神天皇紀
「五十瓊敷入彦命」:巻六垂仁天皇紀、(「五十瓊敷命」として巻六垂仁天皇紀に「七個所」、「五十瓊敷皇子」として巻六垂仁天皇に「二個所」)
「五十日足彦命」:巻六垂仁天皇紀(二個所)
「五十狹城入彦皇子」:巻七景行天皇紀、
「五十河媛」:巻七景行天皇紀、
「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」:巻八仲哀天皇(三個所)
「五十狹茅(宿禰)」:巻九神功皇后摂政元年紀(四個所)
「五十兵士」:巻二十四皇極天皇紀(これは実数である可能性があります)
「犬養五十君」:巻二十五孝徳紀
A以下「古事記」における「八十」と「五十」の出現例を書き出します。(『書紀』と同様重複例は省きます)
「八十」(やそ)の例
「八十禍津日~」:上巻 二 神代紀(二個所)
「八十~」:上巻 四 大国主命記(十二個所)
「天八十毘良迦此」:上巻 五 葦原中つ国の平定部分
「八十建」:中巻 一 神武天皇記〜開化天皇記
「八十膳夫」:中巻 一 神武天皇記〜開化天皇記
「天之八十毘羅訶」:中巻 二 崇神天皇記
「天下之八十友氏v:下巻 二 允恭天皇記
古事記における「五十」の全例
「五十日帶日子王」:「中巻」三 垂仁天皇記
「見者五十隱」:「下巻」四 清寧天皇記(ただしこれは「いそ」ではなく「い」と発音するらしい)