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「百済禰軍墓誌」について


(「古田史学会報一一一号」に採用・掲載されたものです。投稿日付は二〇一二年三月十四日。)

「百済禰軍墓誌」について −「劉徳高」らの来倭との関連において−

「二〇一一年」に「中国」で「百済禰軍」の「墓誌」というものが(「拓本」が)発見されました(注一)。以下はその「墓誌」についての若干の考察です。
 

一.「百済禰軍の墓誌」からの考察

 「百済禰軍」とは『書紀』に登場する人物であり、元「百済」の人物であったと考えられますが、「百済」滅亡後「唐」側の立場で「熊津都督府」に所在して行動していたようです。
 彼は「百済」において「佐平」という位階を持っていたと「墓誌」に書かれていますが、「六六〇年」「唐」「新羅」の連合軍により「百済王」達が捕虜になった際に一緒に投降したものと考えられ、その後「唐」側の人物として活躍していたものと考えられます。
 また彼は「三国史記」中にも出てきます。それによれば「司馬禰軍」は「文武王十年」(六七〇年)に「熊津都督府」から「新羅」に派遣された人物であり、「文武王」によりそのまま「新羅」に「留められ」ていたものです。
  「百済禰軍」とは『書紀』と「三国史記」に登場する人物であり、元「百済」の人物であったと考えられますが、「百済」滅亡後「唐」側の立場で「熊津都督府」に所在して行動していたようです。
 彼は「百済」において「佐平」という位階を持っていたと「墓誌」に書かれていますが、「六六〇年」「唐」「新羅」の連合軍により「百済王」達が捕虜になった際に一緒に投降したものと考えられ、その後「唐」側の人物として活躍していたものと考えられます。
 また彼は「三国史記」中にも出てきます。それによれば「司馬禰軍」は「文武王十年」(六七〇年)に「熊津都督府」から「新羅」に派遣された人物であり、「文武王」によりそのまま「新羅」に「留められ」ていたもので、つまり、一種の「人質」(ないしは「捕虜」)のように扱われていたものです。それは「熊津都督府」と「新羅」の「利害」が対立するようになっていたからであり、旧「百済」の勢力と「唐」が(「熊津都督府」が)「結託」しているように見えたからでしょう。
 その後「文武王十二年」(六七二年)になり、「新羅」と「唐」が本格的に戦闘状態に入るなど「不和」が拡大し、「唐」から「罪」を問われることとなったため、「文武王」は「謝罪」のためもあり、「熊津都督府」の要人達を「唐」へ送還していますが、これらの中にこの「司馬禰軍」がいます。
 
 今回発見された「墓誌」については、その中に「日本」という国号が見られ、そのことについての議論が多く起きているようです。また「僭帝」という人物も見え、それらについても関心が持たれていますが、それとは別に気になる部分があります。それについて述べたいと思います。

@「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金?子之入漢(二文字空け)(注二)聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛?川府折沖都尉。」
A「于時日夲餘? 拠扶桑以逋誅 風谷遺? 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原?而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
B「公q臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/?凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬。

@については、これは「顕慶五年」(六六〇年)という年次の表記から考えても、「百済」滅亡の時のことを記したものと考えられます。

「(旧唐書百済伝)顯慶五年、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。」

 また、ここでは「金?子」の故事(注三)を踏まえた文章となっているようであり、自分を「金?子」(金日?)になぞらえていると考えられます。(彼のように「奴隷」まで身を落としたかは不明ですが)
 そして、この文章の直後のAについて細かく見てみると、「餘?」といい「遺?」というような「用語」を使用していますから、これらはいずれも「主君」や「指導者」がいなくなった後の「残存勢力」、という捉え方であることが分かります。そして、その文章の中には「拠『扶桑』」といい「負『盤桃』」と言い方を使用していますが、いずれも「伝説」の地であり、「東の果て、日の出るところの地」であるとされている場所のことです。そこに「残存勢力」は隠れているというわけです。
 この文章から受けるニュアンスとしては、それが「近畿」であれ、「筑紫」であれ、「本来の首都に倭国王がいる」とすると似つかわしくない表現であると考えられ、「本来の首都ではない地域」に「残存勢力」が移動(逃亡)しているというように受け取られるものです。
 ところで、「海東諸国記」によれば「六六一年」に「近江」へ遷都したこととなっています。しかし『書紀』によればそれは「六六八年」のことであったとされており、大きく食い違っています。
 「倭国中枢」が本拠(首都)にいるのであるなら、この「墓誌」にあるような「逋誅」(罰から「逃げている」)という表現や「居扶桑」という表現は似つかわしくないと考えられます。
 つまり、この時にはすでに「扶桑」(日の出るところと中国から思われていた場所)にいたことを示すものと考えられ、「扶桑」が「日の出るところに近い東方の地」を意味するわけですから、「近江」遷都がこの時点「以前」に行なわれたことを強く示唆するものであり、「海東諸国記」の言う「六六一年遷都」という考え方が正しいことを意味するものでしょう。
 逆に言うとそれ以前はかなり「半島」に近い地域(たとえば「九州」)に「都域」があったことを示唆しているようです。
 
 さらにそれに引き続き、「萬騎亘野,與蓋馬以驚塵;千艘横波,援原?而縦濔。」という文章が続きますが、この部分は、「萬騎」と「千艘」、「與」と「援」、「蓋馬」と「原?」、「驚塵」と「縦濔」というように全てが見事な対句構成の「四六駢儷文」となっています。
 ここでは「萬騎野に亘り」と「千の船が波に横たわり」とが対応していると考えられ、また「蓋馬」が「蓋馬山」や「蓋馬高原」という土地の名前に関連していると考えられ、これが「高句麗の地」(朝鮮半島北部の高原地帯)を指すものと考えられることから、その前の「萬騎」が「亘った」という「野」もまた「高句麗の地」を指すと考えられます。
 そして、下の句の「千艘」以下は「三国史記」に「倭船」が「千艘」いたと書かれた「白村江の戦い」を想起させるものであり、「百済」の地での出来事をさすと考えられるものです。
 ここでは総じて「半島」の出来事について書いていると思われるものです。

 ところで、ここまでの文章の流れは『書紀』や「旧唐書」に書かれている事と少し異なっていると思われます。
 『書紀』や「旧唐書」などで、戦いの当事者はあくまでも「唐」「新羅」対「百済」(+高句麗)であったと思われることとに対して、この「墓誌」の文章を素直に理解すると、「唐」は「百済」が滅びた段階ですぐに「倭国」に対し「残存勢力」の追求をしようとしているように見えます。
 このことから「実際」には「六六〇年八月」とされる「百済滅亡」の戦いの時点ですでに「倭国」は軍を派遣しているのではないか、という疑いが生じます。
 つまり、「百済」と「倭国」は最初から連合してこの「戦い」に臨んだのではないかと考えられるものです。

 『書紀』によれば「救援軍派遣」は「百済滅亡」の一年後である「六六一年八月」であり、また「倭国」に「人質」となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えるべく派遣したのが翌九月とされています。
 しかし、この記事自体がすでに「旧唐書」や『資治通鑑』とも食い違っていると考えられるのです。

『資治通鑑』
「龍朔元年(六六一年)(辛酉)三月初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎭守百濟府城,又以左衞中郎將王文度爲熊津都督,撫其餘衆。文度濟海而卒,百濟僧道探、故將福信聚衆據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。」

 これによれば「三月初」という区切りの書き方で旧「百済」の将である「鬼室福信」などが「扶余豊」を王に迎えて、百済に居残っていた唐の将軍「劉仁願」の城を包囲したと書かれています。
 このことは上に挙げた『書紀』の「六六一年九月」の「扶余豊」帰国記事と大きく食い違うものです。
 従来の考え方では、滅亡した百済の残存勢力の代表である「鬼室福信」から「百済再興」の計画を持ちかけられ、「倭国」に人質となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えることとして、軍を添えて送ったのが「六六一年九月」のことであり、この時点以降、「唐」「新羅」と戦いになったというように理解されてきましたが、この墓誌によれば(資治通鑑によっても)異なっていることとなります。

 そもそも「百済」滅亡という「緊急事態」に対して、すぐに行動せず、「一年後」の軍の派遣というのでは「遅きに失する」と思われます。「危急」の事態に対する対応として、はなはだ「不自然」ではないかと思われるわけです。
 また、「百済を救う役」という名称も「百済滅亡の瀬戸際」でこそ意味があると考えられ、すでに敗北し、国王、王子らが国外に連れ去られた後、「一年後」の軍の派遣に際しての命名としてはいささか「不審」と言うべきであり、「そぐわない」ものと考えられます。
 しかも「墓誌」ではすでに「餘?」といい「遺?」と言うとらえ方をしているわけですから、彼ら「日本」(倭国軍)の本来の指導的立場の人間は既に「いない」こととなってしまっていますから、すでに「倭国王」は「捕囚」となっていたことを示唆するものであり、「持統」の「大伴部博麻」への詔に言う「百済を救う役」で「唐軍」のために虜にされた、という中に「筑紫君薩夜麻」が居るのはまさに整合していると言えます。

 「墓誌」では、さらに「以公格謨海左,亀鏡瀛/東,特在簡帝,往尸招慰。」という文章につながるわけです。
 この中で使用されている用語はいずれも難解なものが多いのですが、推定すると「格謨」が高位の人が立てた計画のことをさすと考えられます。(ただし、「皇帝」ではないと考えられます。皇帝の場合は「聖謨」と言うようです。)
 また、「亀鏡」というのは、ものごとの善悪を図る基準になるものを言い、「瀛東」とは広い海の東のことの意から、「日本」のことのようですが、この場合はその前の「白村江の戦い」の描写と関連のある対句構成となっており、ここも「高句麗」および「百済」など「半島」諸国を意味すると考えられ、それらに関連する事柄について書いていると考えられます。
また、「往尸」は「死体」のことを意味すると考えられ、「特在簡(門構えの中が月)帝」の「簡帝」とは本来、「簡」が「選ぶ」という意味と考えられることから、「簡帝」とは「選ばれた」「帝」を指す言葉であり、「百済」の太子「扶余驕vのことではないかと考えられます。(彼は「唐皇帝」により「百済王」に「選ばれて」います)
 以上を含んで考えると、大略は以下の通りと思われます。

 「『公』(百済禰軍)は高位の官の計画により海を越え「半島」(百済)に来て、彼等に物事の基準となることを示しました。そして「太子驕vが「唐」により「百済国王」として選ばれ、戦いで亡くなった人たちの霊を慰めました。」

 また、Bについては大変難解ですが、この部分では再び「倭国」のことに戻っていると考えられます。「首望」は「酋望」に同じであり、蛮族の有力者の意であると思われます。つまり、「僭帝」は「臣」を称し(つまり投降し)、配下の将軍達数十名を「皇帝」の元に送ったとされています。そして「皇帝」は恩を以てこれに答えたというわけです。
この部分は一見すると「百済」の降伏の際のことと考えがちですが、それはすでに「冒頭」で触れており、ここに書かれている事はそれとは「年次」が異なると考えられるものです。

 そして「公q臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳」という部分は「公」つまり「百済禰軍」が「臣」としての「節」を「命」を投げ出しても達成する、という事を「詩経」の「載馳」になぞらえて「皇華」(皇帝)に「歌」ったという事を意味すると考えられます。
 ここでいう「載馳」は「亡国の嘆き」を歌った歌であり、(注四)「祖国」である「百済」を亡くした「百済禰軍」が今後は「唐」皇帝の臣下として命を投げ出す覚悟を示したものと推察されるものです。
 そして、上の文章に以下の文章が続きます。

「汎海之蒼鷹/?凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋」

これらの文章は「鳥」のように「使命」を帯びて「直ぐに」(時間を掛けずに)「倭国」に来たという事を意味していると考えられ、さらに「倭国王」を「説得」或いは「威嚇」して、「投降させた」と言うことを書いていると考えられます。
 彼は「百済」にいた際に「新羅」や「倭国」などの事情に明るかったものと推察され、「唐」側に立場が変わってからはその点を評価され「情報収集」と「折衝」を行うような職責にあったものと思慮されます。
 このような人物が「倭国」との「折衝」のために「派遣」されていたとしても不思議ではありません。

 この時の来倭記事とおぼしきものが『書紀』と「善隣国宝記」に引用する「海外国記」に出ています。
「天智紀」の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務宋」等が来倭したことが記されています。

「「天智三年」(六六四年)夏五月 戊申朔甲子 百濟鎮將劉仁願 遣朝散大夫郭務?等 進表函與獻物
冬十月 乙亥朔 宣發遣郭務?等敕
是日 中臣?臣遣沙門智祥 賜物於郭務?。
戊寅 饗賜郭務?等」

 この件に関しては「善隣国宝記」に引用された「海外国記」の情報の方が詳しいようであり、以下が記録されています。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務?等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務?等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 これによれば「この時の倭国」はこの使者を「唐皇帝」の使者ではない、として「門前払い」したとされています。

そして、『書紀』にはその翌年「劉徳高」の来倭記事があります。
記事をまとめて並べると以下のようになります。

「「天智四年」(六六五年)九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等 (等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍、朝散大夫上柱國郭務?)。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
十一月己巳朔辛巳。十三饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。
是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

これで見ると「劉徳高」の来倭に「郭務宋」と「百済禰軍」が同行しているのが分かります。また「海外国記」の「百済禰軍」の肩書きは「佐平」であり、翌年の『書紀』の記事によれば「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」となっています。実際には彼が「百済」が滅ぼされる前には「佐平」であったと思われますが、「唐」により「百済王」以下高位の官人達が捕囚となった際に、「唐皇帝」の前に送られた数十人の百済人の中の一人であったと考えられ、彼はこの時点で「墓誌」にあるように「右武衛?川府折沖都尉」という称号を貰ったものと思料され、両記事とも「墓誌」とは異なっています。
 また、「百済禰軍」の墓誌の文章からは、「当初」の「日夲餘?」「風谷遺?」という中から「僭帝」が発生したように見受けられ、これに対応するために「急遽」来倭したようにも考えられ、このような感覚で来ているとすると、そもそも最初の段階の来倭で「門前払い」を食わされて帰るものか疑わしいのと、そのような門前払いが出来るかどうかを考えると、この記事の「ソース」となった資料そのものに疑いが生じるものです。
 (つまり、後でも述べますが、この二つの記事は「同じ」年次の記事ではないかと推察されるものであり、「海外国記」の「四月」の項と「九月」の項の間に「劉徳高」が「対馬」に到着した「六六五年七月」記事が入るのではないでしょうか。)
 
 これに対して「倭国」側は、その対応を巡って紛糾したものと考えられますが、結局はこの戦いに対する「公式」な「謝罪」とそれなりのペナルティーを受け入れることとなったものと推量されます。それが「僭帝」以下の文章であると考えられるものです。
その「ペナルティー」とは「捕囚」の身である「薩耶麻」に対して「泰山封膳」に連行するというものであったと考えられ、「唐皇帝」に対し直接「謝罪」すべきとされたのではないでしょうか。


二.「天智紀」の一年ズレについて

 ところで、この時の「劉徳高」達は実は「泰山封禅」への参加命令も伝達に来たものと考えられ、それに応じて、「薩夜麻」本人とは別に「参列」するための人員を急遽派遣することとなったと考えられます。
 
 この「泰山封禅」は「六六六年正月」に実施する、という詔が出されたわけですが、それが出されたのは「六六四年七月」とされています。この月の「朔日」(一日)に出されたものですが、当然周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、多くの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したものと考えられます。
 当然倭国にも「来るはず」であり、それが「劉徳高」の来倭であったと考えられるのですが、その年次が「六六五年七月」というのでは、余りに遅すぎるのではないでしょうか。
 倭国のように海を隔てて「遠絶」した地域や、「西域」からも参加が考えられるわけですから、これらの国々に対しては「早期に」使者を派遣する必要があるはずですが、倭国への到着が「六六五年」では「高宗」が詔を発してから一年以上経過していることとなり、正に「遅きに失する」こととなってしまいます。直後の「十月」にはすでに「高宗」に従駕する行列が始まっていますから、全く間に合わないと思われます。

「天智称制四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「是歳」条記事であるものの、その記事配列から考えて「十二月」のことであったのではないかと考えられるものです。そう考えると、「守君大石等」達は「泰山封禅」の儀式そのものにさえ間に合ったかどうか疑わしいものです。このような「間に合わない」使節派遣などあり得るはずがありません。
「墓誌」に書かれた「首望」は「酋望」に同じであり、蛮族の有力者の意であると思われます。つまり、「僭帝」は「臣」を称し(つまり投降し)、配下の将軍達数十名を「皇帝」の元に送ったとされています。「守君大石」達はここでいう「首望」達であったと考えられるものであり、「将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩」とあるように「公」(百済禰軍)が「引率」して「皇帝」の元に連れて行ったものであり、(これは以下に見る「劉仁軌」により「倭国王」「耽羅国王」などを引率して「泰山」の麓まで連行した時点のことかと推定されます)
 そして「皇帝」は恩を以てこれに答え、さらに「公」に対し「功績」を認め「詔授左戎衛郎将」ということとなったと推定されるものです。

 この事は、「墓誌」の「百済戦」への「倭国」の介入の時点の件と併せ、この「天智紀」に「一年のずれ」があるのではないか、という疑いを生じさせるものです。
 そもそも「白村江の戦い」の年次について、「旧唐書」と「三国史記」では「六六二年九月」と考えられ、『資治通鑑』と『書紀』では「六六三年九月」となっており、「一年」ずれて書かれています。このどちらかが誤りであるわけですが、記事の内容を見ていくと『資治通鑑』には「不審」な点があります。それは「六六二年十二月」の条の記事です。

冬十月(中略)癸丑 詔以四年正月有事於泰山 仍以來年二月幸東都。
十二月戊申 詔以方討高麗 百濟 河北之民 勞於征役 其封泰山 幸東都並停。

 上の記事では「高麗」と「百済」を「討つ」よう「詔」を出したと書かれています。しかし、「高麗」も「百済」もすでに遠征軍が派遣され、「征討戦」が実施されています。「百済」に至っては「六六〇年八月」の段階で「国王以下主要メンバー」が投降し、「唐」の皇帝の面前まで連行されています。「六六二年十二月」になってからの「百済」を「討つ」という「詔」とは整合していないと考えられます。
 
 また「十月」に「泰山封禅」を行う、という詔が出ていますが、そうすることとした理由としては「白村江の戦い」で「百済」と「倭国」に打撃を与えたことで「東夷」が安定したと思ったことが大きな理由と考えられます。
 もし「東夷」がまだ「征伐」されておらず、「百済」残党も「高麗」も「倭国」も活発に活動し、「唐」遠征軍と激闘を繰り広げていて、遠征軍からは「勝利」の報告が来ていない段階で、「泰山封禅」を企図したとすると、そのこと自体がはなはだ不審なことと思慮されます。
「泰山封禅」は、後に実施に移された際の参加国も膨大なものであり、「唐」の力と権威を見せつける場にするつもりであるはずですが、「東夷」が平定されていないのであれば、東夷からは参加する国がない、と言う事になりかねません。(新羅は参加するでしょうが)そのようなことは逆に「唐」の権威に「傷」をつけることとなってしまいます。
 つまり、この段階で「泰山封禅」を企図した、と言う事は「東夷」が平定された、と「高宗」が判断したからに他ならなく、そうであれば「十二月」の条にある「詔以方討高麗 百濟」という一文の存在が「矛盾」となると考えられます。
 このことはこの『資治通鑑』の「六六二年十二月」の条の記事に何らかの混乱があると考えられるものです。つまり「泰山封禅」を取りやめるという記事の前段の「征討」の詔は「何らか」の理由により「六六〇年」の条から紛れ込んだのではないでしょうか。
 これらのことは「白村江の戦い」が「泰山封禅」を企図したという記事の日付である「六六二年十月」より「以前」に行われた可能性が高いことを示していると考えられ、『資治通鑑』とともに「白村江の戦い」を「六六三年」のことと記している『書紀』にも何らかの混乱が生じていることが示唆されます。 
 この年次のズレについては「青木一利」氏の研究もありますが(「古田史学会報一〇二号」)、その中でもやはり「旧唐書」「三国史記」が正しいとされているようであり、「日本書紀」の影響を受けたと考えられる「後期中国側資料」については「信」がおけず、その年紀は真の年次に対して「一年」ズレているのではないかと思料するものです。

 この推論に従えば、「劉徳高」の来倭の日付は「六六五年」ではなく、「六六四年」であった可能性が高いと考えられるものです。
 「高宗」は「倭国」等遠絶した地域からも参加が可能なように「時間的余裕」を考え「六六四年(麟コ元年)七月朔」にこの式典開催を宣言しているのです。つまり、「封禅の義」まで、約一年半の猶予があるわけであり、この詔勅の「直後」に各国に使者が発せられたと考えるべきでしょう。まさに「劉徳高」の来倭はそのタイミングで為されたと考える方が正しいと思われます。
 『書紀』の日付が一年ずれているとすると「劉徳高」は「対馬」に「六六四年」の「七月二十八日」についたと考えられ、「高宗」が「詔」を発したその月のうちに来た事となります。(事前に詔の内容が内示としてあった可能性もあるでしょう。この場合はそれ以前に準備はすでにされているわけです)

 中国の歴史上「封禅」の規模は皇帝の「即位の儀式」さえも超えるものでした。そのため、「唐」の高宗はこの儀式を自身の威信をかけたものにするために、周辺の「唐に封ぜられた」諸国王も含め大量招集をかけたものでしょう。そのような中にははるか遠方の国もあるわけですから、かなり余裕を持った伝達でなければ間に合わないという可能性も出てくるため、特に遠方の国については「迅速」な伝達を行ったものと考えられます。
 「劉徳高」の官職名は「沂州司馬」というものですが、「沂州」が現「山東省」付近の事であり、遣唐使船などが往復に利用する港があるところですから、倭国へ使者を送るのには「最適」「最短」の場所にあると言えます。(だからこそ彼が選ばれたものでしょうか)
 また、当時の「唐」の船の構造も倭国の船に比べ外洋航海に適しており、(竜骨構造の採用など)ここから船出したとすると、修正年次の六六四年七月二十八日の到着も可能でしょう。
 実際の「遣唐使船」の行程を「六五九年」に派遣された「遣唐使」である「伊吉博徳」の記録である「伊吉博徳書」で確認してみると、「遣唐使」として訪れていた「唐」から「六六一年」に帰国した際には「四月一日越州から出発、四月七日『ちょう岸山』の南に到着、八日暁西南の風に乗って大海に乗り出したものの、『漂流』し、九日後(四月十七日)『耽羅』に到着した。」とあり、「劉徳高」の出発地である「沂州」にほど近い「『ちょう岸山』の南」から出航しています。そこから「最短ルート」を取ったものでしょう。この時の倭国の遣唐使船は、多少「彷徨」したようですが、「耽羅」(済州島)まで九日間で来ています。「劉徳高」が同じような、東シナ海横断ルートを取ったとすると、この日数と大きくは違わなかったのではないでしょうか。

 特にこのように急いで倭国に使者を送ったのは、もちろん「倭国」との間の「戦争状態」を集結させるためであり、「泰山封禅」に「捕虜」を連れて行くわけにはいかないわけですから、「倭国王」の出席を促すと共に「至急」降伏の意思表示を示すように督促したものと思慮されます。
 「倭国」との折衝を通じて「薩耶麻」捕囚の情報を得たと考えられる「百済禰軍」達はその後(「百済国」内某所と推察されます(注二))「倭国王」に面会し、引率して来た「守君大石」達と合流した後、「薩耶麻」を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。
 その後「劉仁軌」により「薩夜麻」を含む「百済王」「耽羅国王」などは「船」で「泰山」の麓まで運ばれています。

「旧唐書劉仁軌伝」
麟コ二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚ス 擢拜大司憲

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点で「劉仁軌」の支配下にはいったものと考えられ、彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。
 このように「謝罪」を受けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、彼を「処罰」(流罪など)に処する事は考えていなかったのではないでしょうか。
 こうして「薩耶麻」は帰国することが可能となったのだと思われます。(そう考えると帰国まで年数が経過しているように考えられ、本来の帰国年次はもっと早かったという可能性がありますが、それについては別稿とします。)

 また、この「劉徳高」の倭国への遣使が「唐」の史書にありませんが、これは「泰山封禅」の式典に参加する各国への使者が余りに多く、記録上書ききれないため省略されたのだと考えられます。この時は国内全州、及び「柵封国」、「友好国」など非常に多くの参加者があったようであり、『資治通鑑』にも以下の文章があります。

『資治通鑑』「六六五年」(麟コ二年乙丑)「冬十月丙寅上發東都從駕文武儀仗數百里不絶。列營置幕彌亙原野。東自高麗西至波斯烏長諸國朝會者各帥其屬扈從穹廬毳幕牛羊駝馬填咽道路。」

 東西の各国からの使者や高官がその随行員を率いて「唐」の「高宗」に「從駕」し、その長さが「数百里」に及んだように書かれています。当然これに参加した彼ら「東西諸国」からの使者なども「唐」からの「使者」によりこの式典に来るよう指示なり招待なりを受けたものと思われます。(それが倭国の場合「劉徳高」の来訪であると思われます)しかし、このような各国への「唐使」派遣記事は唐側の史書には記載されていないのです。
 また、これに参加したと考えられる「坂井部石積」などの帰国の日時も「一年ズレ」の対象記事と考えられます。

天智称制六年(六六七年)(中略)十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。

 この年次についても「修正」の結果「一年前」の「六六六年」十一月となり、従来「六六六年」正月に行われた「泰山封禅」から二年近くも経過した「六六七年」十一月の帰還というものがはなはだ不自然であり、その理由が不明であったものが解消されます。
 つまり、「守君大石」「坂合部連石積」らについての「泰山封膳」への出発が「六六四年」十二月、「泰山封禅」が約一年後の「六六六年」正月、帰国がさらにその約一年後の「六六六年」十一月となれば、使者の往還に要する時間もきわめて自然なものになります。



結語

 一.「倭国」が「百済滅亡」に至る段階ですでに共同戦線を構築していたことが推察され、その戦いの初期段階の戦いですでに「倭国王」である「薩夜麻」が「捕囚」になっていたと考えられること。「薩耶麻」捕囚期間中に「倭国内」に「僭帝」が出現していると考えられ、これは「天智」を指すものと思料され、彼は「百済禰軍」達の「説得」と脅しにより「降伏」し、「将軍達」を送って「恭順の意」を「唐皇帝」に示したと考えられること。
また、「薩耶麻」は「それらの将軍達」と共に「泰山封禅」に参加したものと推察されること。
二.以上に関連して『書紀』の「天智紀」の対外関係記事に「一年」の年次のズレがあると考えられ、一年前倒しで記事を読むべきこと。

以上について、考察しました。

(注)

一.王連竜(吉林大学古籍研究所副教授)「百済人祢軍墓誌論考」(「社会科学戦線」七月号)

二.この墓誌の中では「唐皇帝」に関すること(その称号と動作など)については「前二文字空け」により「敬意」を示しているようです。(上に文字が載ることを避けている)つまり「皇華」「聖上」「天威」「恩詔」「?闕」「皇情」などは全て「唐皇帝」(ここでは高宗)に関わることを示していると考えられます。

三.「匈奴」の太子であった「金?子」(金日?)は「前漢」の時代に「漢」の侵攻を受け捕虜となり、その後「奴隷」まで身分を落としますが、「馬の飼養」の役を与えられ、誠実に仕えている内に「漢」の「武帝」の目に留まり、その後「武帝」の信任を受け出世していったとされています。(漢書列伝(班固)による)「百済禰軍」は彼に自分をなぞらえて考えていたと推察されます。

四.「載馳」は「春秋」時代の諸侯の国の一つである「許」の国へ嫁いだ「穆夫人」が作ったとされる「詩」であり、故国の「衛」が滅びたのを知り、「衛」の国の人たちが亡命した「漕」へ自分も行こうとして「許」の国の大臣らに阻まれ、行くことが出来ず、その悲しみを歌にしたものとされており、「亡国の嘆き」がテーマと考えられています。(「詩経」より)


参考資料

「百済禰軍墓誌」これについては「古田史学の会」のホームページ上の拓本写真を参考にさせていただきました。
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
宇治谷孟訳「日本書紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
金富軾著 井上秀雄訳注「三国史記」東洋文庫「平凡社」
田中健夫訳注「海東諸国紀」(申淑舟)岩波文庫
井上秀夫他訳注「東アジア民族史 正史東夷伝」(東洋文庫)「平凡社」
石原道博訳「新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝(2)」岩波文庫
小林武夫訳注「漢書」(班固)ちくま文庫
石川忠久・福本郁子訳注「詩経」(新書漢文体系)明治書院
鬼頭清明「白村江」教育社
小林恵子「白村江の戦いと壬申の乱」現代思潮社
金谷治訳注「論語(文庫版)」岩波書店
『資治通鑑』、「旧唐書」「善隣国宝記」は「図書館」で閲覧。