(「古田史学会報一一四号」に採用・掲載されたもの。投稿日付は二〇一二年九月十九日。)
吉野と曳之弩
ここでは「吉野」を表す万葉仮名である「曳之弩」から、「吉野」が軍事基地であることを論証するものです。
一.「曳之弩(えしの)」と発音されていた「吉野」
「壬申の乱」の際に「大海人」が当初立て籠もったとされる「吉野」という場所については、元々「えしの」と発音していたものと考えられています。(古語辞典などによる)この「えしの」という言葉の表記として使用されている「万葉仮名」ではいくつか種類があるようです。
たとえば、「古事記」の「雄略天皇」の記事の中では「延斯怒」として現れます。
「天皇幸行吉野宮之時」と題された「歌謡」の中に現れる例
「…美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾 志斯布須登 多禮曾意富揺巫爾揺袁須 夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志揺綾登 阿具良爾伊揺志 斯漏多閉能 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐綾岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登 那爾淤波牟登 蘇良美綾 夜揺登能久爾袁 阿岐豆志揺登布」
また、『万葉集』では「吉野」を歌った歌は多く、その中では「吉野」か「芳野」が大部分ですが、「能野」とする例(一一三四番歌)及び「与之努」「余思努」と表記する例(これはいずれも「大伴家持」の作で「四〇九八、四〇九九、四一〇〇番歌」)があります。
また『書紀』では「天智紀」の「天智天皇十年」(六七一年)の十二月条に書かれてある「天智死去」とされる際の「童謡」記事で「曳之弩」という表記があります。
「(天智)十年(六七一年)十二月癸酉。殯于新宮。于時童謠曰。美曳之弩能。曳之弩能阿喩。々々擧曾播。施麻倍母曳岐。愛倶流之衞。奈疑能母縢。制利能母縢。阿例播倶流之衞。(其一)於彌能古能。野陛能比母騰倶。比騰陛多爾。伊麻?藤柯泥波。美古能比母騰矩。…」
これらから見ると『万葉集』では「よしの」ないしは「よしぬ」と発音するものと考えられるのに対して、「古事記」と『書紀』では「えしの」ないしは「えしぬ」と発音されるもののようです。このようにいくつか種類があるわけですが、中でも上で見た「天智紀」の「ぬ」ないし「の」の表記に使用されている「弩」という字が注目されます。
『書紀』中ではこの「文字」が「ぬ」(ないし「の」)という「音」の表記として使用されているのはこの「一個所」しかありません。また、『書紀』以外でも「努」ないし「怒」は上に見たように数例あるのに比べ、「弩」は『万葉集』でも「古事記」においても全く見かけない文字なのです。そのような文字が「敢えて」使用されていることに注意を払うべきであると思われます。
この「弩」という文字は「いしゆみ」或いは「おおゆみ」のことであり、大型の弓を意味しています。また、その構造、原理が現代の「ボウガン」によく似ており、殺傷能力、到達距離ともそれまでの弓に比べ飛躍的に大きいものです。
「曳」は「引く」と同義で「弓を引く」と言うときにはよく使われる書き方です。したがって「曳之弩」とは「おおゆみを引く」という意味とほぼ同義となり、このような言葉(万葉仮名)が「吉野」という地域を表す言葉として「名詞」として使われているということは、「吉野」という地域が軍事拠点であったことを強く示唆するものです。
そこに「弩」がなく、「弩」の引き手がいないにもかかわらず、この万葉仮名が使用される必然性がないことは自明と思われ、「吉野」には「弩」で武装した軍団があったと推定されるものです。(後の「白川軍団」を彷彿とさせるものです(注一))
「壬申の乱」(六七二年)の際には「瀬田の唐橋」の戦いで「弩」が使用されています。上の『書紀』の「曳之弩」の例は「天智紀」の最後であり、次の「天武紀」はほぼ「壬申の乱」で始まりますから、「直前」の使用例となるわけです。
『書紀』ではその情景について「列なれる弩乱れ発ちて、矢の下ること雨の如し」と表現しており、かなり多数の弩が使われたものと推定されます。
「(天武)元年(六七二年)秋七月庚寅朔…辛亥。男依等到瀬田。時大友皇子及群臣等 共營於橋西 而大成陣。不見其後。旗?蔽野 埃塵連天。鉦鼓之聲 聞數十里。列弩亂發。矢下如雨。其將智尊率精兵 以先鋒距之。仍切斷橋中 須容三丈。置一長板。設有?板度者 乃引板將墮。是以不得進襲。…」
この「瀬田の唐橋」の戦闘の描写における「弩」がどちらの軍から放たれたものかと考えると、「矢下如雨。其將智尊率精兵以先鋒距之。」とあり、ここで「智尊」が防いでいる「之」というものが示すものは、放たれた「矢」を指すものと考えられるものであり、この「智尊」は「近江方」の将軍ですから、「矢」は「反近江朝廷」軍から放たれたものであることとなります。
このように「大量」の「弩」を駆使できたのは出発地が「吉野」(「曳之弩」)であり、そこはその表記通り、「弩」を多数擁する軍事基地であったことの証左であると考えられます。
後の「養老律令」(軍防令)によると「各軍団のうちの一隊(五十名)程度から使い手として屈強のもの二名を当てる」と規定されていることから考えて「弩」は各隊に一台ずつあったと思われ、一軍団について少なくとも二十台程度はあったこととなりますが、この時の「弩」に関する描写から考えて、それを遙かに上回る数の「弩」が使用されたことを示唆するものであり、大量の「軍団」が「吉野」に集結していたことを推察させるものです。
このように「吉野」は軍事基地であったと推定されるわけですが、この「天智紀」の「童謡」の「吉野」が「どこ」を指すかについて、「従来」云われているように「奈良の吉野」であるとすると、上に見た「弩」を多数要する軍事基地という分析とは食い違いが大きいと思われます。というのは「奈良」の「吉野」は「平野」が狭く、そのような軍団が集結する為の利便性がないことと、「各地」と結ぶ「古代官道」がここに直接連結されていなかったと見られるからです。
この「奈良」の吉野はいわば「山の中」ですから、「軍用道路」としての機能が主であったと考えられる「古代官道」がこの場所には整備されていなかったとすると(というより整備が著しく困難であったと見られます)、この「奈良」の「吉野」という場所は「軍事基地」としては全く不適であると考えられます。
つまりここで「曳之弩」と表記されるような「吉野」は、「奈良」とは別の場所に探す必要があると考えられるわけです。
二.「軍事基地」としての「吉野」はどこか
また、上の「和歌」の例で言うと『万葉集』では「よしの」(ないしは「よしぬ」)と発音される例しか見えていません。たとえば「天武」の作と言われる「芳野吉見與良人四来三」などを見ても「同一発音」と思われる「芳」「吉」「良」と並んで「四」があり、これは明らかに「よ」という発音と考えられますから、「吉野」が「よし〜」と発音されていたことは明白です。
これは「古事記」『書紀』などと『万葉集』の「成立時期」の違いであると考えられ、古代では「えしの」という発音であったものが「八世紀」以降のどこかで「e」から「o」へと母音変化(母音交替)が起きたものと考えられているようです。(注二)
十世紀の成立と考えられる「和名抄」では奈良の「吉野」は『万葉集』におけるのと同様、「よしの」と発音されると考えられる「与之乃」と表記されていますから、「天武」の歌とされるこの歌も、その成立は案外新しいことを示すものかもしれません。
似たような例として「住吉」があります。ただ、こちらは『万葉集』でも「須美乃延」(四四〇八番歌)というように「すみのえ」という「え」表記が遺存しており、それは現代まで続いていますが、「和名抄」では「摂津国」の「郡」名として「須三與之」(すみよし)として出てきます。つまり、この十世紀という時代において既に「すみよし」と「すみのえ」という両系統が平行して行なわれていた事となります。
「住吉」という地名は「住吉大社(神社)」に起源があると考えられるものであり、「住吉三神」は本来「筑紫」に鎮座していたものですから、「古形」である「すみのえ」は「筑紫」においての本来の発音であったこととなると思われます。
このことは同様に「え」系発音である「えしの」と発音される「吉野」も、「すみよし」と同様「九州」の中に求めるべき事を意味する可能性が高いと思われます。
そう考えると、九州内で「軍事基地」としての利便性の高い場所で「古代」に「吉野(えしぬ)」と呼ばれた場所を探す必要があります。
しかし、そのような「地名」は発見できません。たとえば「和名抄」では「九州島」の中には「吉野」(「えしの」か「よしの」かを問わず)という地名を確認できないのです。
「佐賀」の「吉野ヶ里」であるという考え方もありますが、しかし、「和名抄」ではこの「吉野ヶ里」が存在している場所である「肥前」の「神埼郡」を見てみると、その中には「蒲田」、「三根」、「~ア」、「宮所」(みやどころ)の四郷しか書かれていません。このように「吉野」は見えていないわけですが、ただし、「郷名」(里名)より小さい領域を示す「字地名」の場合は「和名抄」には出ていないと思われますから、一概に「肥前」に「吉野」という地名が「存在しなかった」とは断定できるものではありません。また、この「吉野ヶ里」という地名についてはどのぐらい古いものか不明ですが、この「吉野ヶ里」周辺には「〜ヶ里」という地名が他にもかなりの数確認され、それらは「条里制」の「里」に基づくという考え方もあるようですから、この地に「条里制」が施行されていた「八世紀」以降には存在していたという可能性もありえます。
また、それは「住吉」(「すみのえ」も「すみよし」も)についても「吉野」と同様、「摂津」の地名としてはあるものの、「筑紫」と関連したものとしては「和名抄」には出て来ないことと関連していると考えられる部分もあります。
「住吉」については、元々地名と言うより「神社名」であったものであり、その後それが「転じて」鎮座したところの地名となったとも考えられます。「吉野」も「九州」においては同じであったという可能性もあります。つまり、「吉野」も元々地名というより「宮名」であったものかもしれません。たとえば上に見た「和名抄」の「神埼郡」には「宮所」(みやどころ)という「郷名」があり、ここが「吉野宮」の所在地であったという可能性も考えることができるでしょう。
「壬申の乱」という時点(六七二年)段階では、「近江朝廷」に対して「抵抗」したり、「帰順」しない勢力がかなり多数あったものと見られます。(注三)
『書紀』の話の展開から考えると「大海人」勢力は「反近江朝廷」勢力とほぼ同じと考えられますから、彼らが軍事的本拠として立て籠もった場所が「九州」のどこかの「吉野」であったとすると、それに対応する政治的一大拠点とも云うべき場所は「太宰府」であったと考えられます。 それは「近江朝廷」側から軍の派遣要請を受けた「筑紫大宰」という「栗隈王」がその要請を拒否したことでも窺えるものです。しかも『書紀』によれば「以前から「栗隈王」と「大皇弟」は「関係が深かった」というような表現がされ、反近江朝廷勢力が元々「筑紫」領域を含んでいたことはそのことからも明らかです。そうすると、この「政治的拠点」(太宰府)と「軍事的拠点」とは距離的に「それほど遠くない」関係にあったと推測されることとなり、またそこは「軍事的拠点」とされるにふさわしく、「古代官道」も整備されているはずであって、軍団の移動・展開をするのに至適の場所であることを念頭に入れて探すと、やはり上に挙げた「吉野ヶ里」付近が有望となってくると思われます。それは、この場所はこの時代まだ「海岸線」もかなり陸側に入り込んでいたと考えられ、「天然の良港」を形成していたと見られるため、「海路」による軍団の移動なども容易であったと考えられるからです。
三.「薩耶馬」と「吉野」
『書紀』によれば「筑紫君薩野馬」という人物が「壬申の乱」の前に帰国しています。彼に関する以降の消息は『書紀』には書かれていませんが、「壬申の乱」当時存命していたと考えられ、「筑紫の君」として「復帰した」と考えるのが妥当なのではないでしょうか。
彼が帰国した段階の「列島情勢」についてはいろいろ考え方があると思われますが、上に見たように「近江朝廷」の統治領域は列島を広く覆っていたわけではなく、特に「筑紫」など「西日本」は「倭国」勢力が強かったものと見られ、そのことは「薩夜馬」が帰国した時点で「筑紫君」であった彼を「我が君」として受け入れる勢力が少なくとも「筑紫」付近にはまだあったと考えるべきことを推察させます。
仮に「薩野馬」が「筑紫君」として「復帰」した場合、「筑後」や「肥前」に「大海人」(天武)が拠点を構えたとすると、すくなくとも「薩野馬」の「了解」や「支援」なしに立て籠もったり、軍備を整えたりするというようなことは「不可能」であると思われます。
この場所は確かに「肥前」の領域ですが、例えば「太宰府」の南方を守護する「基肄城」は「肥前」に属してはいるものの、「太宰府」防衛のために築城されたものであり、それを「使役」した主体は「倭国王」であるのは当然ですが、その防衛されるべき「太宰府」(ないしはその至近にあったと考えられる「筑紫宮殿」)の主は「薩夜馬」であったと見られ、(少なくとも彼は「筑紫君」なのですからそれは当然と思われます)そうであれば、「肥前」という行政区域に存在する「基肄城」が、隣接する別領域の「君」のために築かれたこととなってしまうという矛盾が起きかねません。これはつまり、「基肄城」を築造させた使役の主体が「筑紫君」である「薩夜馬」であることを示すものであり、彼が「筑紫君」と言うよりもっと広範な領域を支配していたことを示すものではないでしょうか。
また、この「太宰府」防衛のために築城された「大野城」や「基肄城」などの「山城」は、「百済」に基本的に源流があるとされます。その「百済」では首都であった「泗?城」と「青馬山城」というように「都城」とそれを防備する「山城」という組み合わせが「一般的」であり、その意味では「筑紫」付近に「太宰府都城」と周辺の「大野城」等の山城という組み合わせが存在することは、この「太宰府」地域が(「百済」の例と同様)「首都」であったことの「傍証」とも考えられます。
『書紀』は「薩夜馬」を「筑紫」(「筑前」と「筑後」を併せた領域)という狭い地域の権力者として「矮小化」していると考えられ、実際にはもっと広い領域を統治していたものであり、本来の「倭国王」であったと思料されるものです。
またその「矮小化」ないしは「無視」という行為は「薩耶馬」帰国の記事にも現れています。そこには「将軍」などの「称号」が書かれていません。「君」という高位にあったものが「将軍」などの「タイトル」を帯びていないはずはなく、この「無称号」という事実もまた、「薩夜馬」に対する「或特別の意図」が『書紀』編纂者の側にあったことを示しています。彼については上に述べたように帰国後の情報が全く欠落していますが、それと「無称号」であることは関連しているものと思われ、彼という存在が「特別」の「ケース」であり、「薩夜馬」にとって不名誉なこと(捕虜となって帰国したことや、その後の「大伴部博麻」の「身を売ったエピソード」など)以外は「言及」が慎重に避けられていることを示しています。
また、「大海人」(天武)が「隠棲」したとされる「吉野」が上で見たように「奈良」の「吉野」ではなく「吉野ヶ里」の周辺であったとすると、その軍備の規模は上で見たように「弩」を多数有するなど、かなり大きいと考えられるわけですから、この軍事行動が「倭国王」である「薩野馬」と連係したものであったという可能性が高いと考えられます。
また、同様なことはそれ以前に行われた「白村江の戦い」における「倭国軍」の出発地はどこか、という分析からも言えます。
『書紀』中に頻出する「持統天皇の吉野行幸」は『書紀』の「三十四年遡及問題」の研究(注四)により、「斉明天皇」の時代の事であると考えられることとなっており、その「吉野」への行幸が「白村江の戦い」後、全く行なわれなくなる、ということから考えて、この時の「吉野行幸」がこの「白村江の戦い」に深く関係している事が明らかとなっています。つまり、この行幸は「桜」や「滝」を見に行っていたわけではなく、「船団」(軍団)が集結していた場所へのものであったと推定され、そうするとやはり「吉野」には「軍事基地」があったものと推察できます。
このような戦いの際の軍事基地としては、その戦いの最前線から余り遠く離れては「危急」の際に間に合いませんし、かといって「最前線」のまっただ中では場合によっては「戦線」の悪化によっては至急「移動」の必要も出てくるものですから、「最前線」から「一歩」下がった位置が「物資」「武器」補給の基地としては最適と考えられます。
国内向けには大量に軍事力を早期に展開する方法として「古代官道」が存在していましたから、ある程度距離が離れていても問題ではなかったと思われますが、「海路」では「天候等」により「軍事力」を展開する時間が極端に左右されると共に、「危険性」が「陸上」の比ではなく、当時の船の構造とも相まって遠距離移動はリスクが多すぎると思われます。そう考えると、「半島」に派兵するというような場合は「本州」のどこかに「基地」を想定するより、「九州」のどこかに「基地」が作られて当然と考えられます。その意味では「九州北部」に基地があったという可能性が非常に高いと思われますが、「玄界灘」に面して多量の船が集結したと考えるより、背後の「筑後」ないし「肥前」付近に基地があったと考える方が軍事的な常識に沿っているものと思われます。
そうすると、上に見たように「吉野」は「やはり」「佐賀」の「吉野ヶ里」近辺である可能性が高いと考えられるものです。
ここは「玄界灘」に面しておらず、敵からの攻撃に際しても「直撃」を避けられる位置にあるなど利点があります。この「吉野ヶ里」近辺に「前線基地」を構築し、「船舶製造」と「軍事訓練」を行いながら、戦闘準備に励んでいたものと推察します。
この場所は「太宰府」(筑紫宮殿)からそう遠くなく、「官道」の整備の状況から見ると実質「太宰府」の勢力範囲ともいえ、その「太宰府」(筑紫宮殿)は「筑紫君」の所在し、支配する場所なのですから、「吉野ヶ里」付近に基地があるとすれば、それを統括しているのは「薩夜馬」以外には該当する存在が見あたりません。(この事からも「半島」に「派遣」された「倭国軍」が「薩夜馬」の指揮下にあったことは明確と思われます。)
そして、この場所はその後「壬申の乱」の際にも同様に「軍事基地」として使用されたものと推定されるものであり、それが「曳之弩」という「吉野」を現す「万葉仮名」に現れているのではないかと推察します。
(結語)
一.「吉野」を表す万葉仮名の中に「曳之弩」という表記があり、これは「吉野」という場所が「弩」が多数集まる軍事基地であることを示唆するものであること。
二.「軍事基地」としての「吉野」という場所の候補として適当な場所は「筑後」の「吉野ヶ里」周辺であると考えられること。
三.この場所は「筑紫君薩耶馬」の統治領域の中にあり、「白村江の戦い」も「壬申の乱」もその中心人物はその「筑紫君薩耶馬」であると考えられること。
以上を述べました。
(注)について
一.一九九九年(平成十一年)に宮城県の「築館町伊治城跡」から「弩」の引き金部分である「機」が発見されました。この「弩」はそれまで「発見例」がなく「実在」が疑われていたものですが、それが実際に存在したこと、さらにそれが(「軍防令」の規定に則って)「郡衙」から出土したことは、逆に「弩」が使用されている、と書かれたこの『書紀』の記事と「曳之弩」という「万葉仮名」による「表記」そのものが、正しく「軍制」に基づいていたことを示唆するものです。
二.森山隆「上代におけるo〜e交替の周辺」一九六四年 福田良輔教授還暦記念特集号 九州大学リポジトリ
三.例えば「天智」が造らせたとされる「庚午年籍」についても「三野」では確かに「庚午」の年に造籍されていると確認できるものの、「常陸」では明らかに翌年の「辛巳」の年に造籍されており、また「正倉院文書」の中の「西海道戸籍」からの解析として、「常陸」同様「庚午」と一年ずれた年次に女子人口のピークがあるように見えるなどの事実があり、これらは「造籍」が「近江朝廷」の指示・命令によるものではないことを示唆するものと思われ、彼等の権威の及ぶ範囲に限度があったことを示すと思われます。
四.古田武彦「壬申大乱」』東洋書林あるいは古田武彦「壬申の乱の大道」−「古田武彦講演会」二〇〇〇年一月によります。