(以下は「古田史学会報一一〇号」に掲載された拙論に「追加」と「修正」を加えたものであり、オリジナルそのままではありません。オリジナルの投稿日付は二〇一二年三月十四日。)
「無文銀銭」 − その成立と変遷 −
以下は「無文銀銭」がどのような経緯で造られ、また使用されたのかについての若干の考察を行うものです。
一.「無文銀銭」の製造とその改造の経緯
「無文銀銭」とは江戸時代(一七六一年)に現大阪市天王寺区にあたる「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所から「大量に」出土した事で知られる「銀銭」です。発見された当時は「無名銀銭」と言われていたようですが、その後「無文銀銭」と呼称されるようになったものです。
この銀銭については当初以下の『書紀』の「顯宗紀」にある「銀銭」記事と関連づけて考えられ、「貨幣」であるという認識を持たれていたようです。
「(顯宗)二(四八六年)年冬十月(中略)是時天下安平 民無徭役 ?比登稔 百姓殷富 稻斛銀錢一文 馬被野」
しかし、この記事自体の信憑性の問題や、「和同銭」に対する「感情的傾斜」が大きくなっていくと、「我が国最古の貨幣」の地位は「和同銭」に移ります。「無文銀銭」などについては、資料は収集されるものの著しく無視ないし軽視されていくようになります。それは「無文」であったことが大きな要因であったようです。
江戸末期に近づくにつれ「国学」が発展し、その影響を受け「我が国最古の貨幣が『無文』であるはずがない」という一種の「観念論」に陥るのです。このため、「無文銀銭」に関連する研究は著しく停滞していましたが、「一九四〇年」になって「六六八年創建」と伝えられる近江「崇福寺」(志我山寺)の塔心礎から出土するという事態に立ち至り、「無文銀銭」の実年代の一端が確定したことで、一気に研究が進展の機運をみせています。もっともその「製造年代」については、この「崇福寺」の創建年代を大きく遡るという考え方にはなっていないようであり、また今でも「厭勝銭」つまり「呪術的使用」にしか使用されていなかったという見解を持つ学者もおられるようです。(注一)
この「無文銀銭」ですが、表面にほとんど文字らしいものが書かれておらず、わずかに模様のようなものが時折確認される程度のもので、平均重量が約10g(弱)であり、これは「唐」時代に制定された重量制度の「一両」の約四分の一に非常に近いものです。
ただし、重量調節用と思われますが「銀」の「小片」がくっついているのがかなり多くあり、別基準で当初製造された後に、修正された形跡があります。「崇福寺」塔心礎からは12枚の「無文銀銭」が出土しましたが、その中にこの小片が剥落した状態のものがあることが確認されており、その重量がちょうど6.7グラムであることから、他についても「小片」を取り除くと同様の値になるものと推定され、これは「前漢」、「後漢」を通じて使われた重量単位の「銖」のちょうど十倍ほどとなるため、(つまり「五銖銭」の二倍の重さです)両者の間には密接な関係があるものと考えられます。
つまり「無文銀銭」は元々「五銖銭」との交換とか換算とかを考慮していたものと推察されるものです。
この「無文銀銭」はその形もやや不揃いであり、中央の穴も「無造作」な開け方であって、「中国貨幣」の伝統である「円形方孔」となっていないようですし、銀の塊を「叩いて延ばして」裁断加工して作られたとされていました。もしこれが正しければ「鋳型」から造ったものではないように見え、「大量生産」という貨幣の概念から外れていると推測されていたものです。しかも「無文」であり、誰が発行したものか不明という事は、「貨幣」の資格を疑わせるものであったと考えられます。
しかし、江戸時代など後代ではありますが「豆板銀」や「丁銀」等のいわゆる「秤量貨幣」としての「銀」が、(特に)「西日本」では使用されていた実績もあり(注二)、「無文銀銭」も同様の捉え方をすべきものと思料されます。
またその後の研究により実際には「銀銭」の表面には「叩いた跡」がなくまた「小片」がない状態を想定して寸法と推定比重から重量を推定すると、「崇福寺」から出土した「小片」が脱落した「無文銀銭」の重量にほぼ等しくなることが計算されています。これらのことは「無文銀銭」の製造方法の理解に一大転機を促すものと思料されます。
『書紀』には「天武紀」(六八三年の項)に「銀銭使用禁止令」がいったん出され、すぐ(三日後)引っ込めたことが書かれています。
「(天武十二年)夏四月戊午朔壬申詔曰『自今以後必用銅錢莫用銀錢』」
「(同年同月) 乙亥詔曰『用銀莫止』」
このように明確に「銀銭」の使用停止が書かれています。「銀銭」とあるのですから、「銀」で出来た「貨幣」を指しているわけで、銅銭以前に(この「銅銭」は「富本銭」と思料されますが)「無文銀銭」が貨幣として使用されていた何よりの証拠と言えるでしょう。
ただし、この「天武」の「詔」に出てくる「銀銭」と「銅銭」に関しては「和同銀銭」と「和同銅銭」であるという意見もありますが(「古田史学論者」の中では「浅野雄二氏」の議論(注三)など)、そのような、「天武朝」の貨幣が「和同銭」であるとみなす考えは「江戸時代」からある「古典的」とも言える立論でしたが、そのような考えは「富本銭」と「無文銀銭」について「流通貨幣」であるという認識が深まるにつれ、「富本銭」と「無文銀銭」をどう評価するかが曖昧にならざるを得ず、「論」として成立できなくなったものと理解されます。
最初に「無文銀銭」に注目したのは「青木昆陽」(サツマイモの研究で有名)で、「一七六一年」に「摂津天王寺真法院」から出土した「無文銀銭」を彼の著書(「国家金銀銭譜続集」)の中で紹介していますが、その中では「極印あり」と書かれています。「極印」とは「銀としての品質」を保証する「印」であり、このことは「誰か」により「品質保証」されていること示す「打刻」があったと言うことを意味することとなります。この「無文銀銭」を実見したという昆陽の目には「共通な印」がある、と判断しているわけです。実際「無文銀銭」に使用されている銀の純度は非常に高いものです(94.8%程度)。
また、出土する地層などから判断して、「ある程度古い」と判定される「無文銀銭」には「小片」が付いているものが多く、「新しい」と判定されるものには「小片」がないものが多い(ただし、「小片」がなくても「10グラム弱」ある)ようです。
つまり、このことから「無文銀銭」には「三つ」のバージョンがあるように考えられる事となります。
「一番目」は「小片」が付いているものについて、その「小片」が元々なかったと考えた場合の「6.7グラム」タイプ。
「二番目」はそれに「小片」がついた「10グラム」のタイプ。
さらに「三番目」として「小片」なしで「10グラム」あるタイプ。
これら各タイプの「無文銀銭」の存在は、「五銖銭」から「開通元宝」へ、という「隋」「唐」付近における中国の貨幣の変遷と、見事に合致していると考えられます。
「五銖銭」に対しては上の「一番目」のタイプが対応していると考えられますし、「小片」がついたタイプは「開通元宝」の五枚分の重量と「無文銀銭」二枚が同重量となり(あるいは十枚と四枚)、「換算」が容易になっています。さらに「三つ目」のタイプはそのままで同様の重量比になっています。
いずれも当時流通していた中国の銭貨との互換性、換算性を重視して造られていると考えられ、それはそのまま「無文銀銭」の製造の「時点」を示唆するものと考えられるものです。
つまり「一番目」のタイプについては、「初唐」(六二一年)の「開元通宝」鋳造「以前」の時期の製造と考えられ、これは「隋代」から「初唐」という時代にまだ製造・流通していた「五銖銭」との互換性を考慮して造られたものであり、「本来」の「無文銀銭」の姿であると思料するものです。
「二番目」のタイプはその製造(改造)時期が「開元通宝」鋳造直後の「初唐」の時代であることを示唆するものと考えられます。つまり、「五銖銭」から「開元通寶」へと「互換」対象貨幣を「修正」するために「小片」を貼り付けて「緊急対応した」という風情が感じられるものです。
通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿という解説が良く見受けられますが、(注四)「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とは「正常」な感覚ではとても思えません。
たとえばこの「小片」が付いている状態でもその重量にはかなり「ばらつき」があるわけで、「小片」がついた状態の重量としては8.2−11.2グラム程度の範囲と確認されており、これは「揃っている」とは言い難いと思われます。この程度であれば、わざわざ「小片」を付加する意義が見いだせません。「小片」がない状態であれば「ばらつき」はあるが、「小片」を付加することにより「均一化」がなされているのであれば、当初製造過程の一環とも考えられますが、そうとは考えられないわけですから、そうであれぱ「当初」から「小片」がついていたはずがないと考えられ、「小片」は「後」から付加されたものであり、「当初」の基準重量から「別の」基準重量への「概数的移行」(一斉移行)という機能があったものと思料されるものです。
「三番目」のタイプはその後「正式」に「開元通宝」に対応するためのものと推定されるわけであり、これは「初唐」からかなり下った時期が想定されます。
この「小片」がないタイプについては、その出土する地点の状況から見て、「八世紀」に入ってからのものではないかと推量され、「平城京」完成時点付近かと考えられるものです。
そして、発見される「無文銀銭」の多くに「小片」がついている、という事は「初唐」以降にはこの「無文銀銭」が余り製造されなかった事を意味するものと考えられ、それは「唐」との関係悪化という時代背景を裏付けるものと推定されるものです。このことは「小片」が付加されたタイプについては、その製造時期の「下限」は遅くとも「六三一年」(唐使「高表仁」との争い以降国交が途絶した時点)の「以前」であることを推察させるものです。また、少なくとも「銀」の入手ルートの点から考えて、半島の「新羅」と関係が悪化し、また「百済」が滅亡する時点である「六六〇年以前」に倭国に入った「銀材料」によるものがほとんどであると考えられます。
この「銀」の産地から見ても「国内」には「初唐」時点付近ではこの当時見あたらず、半島からの入手であったと考えられ、「百済」と友好関係があった時期に、「百済」を通じて「銀」を入手していたものと考えられますが、他方「高句麗」に「銀山」という城があったことが「三国史記」にも書かれており、「銀」の産地としては「高句麗」からの入手という考え方も有力であるとは考えられますが、この点についてはまだ不明の部分があります。
後の「和同銀銭」については、含有されている「鉛」の成分分析により「朝鮮半島産」ではないかと推定されており、(注五)この「和同銀銭」が「無文銀銭」を「鋳つぶした」ものという可能性が考えられ、「無文銀銭」についても「朝鮮半島産」である可能性が高いことが推定されています。
また、「近江崇福寺」の創建時点の「六六八年」時点程度が「無文銀銭」の製造年次の「下限」という考えもあるようですが、それでは前述したような「小片」をわざわざ「付加」している状況が説明できないと考えられ、「五銖銭」から「開元通宝」へ基準貨幣を切替えざるを得ない理由と動機が、この年次付近には見出せないわけであり、そのような仮定や推定が無効であることを示していると思われます。(注六)
この「無文銀銭」は、当時(七世紀初め)という時代背景から考えて、「唐」と「交易」を始めるという事を目論んで「遣唐使」を送り、「高額」な品々を入手して「市」を開きそれを国内に売りさばこうとしたものと考えられ、このときの「物品購入」に充てるために製造されたのが「無文銀銭」ではなかったかと考えられるところです。
「無文銀銭」に関する従来の説の中にもこれを「海外貿易や大取引に用いられた高額貨幣」とする考え方もあり(注七)、このような「市」の際の物資購入などがその典型であったと考えられます。
言ってみれば「無文銀銭」は「現代」における「高額紙幣」である「五千円」や「一万円」の役割をしていたものと考えられるわけです。(もっとも「紙幣」は「名目貨幣」であり「実勢」に応じて取引される「銀」とは事情が違いますが、相場が安定している限りにおいては「銀」を中心に据えた取引は一番確実であったと考えられます。)
この当時の銭貨には「麻」や「ワラ」に通された(「銭さし」といいます)大量の貨幣(銅銭)を見ることがあります(百枚単位など)。このように「銅銭」は価値が低いため、大量に使用する用途がほとんどであったと考えられる訳ですが、それに対して「無文銀銭」の中央の「穴」は非常に小さく、(中央の穴径は2ミリメートル前後と計測されています)これでは「紐」と言うより「糸」を通すようなことしかできないと思われ、強度がないと思われます。つまり、「銀銭」についてはそもそもそのような「銭さし」に差して使用するような用途を想定していないため、「中心の穴」が小さいのだと思われます。(これについては製造工程上のものかと推察されます)
そのため「無文銀銭」は「枚」という単位で使用されたと考えられています。これは大量使用を前提としてはいない呼称であり、その意味でも「現代」の「高額紙幣」と同じ使用状況が想定されるものです。
「倭国王権」(当時の倭国王は「利歌彌多仏利」と推定されます)はこの「交易」に際して、その前に派遣した「遣隋使」からの知識として「中国」(「隋」)ではまだ「五銖銭」を使用していると知り、それを基準貨幣と想定して「銀銭」を製造し、これを購入に充てたものではないかと思慮します。
これらのことから考えて、この「無文銀銭」(上に挙げた一番のバリエ−ション)が製造されたのは「初唐」の頃と思慮され、「二中歴」に言う「倭京」改元の翌年の「天王寺」が難波にできた(移築した)年である「六一九年」という年次付近が有力と推定されるものです。
その後数年して「開元通寶」が造られたため、すでに製造していた当初タイプの処理に困った倭国王権は「小片」を貼り付けて「重量」増加させ、「基準貨幣」を「五銖銭」から「開元通寶」へ切り替えたものと推定されます。この事は「無文銀銭」がまさに「秤量貨幣」(重さで価値を決める)であったことを如実に示すものと考えられ、「無文」である理由もそこにあるものと思料されるものです。
二.「無文銀銭」の流通の状況とそれに対する「新日本国王権」の対応について
「無文銀銭」が発見されているのはほぼ「近畿」に限定されています。最初に「無文銀銭」が発見されたのは「摂津天王寺真寶院」からでしたし、しかも一〇〇枚とも言われる大量のものでした。それ以後も「一九四〇年」になってから近江「崇福寺」(志我山寺)の塔心礎から出土するなど「近畿」とその周辺に「集中的」に出土しています。
もしこれが「近畿」から遠いところで鋳造されたのなら(たとえば「筑紫」など)、「近畿」だけではなく、もっと「九州」を中心に広範囲に発見されてしかるべきでしょう。そうではないのですから、「無文銀銭」は発見地を含む地域である「近畿」で製造されたと考えるのが正しいと思われます。
最初に発見され、また大量であったのが「難波天王寺村」であることは、この地で製造されたことを伺わせるものです。
この「天王寺」周辺は、その「天王寺」が「阿毎多利思北孤」の創建に関わる寺院と考えられるものであり、またその後(六一九年)「二中歴」に「難波天王寺聖徳造」という記事があることからも推察されるように「利歌彌多仏利」により「現在地」に移築されたものと考えられているわけでもあり、「九州倭国王朝」の直轄的地域であったと考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」製造が「倭国王権」の意志として行われたものであることを示唆しているものと考えられます。
そもそも、このような「銭貨」の発行は(特に古代においては)「国家統治権」を「象徴する行為」と考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」発行が「王権」の意志として行われたと考えるのは当然であると思われます。
「難波」は上で見たように「利歌彌多仏利」の拠点とも言うべき場所であったと推察されますので、彼が「唐」などと「交易」を行うために製造したものが「無文銀銭」であったと推量するものです。(注八)
この「無文銀銭」はその後も「市中」に出回り、それに対し「富本銭」とそれに続く「和同銭」により「取って代わる」試みが続けられたようですが(注九)、「八世紀」に入って「銀銭禁止令」が出ることとなります。
「続日本紀」「和銅二年(七〇九年)八月甲申朔乙酉 廢銀錢 一行銅錢」
この「詔」は「天武紀」の「銀銭使用禁止令」を彷彿とさせるものです(その時は三日で撤回します)。
「天武紀」の場合の「銀銭使用禁止令」は「銅銭」(この場合「富本銭」と思われます)と「無文銀銭」の「等価交換」を試みた事を意味すると推定され、それと同様この「和銅年間」でも「和同銅銭」と「無文銀銭」の「等価交換」を試みたものと推察します。そして、それは「新王朝」としての「新貨幣」を流通させようという意図と共に「無文銀銭」を国家に回収しようという試みでもあったと推量します。
そのためにまず「古和同銀銭」を鋳造しており、これを「無文銀銭」と「等価交換」させようと試みたものでしょう。(「和同銀銭」の方がやや軽いため、これも「一対一」というわけには行かなかったと思われます)
この「古和同銀銭」が「無文銀銭」よりも軽い(七割程度)なのは「古和同銅銭」と元々同じ「鋳型」から鋳出したものであったからであり、「古和同銅銭」は「唐」の「開元通寶」と同じ規格(大きさと重量)であり、「鋳型」はそれを目的として造られたものであったからです。この中に「銀」を流し込んでも「無文銀銭」とは当然重量が異なることとなります。つまり「古和同銀銭」の重量は「計算」されたものではないと推察されます。これは「古和同銅銭」の鋳型を使用したことから「結果的」に出現した重量と考えられるものです。
そして、この「古和同銀銭」鋳造を「ステップ」として、同じ文様である「古和同銅銭」も同様の「等価交換」の試みを行ったものと推察します。(もちろんうまく行くわけもありませんが)
「天武紀」の等価交換の試みが失敗したのはいきなり「銅銭」との間で試みたからだと思ったのかも知れません。そのため「間」に「古和同銀銭」という「銀銭」を挟んでいるのだと思われます。
そして、その後(七一一年)になって「銅銭」と「穀」の取引レートを設定します。
「和銅四年(七一一年)五月己未。以穀六升當錢一文。令百姓交關各得其利。」
この「記事」は「銀銭使用禁止」を出した政策の「継承」として位置づけられるもので、「流通」の主役を「銅銭」に移行させるために「国家」として「銅銭」の位置づけを行なったものと見られます。
そして、結局そのような「工夫」も「無駄」であることが理解されるまで更に年数を費やすこととなったものと思料します。
「廃銀銭」令が出た後でも、「銀」(無文銀銭)は取引の主役として「市中」に流通し、しかも「銅銭」とは明らかに価値が違うと市中では判断されたものと考えられ、当時の国家(新日本国王朝)は、その意のままに「貨幣価値」を制御することは非常に困難であることを実感し、その試みを放棄するのに若干時間を要したという事と考えられるものです。
そして、「七二一年」になって以下のルールができます。
「続日本紀」「養老五年(七二一年)春正月戊申朔(中略)丙子 令天下百姓 以銀錢一當銅錢廿五 以銀一兩當一百錢 行用之」
これは市中に出回っている「銀銭」の存在とその使用を追認し、「銅銭」との換算比率を設定した(認めた)もののようです。ここで設定したレートはこの時点で「公的」に認められたものであり、市中ではかなり以前よりこの程度のレートで流通していたものと考えられ、さらに「銀」が「強くなる」(「銅銭」が下落する)という形勢でもあったものでしょう。そのため、大幅な下落を食い止めるために「公定」レートを定めたと思われますが、結局食い止めることはできず、早くも翌年にはレートを大幅に変更したものを「公定」として認めざるを得なくなったものと思料します。
しかもこの文章からは、ここで言う「銀銭」が「無文銀銭」であることが判断できるものです。つまり、ここでは結局「銀銭」は一枚が「四分の一両」の「重量」がある、といっていることとなり、この基準に合致するのは「無文銀銭」の方であって「和同銀銭」ではありません。ここでいう「両」が「唐制」の「両」であるのは間違いないと思われ、前述したように「無文銀銭」は「小片」付きで約10グラムあり、「唐」の「一両」である「約38グラム」の四分の一に非常に近いものであるのに対して、重量がかなり重いとされる「古和同銀銭」の初期タイプでさえもせいぜい7グラム弱ですから、これは「銀銭一枚が四分の一両である」、という上の文章に合致しないのです。
つまり、この時期に至ってもなお、「流通貨幣」としての主役は「無文銀銭」であったという事と考えられ、この「銀銭」が広く行き渡っていたことが知られます。
このように「七二一年」に「一両百銭」という公定レートを発表したもののその後さらに「銅銭」の実勢価値が下落したようです。そのため再度「(無文)銀銭」と「新和同銅銭」の交換比率を変更し「銀一両に対し銭二百銭」として前年の二分の一に下げざるを得なくなるのです。(これについては「浅野氏」の言うように新「度量衡」制度を本格的に導入した結果起きた「銅銭」についての一種の「インフレ」と考えられます)(注十)
「続日本紀」「養老六年(七二二年)二月壬申朔戊戌 詔曰 『市頭交易,元來定價 關市令十二市司准貨物時價為三等 關市令十三官與私交關以物為價者准中估價 比日以後多不如法因茲本源欲斷 則有廢業之家末流無禁 則有姦非之侶更量用錢之便宜欲得百姓之潤利 「其用二百錢當一兩銀.」(以下略)』」
そして、このように「銅」の実勢が下がっていくに連れ、「銀」の価値が相対的に上がった結果となり、「銀」は「流通貨幣」と言うより文字通り「貴金属」となったと考えられます。「貴金属」となれば、「財産の保全」というような用途の方が主たるものとなり、各自の家の「金庫」から出る機会は激減するでしょう。このようにして、「無文銀銭」は姿を消していったと考えられます。
ところで「冒頭」に示した「顯宗記」の「銀銭記事」については、その中で「稻斛銀錢一文」とあり、この「取引レート」については『書紀』編纂時のものという指摘もあります。それに関連して考えるべきものとして先の「穀」と「銅銭」との「取引」レート設定記事があります。
この二つの記事は「時代」が異なりますが、いずれも「穀」(斛)と「貨幣」の交換レートを示しており、「稲」を通じて「銀銭」と「銅銭」の換算が可能です。計算してみると、「銀銭」と「銅銭」との交換率は「1対16.6」となります。この交換率は「七二一年」に出された「銀銭一枚で銅銭二十五枚」というレートよりわずかに「銅銭」が強い状態を示しています。この「銅銭」と「斛」の交換レートを設定した年次が、「銅銭」の価値が悪化する契機となった「度量衡制度」を変更した年次である「七一三年」よりも以前であることを考えると、ある意味妥当な数字とも考えられますが、(注十一)この二つの記事が「二〇〇年以上」も時代が違う事を考えると、この間で「銀銭」の価値に余り変化がないとは考えられず、はなはだ「不審」であるとも思われるものです。
上で見たようにこの間には「対外戦争」「内乱」「銀原料の枯渇」等々多種多様な状況の変化があったわけであり、それにも拘わらず「銀」の価値にあまり変化がないとは考えられません。
この「顯宗紀」記事が事実であるなら、それ以降「銀相場」はかなり上昇したものと考えられ、そう考えると先の交換比率は(銀相場の上昇前ですから)もっと小さくなるものと考えられます。
このことはこの「顯宗紀」記事が「和銅年間」記事と余り違わない時代に「潤色」・「追加」されたものという可能性を考える必要があるという事になります。
ちなみに、「七二一年」の「交換レート」が「無文銀銭」との交換を想定していることが明らかになったことで、この「顯宗紀」記事の「銀銭」も「無文銀銭」を意味すると考えるべきであることが確定したように思えます。
江戸時代以来の「銭貨研究」は、「無文銀銭」(及び「富本銭」)の扱いに苦慮し、考古学的発掘の成果により「無文銀銭」と「富本銭」が「銭貨」であり、流通していた、と言う視点が獲得される現代まで(一部の研究者はいまだに)、「貨幣」としての正当な位置を与えずに来ていたわけです。
この最大の原因は日本列島において「古代国家」といえるものが唯一「近畿天皇家」だけであったという「幻想」に引きずられたためであり、「和同銭」発行以前の「国家観」の形成が「不完全」であったためと思料されるものです。
これら「無文銀銭」と「富本銭」という「和同銭」以前の「銭貨」については、「近畿天皇家」以外の、「近畿天皇家」に先在する「公権力」を想定することによって初めて整合的な理解が可能であると考えられるものです。
結語
一.「無文銀銭」は「初唐」の頃に造られたものであり、当初は「五銖銭」との互換性を考慮したものですが、その後「開元通宝」が鋳造された以降については、「小片」を「付加」して「開元通宝」と互換性を保つために重量を合わせる改造をおこなったものであること。それを製造させたのは「利歌彌多仏利」であると考えられること。彼は難波を拠点として交易を行おうとしていたと考えられること。
二.その後「無文銀銭」は「富本銭」「和同銭」にその流通の主役の座を奪われようとされますが、それら「銅銭」に対する一般大衆の不支持により「銀」の使用(流通)が継続されていたと推定されること。新「度量衡」制度の導入により「銅銭」のインフレが発生し、銀は「流通量」が激減したと考えられること。
「顯宗紀」の記事は「八世紀」に入ってからの「潤色」と考えられること。
以上について述べました。
(注)
(一)東野治之氏などがその代表と思われます。
(二)村上隆「金・銀・銅の日本史」岩波新書によります。
(三)浅野雄二「古代貨幣研究」報告 古代に真実を求めて第三集所収及び同氏「鋳銭司と古代の銅 −和同開珎の謎−」古田史学会報三十九号などで主張されています。
(四)今村啓爾「富本銭と謎の銀銭」小学館などによります。
(五)現在までに「出雲」から出土した「和同銀銭」の一枚だけが、その含有している鉛の同位体測定が行われ、その結果は「朝鮮半島産」であるという事となっています。
(六)「六七二年」に「唐将」「郭務?」に対して多量の「布、絹(ふとぎぬ)、綿」などを提供していますが(その理由は不明ですが、推測すると「白村江の戦い」などに対する「賠償」の性格があったものかと思われます)、これを市中から買い付けたとすると「かなり」の量の「銀」を消費したと考えられます。
「天武元年(六七二年)夏五月辛卯朔壬寅 以甲冑弓矢賜郭務?等.
是日賜郭務?等物總合?一千六百起時三匹 布二千八百五十二端 綿六百六十六斤.」
ここではかなり大量の物品が「郭務?」に贈られているのがわかります。「一反」がおよそ「一着分」と仮定すると上記「下賜品」は「太絹」(余り上質でないとされる絹製品)が約三千二百人分、「布」(綿布)が約二千八百人分となり、これは「筑紫」に送られてきた「唐」の軍隊(『書紀』によれば「二千人が二回」)の人数にほぼ相当すると考えられ、「筑紫」に駐留していた「唐軍」に対する「衣料支給」であったと考えられます。
そして、この支払いに大量の「銀」を消費したと推定されるものです。
「八世紀」のデータになりますが、「平城宮」から発掘された木簡等から推定して「あしぎぬ(=太絹)」十尺で「二十六文」とされています。「絹布」では長さ三丈(三十尺)を「一反」とし、「一匹(疋)」が「二反」とされていますので、これをそのまま適用してみると、この「賠償」の際の「太絹」を市中から調達した場合「二十六万一千文」の銅銭に相当すると考えられ、これを当時の銀銭への換算率として仮に「銀銭一に対し銅銭二十五」(「続日本紀」に出てくる換算率)を適用すると「一万四百枚余り」の銀銭が必要だったと計算できます。「無文銀銭」一枚が10グラムですから、これによれば「銀」の「インゴット(固まり)」で「100キログラム以上」という巨大な数字になります。これは「八世紀」の数字を根拠に算出しており、この時点の「実勢」としては交換レートはもう少し良かったかも知れませんがいずれにしろかなり大量の銀の消費となったものと思料されます。さらに、これに加え「布」も「綿」もあるわけですから、この支払いも併せると「倭国王朝」の「国庫」は払底したのではないかと推定されます。
ただし、この時は「開元通宝」との換算を考慮する必要のない「国内取引」ですから、「小片」をここで付加する動機とはならないと思われます。
(七)「孫引き」になりますが、「松村恵司氏」の「日本初期貨幣研究史略:和同開珎と富本銭・無文銀銭の評価をめぐって」日本銀行金融研究所/金融研究/二〇〇五年三月では、「嵯峨正作」の「中古通貨考証要略」の中で「無文銀銭」について、「国際間の交易や海外渡航費用、大型商取引に『貴金属貨幣』が用いられた」と書かれている、とされ、そのことについて「松村氏」は「注目される」とし「重要」であると論評していますが、「無文銀銭」の用途について重要な示唆を含んでいると考えられ、「小片」のない「無文銀銭」が「八世紀」に入ってから作られた理由についても同様の趣旨であったのではないかと推測され、遣唐使達が「唐」で書籍等を購入する際の「原資」として使用する目的であったのではないかと推測するものです。
(八)謡曲「岩船」のストーリーは、「唐」などと交易を行うために「君」が「摂津難波」に「市」を開き、そこへ「高価な品々」を満載した「岩船(宝船)」が「龍神」に守護されやって来る、というものですが、これについてはその時代状況などから、「君」とは「利歌彌多仏利」を指し、この「市」のため「唐」から物品を買い付けるために製造されたものが「無文銀銭」であると考えるものですが、詳細は別稿とします。
(九)「私見」では「富本銭」は「無文銀銭」と同様「倭国九州王朝」の「貨幣」と考えられ、「和同銭」は「近畿王権」が「政権」の座についた以降の鋳造と考えていますが、詳細は別稿で述べたいと思います。
(十)「私見」では、この「度量衡」制度は「倭国」(というより「筑紫」を中心とした元の「畿内」)ではすでに導入されていたものと考えられ、ここでの「度量衡」制度の変更は、「唐制」に合わせたものではなく、実は「倭国」の「制度」をここで「全国」(天下諸國)に適用したものと考えていますが、詳細は別稿とします。
(十一)(参考)
「(和銅)六年(七一三年)二月甲午朔。(中略)壬子。始制度量調庸義倉等類五條事。語具別格。」
「(同年)五月戊申。頒下新格并權衡度量於天下諸國。」
参考資料
(注)に書かれた資料の他、以下を参考とさせていただきました。(敬称略)
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
宇治谷孟訳「日本書紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
宇治谷孟訳「続日本紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復原」「新・古代学」古田武彦とともに 第五集二〇〇一年 新泉社
「古代貨幣研究・報告集」「古代に真実を求めて」第三集所収 明石書店
青木昆陽「国家金銀銭譜続集」ベルリン図書館デジタルライブラリー(画像ファイルとして閲覧コピーが出来ます)http://digital.staatsbibliothek-berlin.de/dms/werkansicht/?PPN=PPN3303601348&DMDID=DMDLOG_0000