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「天朝」と「本朝」


(「古田史学会報一一九号及び一二〇号」に採用・掲載されたもの。投稿日付は二〇一一年十二月二十四日)

「天朝」と「本朝」 − 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析

ここでは『書紀』の「大伴部博麻」を「顕彰」する「持統天皇」の「詔」の中の「天朝」と「本朝」について考えます。

(一)『書紀』の「本朝」と「天朝」の例
 『書紀』の「持統四年」条には「斉明七年」(六六一年)に行なわれた「百済を救う役」で「唐」「新羅」連合軍に「捕虜」になり、その後「三十年間」帰国できずにいた「筑紫國上陽郡」の「軍丁」である(あった)「大伴部博麻」が「新羅」からの使者に同行して「持統四年」(六九〇年)に帰国した記事と、その直後に「持統天皇」からその「大伴部博麻」を顕彰する詔が出されたことが書かれています。
 以下に『書紀』の「持統紀」の「該当部分」を書き出します。(以下全ての書き下し文は「岩波」の「古典文学体系『日本書紀』」に準拠しました)

「持統四年(六九〇)九月丁酉 大唐學問僧智宗 義徳 淨願 軍丁(いくさよぼろ)筑紫の國上陽東Sの大伴部博麻 新羅の送使大奈末金高訓等に從ひて筑紫に還り至る。」

「持統四年(六九〇)冬十月乙丑 軍丁築後國上陽刀iかみつやめ)の郡の人大伴部博麻に詔して曰く「天豐財重日足?天皇の七年に、百濟を救う役(えだち)に 汝唐の軍の為に虜(とりこ)にせられたり。天命開別天皇三年に?(およ)びて、土師連富杼 冰連老 筑紫君薩夜麻 弓削連元寶兒 四人 唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さむと思欲(おも)へども、衣粮無きに?りて、達(と)づくこと能わざることを憂ふ。 是(ここ)に博麻、土師富杼等に謂(かた)りて曰く「我、汝と共に『本朝(もとつみかど)』へ還り向(おもむ)かむとすれども、衣粮無きに?(よ)りて?に去(ゆ)くこと能わず。願(こ)ふ、我身を賣りて、衣食に充(あ)てよ。」富杼等、博麻の計(はかりこと)の依(まま)に「天朝(みかど)」に通(とづ)くこと得たり。汝、獨り他界に淹(ひさ)しく滯(とどま)ること、今に三十年なり。朕、厥(そ)の「朝」(みかど)を尊び國を愛(おも)ひて、己(おのがみ)を賣りて忠(まめなるこころ)を顯すことを嘉ぶ。故に務大肆并びに?(ふとぎぬ)五匹綿十一屯布三十端稻一千束水田肆(四)町賜ふ。其の水田は曾孫に及至(いた)せ。三族の課役を免(ゆる)して、以って其の功を顯さむ。」とのたまふ。

 ここでは、「大伴部博麻」らは「唐人」の「計」を「奏聞」しようとしたものであり、そのために「大伴部博麻」が自分の身を売って「衣糧(食料と衣料)」を作ったとされています。
 ここで彼らが伝えようとしていた「唐人所計」というものが何を意味するかは不明ですが、目的は達したものと推察され、そのことは文中で「富杼等は博麻の計るところに依り「天朝」に通(と)どくを得たり。」と書かれている事でも解ります。
 ところで、ここで「博麻」の言葉として「本朝」と言い、「持統」の言葉として「天朝」と言っている事について考えてみます。これは、今までは「疑い」もなく、「天皇」の朝廷(近畿王権)を意味するものとされていました。しかし、この「詔」を子細に検討すると別の考えもあってしかるべきではないかと考えます。

 まず、「持統」の詔の中に出てくる「大伴部博麻」の「本朝」について考えてみます。
 『書紀』の中では「本朝」はこの部分にしか出現しませんから、その用法・意味などについて他の例から帰納することは出来ず、あくまでもこの使用された部分の論理性から判断することとなります。
 「辞書」(大辞林)によれば「本朝」とは「我が国の朝廷。また、我が国。国朝」をいうとされています。これは常識的に考えてもうなずけるものです。
 「博麻」は「我欲共汝還向本朝」という言い方をしていますから、彼は、彼にとっての「我が国の朝廷」がある場所へ「還向」したいと言っていることとなります。
 「博麻」はそもそも「筑後」の「軍丁」であり、「筑紫」の人間でした。彼が「還り向う」と欲しているなら、その場所は「筑紫」以外には考えられず、そこには「我が国の朝廷」がある、という事とならざるを得ません。
 また彼は、同じく捕囚の身となっていた目前の「筑紫の君」である「薩耶麻」の部下であり、「本朝」とは彼の「口」から出た言葉なのですから、ここでいう「我が国の朝廷」とは「我が君」である「薩耶麻」が統治していた「筑紫朝廷」を指すものと考えるべきでしょう。
 また、「博麻」は「本朝」に「汝共」に「還向」と言っていますから、この「筑紫朝廷」が、彼にとってと言うよりそこにいる「富杼」達全員が「属している」「朝廷」であったものと考えられるものです。
 そして、「持統」はその「本朝」である「筑紫」へ還った(と考えられる)「富杼」達について「天朝」という表現をしているわけです。
 「正木裕氏」は『「薩夜麻の『冤罪』I」古田史学会報八十一号』の中で、この「天朝」について「唐朝廷」を指すとされていますが、ここで「持統」が言う「天朝」と「博麻」の言う「本朝」は一致するはずですから、「本朝」と同様「筑紫朝廷」を指す言葉として使用されているのではないかと考えられるものです。
 現在の辞書では「天朝」については、「朝廷・天子を敬って言う語」というような一種「美称」「敬称」であるとされています。
 しかし、上で見たように「本朝」という用語の使用の状況から考えると、「天朝」という語義は、特に「筑紫朝廷」について使用されているのではないかと考えられるところです。
 ただし、「天朝」という語は『書紀』の中に多数使用されているものであり、『書紀』中ではどのような使用法になっているのかという「解析」が必要と考えられます。それらの例から「帰納」して考える必要があると思われ、その結果が上で仮に出した推論に合致するか判断することとします。
 「国外」の人間から見た使用例として『書紀』には「八例」数えられます。それは「神功皇后紀」二例、「応神紀」二例、「欽明紀一例」、「敏達紀」一例、「舒明紀一例」、「斉明紀一例」です。これらの例を分析しましたが、その「天朝」という用語からは、それが「筑紫」の「朝廷」を指すものかは不明でした。(引用は省略します)
 また「国内」の人間による使用例は「五例」あります。これらについては以下に当該部分を抜粋して表記してみます。
 
【「膳臣」が「倭国」を天朝と称した例】
 これは「膳臣」が「新羅」に行き、そこで「新羅」に(「新羅王」に)向かっていった言葉の中の例です。

『日本書紀』巻十四雄略天皇八年(甲辰四六四)二月条
八年春二月(中略)膳臣等新羅に謂りて曰わく「汝至りて弱きを以て、至りて強きに當れり。官軍(みいくさ)救わざらましかば、必ず乘(もま)れなまし。人の地に成らむこと、此の役(えだち)に殆(ほどほど)なり。今より以後(のち)、豈に「天朝」(みかど)に背きたてまつらむや。」といふ。(以下略)


【「小鹿火宿禰」が「倭国」を「天朝」と称した例】
 これは「新羅」に派遣した将軍「紀小弓宿禰」が死去した後、同じく「新羅」に向かった彼の子息である「紀大磐宿禰」が傍若無人の素行を行い、それを怨んだ「子鹿火宿禰」との間に起きた確執を記した文に登場する「天朝」の例です。
 ここでは「小鹿火宿禰」は「紀大磐宿禰」と同じ場所で仕事したくない、という事で「角國」という詳細不明ではあるものの「キ」ではない場所で「奉事天朝」することとなったというわけです。

『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)五月条

夏五月 紀大磐宿禰、父既に薨りぬることを聞きて、乃ち新羅に向きて、小鹿火宿禰の掌れる兵馬・船官及び諸の小官を執りて、専用威命ちぬ。是に、小鹿火宿禰、深く大磐宿禰を怨む。(中略)別に小鹿火宿禰、紀小弓宿禰の喪に從(よ)りて來つ。時に獨り角國に留る。倭子連(連、未だ何の姓の人なるかを詳(つばひらか)にせず)をして八咫鏡を大伴大連に奉りて、祈(の)み請(まう)さしめて曰わく「僕、紀卿と共に『天朝』(みかど)に奉事(つかへまつ)るに堪へじ。故請う、角國に留住(はべ)らむ」とまうす。是を以て大連、天皇に奏して、角國に留り居(す)ましむ。(以下略)


【「田道間守」が「倭国」(垂仁天皇)の朝廷をさして「天朝」と称した例】
「田道間守」の場合は、彼は当時「但馬国」にいたと考えられ、その彼に「朝廷」から「非時香菓」を取ってくるよう命令が出て、「常世」の国まで取りに行き戻ってきた際の「田道間守」の言葉として、「垂仁」の朝廷のことについて「天朝」という用語を使用している例です。

『日本書紀』巻六垂仁天皇九九年(庚午七十)十二月条
冬十二月癸卯朔壬子 葬於菅原伏見陵 明年(景行天皇元年辛未七一)春三月辛未朔壬午(十二)に田道間守、常世國より至(かへりいた)れり。則ち賚(もてもうでいた)る物は非時(ときじく)の香菓(かくのみ)八竿(ほこ)八縵(かげ)なり。田道間守 是に泣(いさ)ち悲歎(なげ)きて曰さく「命(おほみこと)を『天朝』(みかど)の受けたまはりて遠くより絶域(はるかなるくに)へ往る。萬里(とほ)く浪を蹈みて、遥かに弱水を度る。是の常世の國は、神仙の秘區(かくれたるくに)、俗(ただひと)の臻(いた)らむ所に非ず。是を以って往來(ゆきかよ)ふ間に、自からに十年に經(な)りぬ。豈に期(おも)ひきや、獨り峻(たか)き瀾(なみ)を凌ぎて、更(ま)た本土(もとのくに)に向(もうでこ)むといふことを。然るに聖帝の神靈(みたまのふゆ)に頼りて、僅かに還り來(まうく)ること得たり。今天皇既に崩(かむあが)りましぬ。復命(かえりごとまうすこと)得ず。臣は生けりと雖も亦何の益かあらむ。」とまうす。(以下略)


【「日本武尊」が「倭国」(景行天皇)の朝廷をさして「天朝」と称した例】
この「景行紀」の用例は「日本武尊」が死の間際に「能褒野」で発せられた言葉の中に出て来る「天朝」の例です。(体系はここの訓を「みかど」としています。)

『日本書紀』巻七景行天皇四〇年(庚戌一一〇)是歳
是歳 (中略)能褒野に逮(いた)りて痛み甚(さは)なり。則ち俘(とりこ)にせる蝦夷等を以て神宮に獻る。因りて吉備武彦を遣(まだ)して天皇に奏(まう)して曰(まう)したまわく「臣は命を『天朝』(みかど)に受(うけたまは)りて遠く東の夷(ひな)征(う)つ。則ち神の恩(めぐみ)を被り、皇(きみ)の威(いきほひ)に頼(よ)りて而叛く者、罪に伏ひ、 荒ぶる神、自づからに調(したが)ひぬ。是を以って甲(よろひ)を巻き戈を?(おさ)めて、ト悌(いくさと)けて還れり。冀(ねが)はくは曷(いず)れの曰曷れの時にか『天朝』(みかど)に復命(かえりごとまう)さむと。然るに天命(いのちのかぎり)忽ちに至りて、隙駟(ひのあし)停(とど)まり難し。是を以って獨り曠野(あらの)に臥す。誰にも語るもの無し、豈に身の亡びることを惜しまむや。唯愁ふらくは不面(まのあたりつかえまつらず)なりぬることのみ。」とまうしたまふ。既にして能褒野に崩(かむさ)りましぬ。時に年卅(三十)(以下略)


【「持統朝廷」のことを「天朝」と言っているように見える例】
これは「新羅」からの「弔使」に対しての「土師宿禰根麻呂」が「勅」を伝える場面で「天朝」が使用されている例です。(ここでも「体系」は「みかど」と訓をつけています)

『日本書紀』巻三〇持統三年(六八九)五月甲戌廿二
五月癸丑朔甲戌。土師宿禰根麻呂に命(おほ)せて、新羅弔使級餐金道那等に詔して曰わく「太政官卿等が敕を奉(うけたまは)りて奉宣(のたま)はく、二年に田中朝臣法麻呂等を遣わして、大行天皇の喪を相告げしめき。時に新羅が言(まう)ししく、「新羅の敕を奉る人は元來蘇判(そうかん)の位を用(も)てす、今復た爾(しか)せむと將(おも)ふ。」とまうしき。是に由りて法麻呂等、赴(つ)げ告ぐる詔を奉宣ふこと得ざりき。若し前(さき)の事を言はば、在昔難波宮治天下天皇の崩(かむあが)りましし時に、巨勢稻持等を遣わして 喪を告げる日に、翳餐(えいさん)今春秋、敕を奉りき。而るに蘇判を用て敕を奉ると言すは、即ち前の事に違(たが)へり。又近江宮治天下天皇崩りましし時に 一吉餐(いっきつさん)金薩儒等を遣わして弔ひ奉(まつ)らしめき。而るを今級餐(きふさん)を以て弔ひ奉るは 亦た前の事に違へり。又新羅元來奏(まう)して云(まう)さく、『我國は日本の遠つ皇祖の代より、舳(へ)を並べて楫(かじ)を干さず奉仕(つかえたてまつ)れる國なり』而るを今は一艘のみあること、亦た故(ふる)き典(のり)に乖(たが)へり。又奏して云さく『日本の遠つ皇祖の代より、以って清白(あきらけ)き心で仕へ奉れり。』とまうす。而るを竭忠(まめこころあ)りて本職(もとのつかさ)を宣べ揚ぐることを惟(おも)はず。而(しか)も清白きことを傷(やぶ)りて、詐(いつわ)りて幸(まめ)き媚(こ)ぶることを求む。是の故に調賦(みつき)と別(こと)に獻れるとを、並びに封(ゆひかた)めて以って還(かへしつかわ)す。然れども、我が国家(みかど)は遠つ皇祖(みおや)の代より 廣く汝等を慈みたまひしコ、?ゆべからず。故、彌(いよいよ)勤め彌(いよいよ)謹み、戰戰兢兢(おじかしこま)りて、其の職任を脩(おさ)めて、法度(のり)に尊(した)がひ奉つらむ者をば、『天朝』(みかど)、復た廣く慈みたまはまくのみ。汝道那等、斯の敕(みことのり)したまふ所を奉りて、汝が王に奉宣(の)べよ」とのたまふ。

 これらの例からも特に「筑紫朝廷」を指しての「呼称」(尊称)であると断定できるものはないようです。しかし、いずれも「本朝」と呼称しても良いと考えられるところで「天朝」と言っているのが注目されます。つまり、「本朝」という呼称が使用されない理由としては「大伴部博麻」がいみじくも「還向」と言う用語を使用したように「還る」という意識があって初めて使用できる言葉であり、それは「我が」朝廷、つまり「自分たちの属している」朝廷という意識があって始めて使える、というものと考えられるものです。
 つまり、「本朝」とは「自分たちが属している」「朝廷」であり、「天朝」とは「自分たちが属していない」「朝廷」を意味すると考えられます。
 「辞書」(大辞林)では「天朝」について「『朝廷』に対する美称」とされていますが、論理的に考えても「自分が」所属する「朝廷」に対して「美称」「敬称」は使用されないものと思われ、それは「自分」に対して「尊称」する事と同意になると考えられることから、「他の朝廷」に対するものであるのは(潜在的に)自明の前提であると考えられます。

 そもそも「朝廷」とは「天子」(皇帝)の政治の中心点を指す言葉ですから、その「天子」の元には「一個所」しかないわけであり、「倭国の朝廷」も同様「一個所」しかなかったものと考えられます。そしてその「一個所」しかない「朝廷」がある場所というのが「倭国」の「本国」であると考えられ、その「本国」にいる(属する)人達の自称が「本朝」であり、「諸国」の者達から見た「倭国」の「朝廷」に対する「敬称」が「天朝」なのだと思われます。
 そして「博麻」に拠れば「本朝」とは「筑紫」の「朝廷」を指すものと考えられるわけです。

 「田道間守」は「但馬」の人間ですし、「小鹿火宿禰」は記事からは不明ですが、元々「新羅」国内に拠点があった「親新羅系」の氏族と考えられます。また「膳臣」は「新羅王」の前で「天朝」と称していますので、これはある意味「新羅王」と立場が異ならないことを示しているようです。「天朝」がどこを指すかを別として「新羅王」が言うのであれば「倭国の王朝」を指して「天朝」という用語を使用するのは、或いは適切かも知れませんが、「膳臣」が言うとすると「本朝」が似つかわしいはずであるのに「天朝」と称している訳です。
 この「膳臣」については、その後の伝承によれば「近畿」周辺の人物と考えられ(若狭に拠点があったというものもあるようです)、少なくとも「九州」にはそのような「膳臣」に関わる伝承もその後の「子孫」もいないものと考えられます。
 そして、同様のことは「日本武尊」についても言えると思われます。彼は、『書紀』では明らかに「近畿王権」に関わる人物として描写されているわけですから、間違いなく「諸国」の人物と考えられます。(遠征に同行した武人も近畿周辺の人物です)
 彼が自分のいた「朝廷」のことを言うならば「博麻」と同様「本朝」という呼称使用するところのはずですが、実際には「膳臣」と同様「天朝」と言っており、この事は「彼らにとって」「倭国朝廷」は「本朝」と言いうるものではないと言うことを意味していると推察され、「田道間守」「小鹿火宿禰」「膳臣」「日本武尊」達の「本拠」と言えるところには「倭国朝廷」がない、という事を示していると考えられます。

 日本は「古」(いにしえ)から「倭国」と呼ばれていたわけですが、「倭の五王」の頃に対外拡張政策を採り、その結果、以前までの「倭国」と、その後「征」「服」「平」するなどして(「武」の上表文の表現による)「倭国」の勢力下に入った「諸国」に分けられることとなったと考えられます。
 その後は「元々の倭国」の領域に属する立場の人達は「倭国」の朝廷を「本朝」と言うようになり、「諸国」は「畏敬」の念を持って「天朝」と呼ぶようになったものと考えられます。
 彼らの例からは「近畿王権」のことを「倭国朝廷」とは考えていない、あるいは呼称していないと言うことを示しています。
「最後」の「持統」の例も同様と思われますが、この場合「不審」と考えられる点がありました。

(分割掲載となったためここで区切ります。)

(その二)(これ以降は当初投稿したものを再論考したものであり、差し替えをお願いしたものです。二〇一四年一月七日投稿。)

 前稿では「天朝」と「本朝」の出現例を逐次確認し、「天朝」が「諸国」から見た「筑紫朝廷」に対する「美称」であることを推測したわけですが、ここでは「持統」が「新羅」からの「弔使」に対して発した「詔」に出てくる「天朝」について考察し、それがやはり「筑紫朝廷」に対する美称であることを示します。
 ところで前稿において『「正木裕氏」は『「薩夜麻の『冤罪』I」古田史学会報八十一号』の中で、この「天朝」について「唐朝廷」を指すとされていますが』としましたが、これは私の誤読であり、正確ではありませんでした。
 「正木氏」の「趣旨」は「天朝」が「薩耶麻」を指すというものであり、「天朝に届く」とは「薩耶麻」に「唐」に滞在していた「倭国高官」を引き合わせることができた事を指すというものとのことでした。ここに訂正させていただきます。
 (ただし、この「天朝」が「薩耶麻」を指すという「正木氏」の論にもやはり同意はできません。理由は前稿で述べたので省略します)

(二)「持統の詔」に出てくる「天朝」の意味と「三十四年遡上」
 この例は「天武」の死去に際して「土師宿禰根麻呂」が「新羅」からの使者(弔使)に対する言葉の中に登場するものです。
 この「弔使」は「持統三年(六八九)四月二十日」に「筑紫」到着したようであり、そこで「金銅阿弥陀像」等の「献上物」を「弔意」を表すため提出しています。そして、これらの「献上された」品々を「朝廷」に運び、内容を改めた結果、この「献上物」とこの「弔使」自体に疑問を持った「持統朝廷」は、これを受け取らず返還することとしたわけです。そして、これについての「説明」を(外交上非礼のないように)「勅」の形(つまり「天皇の言葉」として)で「土師宿禰根麻呂」が「詔」として伝えていることとなったと見られます。その「根麻呂」が伝える「勅」の中に「天朝」という用語が使用されており、「一見」「天皇自身」の言葉として「自王朝」を「天朝」と言っているように見えます。しかし、「天朝」を「美称」と考えると、「自分」の朝廷(というより自分自身と言えます)を「尊敬」して話していることとなってしまい、前に述べたようにはなはだ不審です。
 これも「筑紫」の「朝廷」のことを指すのかと考えると、「問題」と思われることがありました。それはこの「持統三年」(六八九年)という段階で「筑紫朝廷」が存在していたかが「はっきり」しないことです。
 「持統朝廷」が近畿王権なのか倭国王権なのか、倭国王権だとしても、この年次の時点で「遷都」しているのかどうかなどについてまだ明確になっておらず、定まった見解がありません。
 この点について考えるといろいろな可能性があり、もしこの段階で「筑紫」にはすでに「朝廷」がない、という事であれば「天朝」が「筑紫朝廷」を指す用語という「仮定」と矛盾する、という考え方もあり得ます。

 ところで、この記事に関しては、別の意味で疑問があります。
 『書紀』によれば「天武」の死去した翌年の「一周忌」の直前の「持統元年(六八七年)九月」に「たまたま」「新羅王子」一行が来倭しています。彼らの来倭目的は「奏請國政」とされており、これは何らかの政治的方針の表明などを要請に来たものかと推察され、この時点では「倭国王」の死去を知らなかったのではないかと思われます。
 そして、「天皇崩」という知らせを「大宰府」で聞き、そのまま「喪服」に着替え、「弔意」を表しています。
 その後彼らの「接待役」として「任命」された「直廣參路眞人迹見」が「勅使」として送られ、その彼から「正式」な「天皇崩御」の知らせを受けて、改めて「三發哭」という儀式を行い「弔意」を示しています。
 このようにすでに「王子」という高い地位の人間が「弔意」を表しているわけであるのにも関わらず、その後一年余り経ってから「別の」弔使が(それも位の低い人物が)派遣されたというのも不思議な話です。

 この「根麻呂」の詔の中では「昔在難波宮治天下天皇」の崩御に際して「巨勢稲持」が「喪之日」を知らせる為に「新羅」に行った際、「金春秋」が「奉勅」したと書かれており、彼の肩書きが「翳餐」とあります。これは「伊餐(?)」と同じものであり、「新羅」の官位の十七階中第二位のものです。
 しかし、この「昔在難波宮治天下天皇」が「孝徳天皇」を示すとすれば、彼が「六五四年十月」に亡くなったわけであるのに対して、「金春秋」は、「三国史記」によればそれ以前の「六五四年三月」に先代の「真徳女王」を継いで「新羅国王」の座についています。
 つまり、「孝徳天皇」死去の知らせが来た段階ではすでに「金春秋」は「国王」になっているわけであり、その時点で「翳餐」という「第二位」の官位を持っている「官人」であったとするこの『書紀』の記事とは大きく食い違っているのです。

 また、この時点で「新羅」からの「弔使」に対してを献上された物品を返却したり、以前からの倭国に対する態度を問題にしているなど「厳しい」態度に出ているのは、「新羅」が「唐服」を着用して追い返された「六五一年」の出来事と性格を等しくするものです。
 これを「天武」の死去時のことと考えると、「天武」の時代に入ってからの「遣新羅使」や「新羅使」などの往来が頻繁になり、それにつれ「新羅」との関係が急速に良好となり「友好的」なものとなっていった「時代」の「雰囲気」と合致しないと思われます。

 また、この「詔」の中では「治天下」という表現が使用されています。
 「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」というように「天皇の統治」を示すものとして「治天下」という「用語」が使用されているわけです。
 「治天下」は「天皇の統治」を表す用語ですが、『書紀』を子細に眺めると「古い時代」にしか現れません。「神代」にあり、その後「雄略」「顯宗」「敏達」と現れ、(この「持統紀」を除けば)最後は「孝徳紀」です。ただし、「孝徳紀」の場合は「詔」の中ではなく、「地の文」に現れます。
 それに対し「続日本紀」などの後代には替わって「御宇」が使用されます。『書紀』の中にも明らかに「八世紀」時点における「注」と考えられる表記以外には「舒明前紀」「仁徳前紀」「仲哀紀」で「御宇」の使用例がありますが、最後は(「治天下」同様)「孝徳紀」です。(ただし「詔」の中に現れるものです) 
 この「孝徳紀」の「詔」については「八世紀」時点における多大な「潤色」と「改定」が為されたものであるとする見解が多数であり、このことからこの「孝徳」時点で「御宇」という「用語法」が行われていたとは考えにくく、「治天下」という「地の文」の用語法が正しく時代を反映していると考えられます。
 また、「飛鳥浄御原律令」は『大宝令』が「准正」としたと「続日本紀」にも書かれているように『大宝令』とほぼ同内容と考えられ、『大宝令』以降に「御宇」の例が見られることは即ち「飛鳥浄御原律令」時点で「御宇」という使用法が発生したと考えられますが、そう考えると、「持統」の「詔」に「治天下」という表現が使用されているのは「不審」と考えられることとなります。

 これらの事はこの「六八九年」の「新羅弔使」である「金道那」記事の真偽について「疑い」を生じさせるものであり、この記事については年次が移動されている可能性を感じさせます。これは「正木氏」のいわゆる「三十四年のズレ」の対象記事であるという可能性があるのではないでしょうか。(「日本書紀の白村江以降に見られる『三十四年遡上り現象』について」古田史学会報七十七号及びそれに続く関連の論文をご参照願います)
 つまり、この記事は「三十四年移動」の対象として考えられている本来「孝徳」の「葬儀記事」であったものに続く「一連」のものではないかと考えられます。(ただし「正木氏」はこの記事については「移動対象」とは考えておられないようですが)

『書紀』によれば「天武天皇」は「朱鳥元年」(六八六年)九月に亡くなっています。
 そして、明けてすぐの「持統元年(六八七年)正月」に盛大な「誄礼」の儀が行われています。さらに、一年後の「持統二年」(六八八年)正月には「殯宮参り」が行われており、これは「一周忌」の儀式であったものと考えられるものです。
 このように「通常」の理解の範囲内の「葬儀関連」記事の他に「六八九年」の「葬儀」的儀式の記事があるのであり、この記事の存在は「不審」であると理解された「正木氏」により「三十四年遡上」という『書紀』に対する研究が発生したわけです。
 この「不審」はこの「新羅」からの「弔使」についても言えるのではないでしょうか。
 記事の流れから見ても「三十四年遡上」と考えられる「葬儀記事」と、この「新羅」からの「弔使派遣」とそれに対する「詔」という記事は一連のものであり、「葬儀記事」と同様、本来「孝徳紀」段階の記事であったものが移動させられているのではないかと推測されます。
 つまり、「田中法麻呂」が派遣されたのは実は「天武」ではなく「孝徳」の時代の「倭国王」の「崩御」を知らせるものだったのではないかと思料されるわけです。(「三十四年遡上」と考えると、「孝徳死去」の年月と「田中法麻呂」の派遣年月が齟齬するので、これは「孝徳」に対するものではないと判断できます。)

 『書紀』によれば「六四六年」に「遣新羅使」(「高向玄理」が代表か)が送られており、それに応え翌「六四七年」(常色改元の年です)「金春秋」が「来倭」しているとされますが、この時の「金春秋」の肩書きは「大阿餐」であったとされます。他方「三国史記」によれば「六五〇年」の段階で「伊餐」であったようです。(以下の記事)

「(善徳王)十一年(六五〇年) 春正月 遣使大唐獻方物 秋七月 百濟王義慈大擧兵 攻取國西四十餘城 八月 又與高句麗謀 欲取党項城 以絶歸唐之路 王遣使 告急於太宗 是月 百濟將軍允忠 領兵攻拔大耶城 都督伊品釋 舍知竹竹・龍石等死之 冬 王將伐百濟 以報大耶之役 乃遣『伊餐』金春秋於高句麗」

 これらに従えば三年ほどで「大阿餐」から「伊餐」まで昇格したこととなりますが、どこかの時点で特進したという可能性もありますが、普通に考えれば毎年一ランクずつ昇格したこととなり、これは少々考えにくいものです。彼の死去時の年齢や出自から考えても「大阿餐」となったのはもっと以前の話ではなかったかと考えられ、『書紀』の記述には疑問を感じます。つまり「高向玄理」等が「遣新羅使」として送られた段階で既に「伊?」ないしはその直下の位階を得ていたのではないかと考えられるものであり、そうであれば、「昔在難波宮治天下天皇」の「喪之日」を「金春秋」が「奉勅」したというのは(少なくとも)「六四七年」付近以降「六五三年」までの間が最も考えられるものですが、こう考えると「根麻呂」が伝達した「詔」の内容に書かれている、「天武」の崩御を知らせる役目であったと考えられる「田中法麻呂」は、実際には「孝徳」ではなく、その時代の「倭国王」の崩御を知らせるものであったと考えられる事となりますが、そうなると必然的に「巨勢稻持等」がその「喪之日」を「新羅」に知らせた「昔在難波宮治天下天皇」とは代がずれることとなります。
 ではここでいう「昔在難波宮治天下天皇」とは「誰」を指すのか、というとそれは「利歌彌多仏利」を指すものではないかと推定されるわけです。
 彼の時代の「倭国王」以前の歴代の「倭国王」の中で、「難波」に関係している「直近」の人物というと、該当するのは年次的にも「利歌彌多仏利」になると考えられます。
 「二中歴」には「倭京」の項目のところに「難波天王寺聖徳造」とあり、この「聖徳」とは「利歌彌多仏利」を指すと考えられますから、彼は「難波」に関係した人物であったようです。(拙論『「国県制」と「六十六国分国」 −『常陸国風土記』に現れた「行政制度」の変遷との関連において」古田史学会報一〇八号及び一〇九号』でも「難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世」というのは「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の朝廷を指すという指摘をさせていただきました)
 「利歌彌多仏利」は「隋書?国伝」によれば「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされていますから、「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降「倭国王」であったと考えられ、「九州年号」では「六四七年」に「常色」に改元されていることから考えて、この年かその前年の「六四六年」に死去したものかと推察されます。
 この「詔」が「三十四年」前に出されたものと考えると、「喪使」が派遣された年次としても「翳餐(伊餐)」という「金春秋」の「位階」や「治天下」という表現などもその時代に合った大変似つかわしいものになると考えられます。

 また「詔」の中で「田中法麻呂」の派遣が「二年」と記され、それは「朱鳥二年」のこととする「正木氏」の研究(『「朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)」古田史学会報七十八号 二〇〇七年二月十日)があり、これは上で行った思惟進行と合致しないわけですが、それについては以下のように考えられます。
 「孝徳」の時代はまだ、「葬儀」と「即位」などの「吉凶」の行事が明確に分離していなかったと思われ、ある程度長い「服喪期間」をとった後に即位するなど、「吉凶」が分離されるのは「持統紀」以降(「飛鳥浄御原令」による)とする研究もあり(「田沼眞弓氏」「日・中喪葬儀礼の比較研究」 )、この「孝徳」の時代の「倭国王」の場合、死去後「殯」(もがり)が済んだ時点(「葬儀」の前)の時点で「即位」が行われ、その年を「新王元年」としたのではないでしょうか。(注一)
 そうすると「翌年」は「新王二年」と考えられるわけであり、『書紀』の記事では「天武」の死去した翌年「田中法麻呂」の発遣記事があり、この「発遣」を指して「詔」の中で「二年」と言っているわけですから、これは「六五三年」の「発遣」とされていたのが本来ではなかったかと推察されるものです。
 (このように「吉凶」が分離されずほぼ同時進行する例としては「崇峻」死去後翌月には「推古」が即位しているなどが代表的な「旧に類する」例と考えられます。これと同様のものであったのではないかと推測されるものです)

 ただし、このように想定した場合、当然「詔」の中の「近江宮治天下天皇」に関わる「一節」全体は「八世紀」の『書紀』編集段階での「潤色」・「付加」であると考えざるを得ません。
 「昔在難波宮治天下天皇」の「崩」を知らせた「巨勢稻持」は『書紀』に名前が出て来ませんし(似た名前はありますが)、「田中法麻呂」は上で見たようにタイミングがずれているように見えます。にも関わらず「近江宮治天下天皇」についてはその「弔使」の名前が「天智紀」の記載と見事に「合致」しています。
 他の部分がやや「齟齬」があることと、この部分だけが「整合」していることが全体としてアンバランスなものになっており、この事はこの部分が「潤色」であることを示唆するものでしょう。つまり、この部分は元々の「詔」には無かったのではないかと推量され、「持統紀」に記事を移動した際に「持統紀」に出された「詔」であることを「補強」するために行われた「偽装」と考えられるものです。

 以上により、この記事は「三十四年」遡上して「六五五年」に移動して考える方が合理的であると推測され、この「弔使」は「孝徳」の時代の「倭国王」の「葬儀」に関する「弔使」であると考えられます。そう考えると、この当時「難波」は「副都」であり、「首都」つまり「朝廷」は「筑紫」にあったと見られますから(難波副都説については「古賀達也氏」「前期難波宮は九州王朝の副都 −『古賀事務局長の洛中洛外日記』より転載」古田史学会報八十五号をご参照願います)、この「詔」の「天朝」というものが「筑紫朝廷」を指す用語として『書紀』では使用されている、という「仮定」(仮説)は、ここでも成立する可能性が高いのではないでしょうか。(注二)


結語
 前稿と併せ以下のように結論づけることができると思われます。
一.「大伴部の博麻」への「持統天皇」の「詔」に対する「解釈」により、「天朝」が「筑紫」の「朝廷」を指すと考えられること。
二.『書紀』内の他の「天朝」使用例においても、それが「諸国」の立場から見た「筑紫朝廷」を指すと考えられること。
三.「持統紀」の「天朝」の例については、記事の年次が移動されているらしいことが推測されることからやはり「筑紫朝廷」を指すと考えられること。

 以上「天朝」と「本朝」について考察しました。

(補論)
 このように「天朝」という語について推量したわけですが、また、別のこととしてこの語は『万葉集』に出てくる「遠乃朝庭」という呼称と関係があるのではないかと考えられます。
 「遠乃朝庭」も「離れた場所」にある「自分達が属していない(いなかった)」「倭国(筑紫)朝庭」を指す言葉であり、意味内容は一致していると考えられます。
 「天」という語は「遠」に通じているものと考えられ、「遠乃朝庭」の「漢語的表現」が「天朝」なのではないかと推察するものです。

(注)
一.この『「孝徳」の時代の倭国王』については、「新唐書」に出てくる「王代紀」に「永徽初」(六五〇年から二〜三年の範囲と思われます)に「白雉改元」と「即位」が同時であるように書かれ、その直後に「未幾死」とされた「孝徳」とされる人物が該当すると思われ、これは『書紀』に言う「孝徳」とは異なると思われますが、詳細は別稿とします。
二.なお、「持統」の詔の中には単に「朝」という表現も出てきます。これについても「天朝」という表現が本来ふさわしいものと考えられますが、この部分の構文が「朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠」というリズムを持った文体であるため、「修辞法」として「天朝」ではなく「朝」を使用したものと推測します。


参考資料
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系新装版『日本書紀』(文庫版)」 岩波書店
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
宇治谷孟訳「日本書紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
宇治谷孟訳「続日本紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
正木裕「日本書紀、白村江以降に見られる『三十四年遡上り現象』について」古田史学会報七十七号
正木裕「薩夜麻の『冤罪』I」古田史学会報八十一号
古賀達也氏「前期難波宮は九州王朝の副都 −「古賀事務局長の洛中洛外日記」より転載」古田史学会報八十五号
金富軾著 井上秀雄訳注「三国史記」東洋文庫「平凡社」
田沼眞弓「日・中喪葬儀礼の比較研究」 第二回「神道・日本文化と外来宗教思想研究会」報告 平成十五年十月三十一日
伊藤博校注『万葉集』角川文庫