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常陸国風土記に見る国県制の成立と六十六国分国について


(「古田史学会報一〇八号及び一〇九号」に採用・掲載されたものです。投稿日付は二〇一二年三月十四日。)


「国県制」と「六十六国分国」 −『常陸国風土記』に現れた「行政制度」の変遷との関連において

 以下は「常陸国風土記」の文章が「国県制」に関連していること、それが「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「六十六国分国」とも関連しているということを述べるものです。

(一)「常陸国風土記」と「行政制度」の変遷

 「二つ」の隠された制度があります。
「一つ」は「評制」であり、これは「藤原宮」などから出土した木簡などによりその存在が明確になっていますが、『書紀』にはその存在が「全く」触れられていません。全て「郡」で統一されています。
 そして、同様に「隠蔽」されているものに「国県制」があります。
 「国県制」は「記紀」などの史書や「風土記」などの書籍に「顔」は出していますが、その施行年等の詳細が「記紀」に書かれていません。いつ、誰が施行した制度なのか「記紀」からは「不明」なのです。
 しかし、種々の資料および研究から「評制」については「七世紀」の半ば(推測によれば「六四九年」)の施行と考えられ、(注一)「国県制」は明らかにその「評制」に先立つものと考えられますが、その施行はおおよそ「七世紀」初頭と考えられているようです。(注二)

 ところで、「風土記」は、『書紀』によれば「和銅六年」(七一三年)に出された「元明天皇」の「撰進の詔」に基づき編纂された各国ごとの「風俗習慣」その他その国に伝わる伝承などについて、書き記されたものとされています。
 各国から撰進された「風土記」のうち「常陸国」の分について書かれたものが現在「常陸国風土記」として残されているものです。
 その「常陸国風土記」の冒頭には以下のように書かれています。
(以下の読み下し文は「岩波」の「日本古典文学大系『風土記』」に準拠します)

「常陸の國司解(げ)す、古老の相ひ傳ふる舊聞を申す事。
 國郡の舊事(ふること)を問ふに、古老(おきな)の答へて曰へらく「古(いにしえ)は、相摸(さがむ)の國の足柄の岳(やま)坂自り東の諸の縣(あがた)は、惣(す)べて我?(あづま)の國と稱ひき。是の當時(とき)、常陸とは言はず、唯新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の國と稱ひ、各(おのおのも)造(みやつこ)別(わけ)を遣わして檢校(おさ)め令しめき。其の後(のち)、難波長柄豐前大宮臨軒天皇のみ世に至り、高向臣中臣幡織田連等を遣わして、坂より東の國を惣領(すべおさ)めしめき。時に我?(あづま)の道、を分れて八の國と為り、常陸の國、其の一つに居れり。」

 上の文章は、「古」は「常陸」という国はなく「新治筑波茨城那賀久慈多珂國」という国々がただ「並列」的に存在しており、そこに「造」や「別」が派遣されていた、と書かれていると理解されます。しかし、同じこの文章の中にある「自相摸國足柄岳坂以東」という表現からわかるように、「我姫国」(「我?之道」)は「広大」とも言える広さがあったものであり、(現在の「関東」とほぼ同じか)このような広さの領域に対して、個々の「国」に「別」や「造」を個別に配置するだけでは、「統治行為」の執行が著しく「不十分」であると思われます。
 「統治」している、ということは「一定の政治的思想や方法」を、ある「領域」に対して及ぼしている場合「統治」していると言えるわけですが、その「統治」の「強弱」は、どれほど末端までそれが透徹しているか、どれほどの「時間」(期間)でその末端まで、上意が透徹するかで決まるものでしょう。そして、「強い権力」というものは、「システム」つまり「末端」まで意志を透徹することが可能な「きめ細かい」「組織」があって始めて成立するものであると思われます。
 しかし、この「古」の「我姫」の地域のような状態は「きめ細かい」とは言えず、「行政システム」としては「未熟」であると言えるでしょう。このような場合は、個々の「国」の主体性が強くなりやすく、より「大きな」権力者の意志が「透徹」しにくい体制であると考えられ、このことは「統一王者」と言うべき「強い権力者」は、この時点ではまだ「存在」していない事を意味すると推定されるものです。

 この状態の後、(「其後」)「難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世」になって「我?國之道 分為八國」となり、「新治筑波茨城那賀久慈多珂」はまとめて「常陸」の国となったというわけです。
 つまり、この時点で明確な「上意下達」の手段(ルート)が構築され、「行政制度」が「階層的秩序」を伴って形成されたわけであり、この段階で「始めて」「強い権力者」が発生した事を示すものと思慮されます。

 この「常陸国風土記」の「冒頭」の記事には「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」という表記があるため、「無批判」に「孝徳天皇」の治世である「七世紀」の中葉のこと理解され、以前はそのため「大化改新」と絡め「国郡制」の開始を意味する記事と理解されるのが常でしたが(「体系」の「注」でもそうなっています)、その後「評制」の存在が確認され、また「大化改新」の真偽が問題になってきたこともあり、「一転」して「評制」の施行を意味するとされるようになったようです。
 「古田史学会」の会報等を見ましても、「評制」の施行を意味すると理解されているようでありその点では大差ないようです。(たとえば「正木氏」の論文「常色の宗教改革」古田史学会報八十五号二〇〇八年四月八日など)
 しかし、いずれの考え方も「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」という表記に引きずられ、正当な理解をしていないのではないかと考えられます。

 「常陸国風土記」のこの文章から考えると、ここに書かれた「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」というものを「孝徳天皇」と見なした場合(これを「難波朝廷」と言い換えても同じですが)、「強い権力」を持った人間はそれまで(七世紀中葉まで)現れなかったこととなってしまいますが、それははなはだ考えにくいことです。
 そもそも「評制」以前はどのような行政制度であったのでしょうか。
 従来の一般的な理解はこの制度の変遷についてやや把握し切れておらないようであり、「混沌」としているように感じられますが、概要的には「屯倉」を中心に発展した「県」(コホリ)と言う制度が存在し、それが令制の「郡」(コホリ)となった、というものと、「七世紀中葉」に「評」(コホリ)が制定され、それが後に「郡」(コホリ)になったというものが混在して考えられているようです。これらの推論は言い換えると「評」の前が「県」であったという事を述べているようでもあります。
 そのあたりは、「常陸国風土記」の別の部分を見るとかなり明確になると考えられます。

「筑波郡 東茨城郡南河?郡西毛野郡北筑波岳.
 古老の曰へらく、筑波の縣は古、紀國と謂ひき。美万貴天皇のみ世、采女臣の友屬(ともがら)筑?命を紀國の國造に遣はしき。時に、筑?命いひしく、「身(わ)が名をば國に着けて、後の代に流傳へしめむと欲(おも)ふ。即ち、本の號(な)を改めて、更に筑波と稱ふといへり。(以下略)」

 ここは「筑波」という「郡」に関する記事であり、この「郡」は「八世紀時点」の「郡」と考えられます。そして「古老」が言う「筑波之縣」でという言い方の中で使用されている「縣(県)」というのが「我?之道分為八國」された時点における制度と考えられます。(注三)
 それ以前は「筑波之國」であったものですが、それは「美万貴天皇之世」に変更させられた名であり、それ以前(古)は「紀国」というわけです。
 ここに書かれた事は、この地方における「行政制度」の「変遷」を意味するものとと思われます。
 「我姫」が「八国」に分割された時点で、その下層には「県」が作られたものであり、その「県」はそれまで「国」(小国)であったものを言い換えたものと推察されます。そして、その「県」は「七世紀」半ばになって「難波朝廷」により「評」に編成替えになり、さらに「八世紀」に入り、「郡」へと変わったものです。
 つまり「評制」施行の際にはその時点での「国」の「範囲」はそのままで大きく変更はなかったと考えられ、その下部組織である「県」に当たる部分が「再編成」され、「評」になったものと考えられます。
 ここに書かれた「制度」の変遷と「常陸国風土記」の冒頭記事を照らし合わせて考えると、「古」は「道国制」とでも言うべきものであったものが、「評制」が施行される「以前」に「国県制」に再編成されていると考えられます。
 そしてその時点で「常陸国」のような、それまでの「小国」を「数ヶ国」を併せた「大国」(「広域行政単位」としての「国」という概念)が誕生したものであり、この「行政制度」改定時点で、このような「広大」な領域を「分割」した「権力者」が存在していた事を示しているものです。つまり、「評制」施行に先立つ時期にすでに「強い権力者」がこの「列島」に現れていたと言えるのです。

 またこれらのことを裏書きすると思われるのが「前方後円墳」の築造停止です。関東では「円墳」などはその後残りますが、「前方後円墳」は「ほぼ全国一斉に」造られなくなります。その時期が「七世紀」のはじめ(六一〇年前後)と考えられているのです。(正確に言うと「西日本」では「六世紀の終わり」、「東国」では「七世紀の初め」という時期に終焉を迎えると言われています)(注四)
 このように全国で「前方後円墳」の収束が「ほぼ同時」である、と言う事は「強い権力者」(統一王者)の存在を想定しなければ理解できません。
 末端まで「短期間」に意思を伝達できる組織があって始めて「一斉」に収束させられるものなのですから、この段階の「倭国王」が「強い権力」を持っていたと考える必要があります。つまりこの「七世紀」の始め時点の倭国王及び「倭国」の行政制度については、それ以前と「決定的」な差があるものと考えられるのです。
 それまで「弥生」時代の「始まり」や「終わり」、そして「古墳」時代の「始まり」が全国で「一斉」ではなかったものが(もちろん全て「九州」が先行しているのですが)、この時点で「全国一斉」となったのです。
 そしてそれが「六一〇年前後」とされているものであり、このような「強い権力の発現」という事象が、「難波朝廷」から「評制」が施行される「以前」のことであるということが重要だと思われます。

 つまり、「難波朝廷」が「評制」を施行する前にすでに「強い権力者」がこの「列島」に存在していたものと考えられ、「常陸国風土記」の中に記された「其後 至難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世 遣高向臣中臣幡織田連等惣領 自坂已東之國于時我?之道分為八國」という部分が「難波朝廷」からの「評制」の施行を示すもの、という解釈には「困難」があることが判明します。
 この部分は「難波朝廷」に先立つ「強い権力者」に関わる事績が書かれているものと推察され、その「強い権力者」として該当するのは「隋書倭国伝」で「隋皇帝」に「天子」を称した国書を提出したとされる「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」であると推量するものです。

(二)「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「六十六国分国」と「常陸国風土記」
 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時代は『書紀』で言う「推古天皇」の時代に重なっており、「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」の業績とされるものは「聖徳太子」の業績と対応していると思慮されます。
 その「聖徳太子」に関わる伝承の中に「六十六国分国」というものがあります。それによれば彼は「成務天皇」により「三十三国」に分国されていたものを更にその倍の「六十六国」に分けたとされています。(詳細は「古賀達也氏」の論文「続・九州を論ず−国内資料に見える『九州』の分国」「九州王朝の論理」所収二〇〇〇年五月二十日明石書店をご参照願います)
 これに関しても同様に「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の業績と考えるべきでしょう。
 そして、「常陸国風土記」に書かれた「我姫之道 分為八国」という事績は、この「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「六十六国分国」という事業の一環であったと考えられるものです。(これが行われた年次の詳細については別に論じることとします)
 この「難波長柄豊崎臨軒天皇」という表記は一旦念頭から外して、「常陸国風土記」の冒頭の記事を正視してみるとそれは(一)で考察したように「国県制」の施行を示すものと考えられるものです。
 この記事で強調されていることは「我姫之道」を分けて「八国」にしたことであり、中でも「常陸」という国を造ったことを「功績」として書いているように見えます。しかし、「評」に当たると思われる「県」の再編成については何も記されていません。
 「評制」の主眼は「評」の創設であり、それは行政組織上の対比から見て、上で見たように従来の「県」を再編成したものであると考えられ、そのことが特記されるべきであるにも関わらず、「常陸国風土記」にはそれが全く触れられておらず、より広域の「道」の分割と「国」の成立についてしか述べられていないわけです。
 つまり、「常陸国風土記」に書かれた「冒頭の」記事は「評制」施行が示すところとは矛盾するものの、共に「分国」したという点では「聖徳太子」の所業と伝えられる「六十六国分国」という事績とは重なるものと推量されます。
 このことは「常陸国風土記」で書かれている「我?之道分為八國」という事業が「評制」とは「違う」改革であることを示しているわけですが、そうであれば、ここに書かれた「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」というものが「孝徳天皇」ではないのではないかと言う「疑い」を抱かせるものとなるものです。(そもそも「難波朝廷」の天皇は「孝徳天皇」ではなく「倭国九州王朝」の「倭国王」であると思慮されるわけですが)
 この「常陸国風土記」では明らかに「難波」に「臨軒」したと書かれています。通常はこれを「孝徳天皇」とするわけですが、「難波」を本拠とした天皇は『書紀』などでは他にもおりますが、「阿毎多利思北孤」及びその「太子」という「利歌彌多仏利」も「難波」に「拠点」をおいていたのではないかと考えられるものです。
 以下に「彼ら」と「難波」の関係について記します。

 『書紀』によれば「聖徳太子」は「対物部戦」の不利を受け「四天王」に祈願をし、それがきっかけで「四天王寺」を「難波」に建立したとされています。
 また「二中歴」にも「難波天王寺聖徳造」と書かれていますが、ここでいう「聖徳」は、「太子」であるという事ですから、「利歌彌多仏利」を指すものと考えられ、また「四天王寺」については、現地の伝承(「浪華百事談」)では「当初の位置(上町台地の東方の低地)」から二十五年後に現在地に移転したとされており(注五)、これも同様「聖徳太子」の所業とされているようで有り、同じく「太子」であったとされる「利歌彌多仏利」の事業を指すと考えられるものです。

 また、現存している「九州年号」史料に拠れば、九州島内で確認される九州年号資料は「全体としては」「熊本」「大分」「福岡」という北部九州地域に偏りを見せています。いわゆる「筑紫」「肥」「豊」三国は古代から非常に結びつきが強く文化圏としても緊密なものがあったと思われ、年号史料が多く見られるのもそういった事が理由と考えられます。
 ところが、この三国も含め全九州から全く「九州年号」が見えなくなる時期があります。(それを記した資料が存在しない、という事)
 「古田史学の会」のホームページの「九州年号」に関連する資料によれば、「願転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」の各年号に渡る五十年ばかりの間「九州島」内に「九州年号」が書かれた資料が見られなくなっています。これは、西暦で言うと「五九四年」から「六五二年」までの間です。この間、言ってみれば、九州島内から九州年号が見えなくなるわけですが、かえって遠隔地であるはずの「奈良」「愛知」などでは確認されるのです。また、遠隔地ながら九州年号発見例が多い「長野」「福島」でも、この期間には全く確認できなくなります。
 また、これらの年号が九州島内から確認できなくなる期間は「法興」などの別系統年号と重なっている期間でもあります。しかし、その「法興」も九州島内ではなく、他の地域で確認されているのです。(「愛媛」、「奈良」、「滋賀」、「大阪」)
 この時代は「阿毎多利思北孤」と彼の跡継ぎである「利歌彌多仏利」の時代に重なっています。彼らは「隋書」にも現れる、存在が非常に明確な人物です。彼らの存在証明とでも言うべき「地元での年号遺存」の状況が全く見られない、という事は彼らの「統治」の中心がこの時点で「筑紫」から他の地域に移動していた、と言う事を示しているのではないでしょうか。
 そして、「近畿」の地域を中心としてこの時代の年号が多く確認される、という事はこの時期「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」は「近畿」に政治の中心を移動させていたことを推察されるものです。
 そして、「白雉」に至って「突然」全国各地にこの年号が見られるようになります。このことは「難波朝廷」から「評制」が施行されたことと重なっているようです。
 この時点で「複都制」の「詔」が出され、「難波」が「キ」となるわけであり、壮大な宮殿の完成となります。
 しかし、この時点で「難波朝廷」が「なぜ」「難波」に設置されたのか、なぜ「複都制」の最初に適用されたのが「摂津難波」なのか、という問題につながるものです。
 そう考えた場合「難波」にはいわば「土地勘」があった、という事が大きいものと思われます。「難波副都」遷都の以前から「摂津難波」に何らかの「仮宮」の様なものがあり、そこにほぼ、「常駐」する形だったのではないかと思われます。
 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」はこのように「九州」から「難波」に進出したと考えられますが、「天王寺」やその至近に設けたと考えられる「仮宮」に拠点を移していたと考えられ、この「難波」で「臨軒」していたといっても過言ではない状況であったと思慮されます。このことが『常陸国風土記』の「冒頭記事」の中で「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」という「孝徳」と思われる人物の業績に「すり替えられる」素地になったものでしょう。
 「風土記」は「八世紀」になって『書紀』などと同時期に「新日本国王朝」の官人(この場合「藤原宇合」か)により書かれたものであり、その内容については『書紀』と同様、「阿毎多利思北孤」達の王朝についての歴史は「隠蔽」され、「近畿王権」の王の業績の中に落とし込む形で「潤色」と「変改」が行われたのではないかと推量します。(注六) 

(三)「六十六国分国」と「隋書倭国伝」
 (一)(二)で述べたように『常陸国風土記』に書かれた「分国」事業は、「国県制」の実施を意味するものであり、それはまた「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「六十六国分国事業」でもある可能性について論証したわけですが、その「六十六国分国」事業の実施については「隋書倭国伝」に関連すると考えられる記事があります。

「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」

 この記載によると「軍尼」という「官職」について「猶中国牧宰」という言い方をしています。「牧宰」は「漢代」以来「州」の長官を意味するものであり、これに例えられているという「軍尼」が「倭国」の場合は「州」ならぬ「国」の長官であるという考え方が可能です。
 (「軍尼」について、ここで同じ「州」の長官でも、「刺史」という形容をしていないのは「軍尼」に「軍事権」があったからでしょう。「牧宰」には「刺史」と違い「軍事権」があったものであり、そのため「軍尼」に対して「猶中國牧宰」という形容となったものと考えられます。「『軍』尼」というように「軍」の字を使用しているのはその現れではないかと思慮されます)
 しかし、その直属の部下であると考えられる「伊尼翼」については「里長」のようであるといっています。
 当時の「隋」の「行政制度」は「漢代」以来の「州−郡−県」(−「里」)を変更し「郡」を廃止して「州」の直下に「県」を置き、「刺史」ないし「牧宰」が直接「県令」を指揮下に置く形に変更されています。つまり、「隋」の場合「州」の責任者である「牧宰」の直属の部下は「里長」ではないわけです。
 しかし、ここでは「軍尼」の直属部下として「里長」のようであるという記載となっているわけですから、これは「一見」すると「矛盾」と言えると思われます。 「隋」の制度になぞらえて説明されているにも拘わらず、その「隋」の制度の「階層」と合致していないわけです。
 これを解く鍵は「常陸国風土記」にありました。
 「常陸国風土記」の冒頭の文章によれば、「古」は「唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国」ということであり、後の「常陸」のような「広域行政単位」としての「国」ではなく、個別の支配領域を表す「小国」としての「国」しかなかったと考えられます。そうであったとすると、「軍尼」が統括する範囲が小さいため(八百戸程度)「牧宰」に相当する官僚の下は直ぐに「里長」的人物であるという事となるものでしょう。
 そして、「隋書倭国伝」の中では、「軍尼」の「上部組織」とでも言うべきものについて何も触れられておらず、あたかも「全国」にこれら「百二十軍尼」が散らばって存在しているというように考えられるわけであり、これは上で見た「常陸国風土記」の冒頭の「我姫之国(道)」の「古」の状態そのままであると考えられるものです。
 また、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」が行なった「六十六国分国」に関しては、そこで言われる「六十六国」とは後の「令制国」としての「六十六国」と同一ではないかと推量されるものであり、この「六十六国分国」では「筑紫」は「筑前」「筑後」というように分割されたものと考えられます。
 しかし「隋書倭国伝」に書かれた「行路記事」では「竹斯国」として出てきており、「前後」に分割されてはいないように見えます。
 「行路記事」ですから、「隋使」が来倭した時点(六〇八年か)の実情と考えられ、その時点では「国内」に対する「阿毎多利思北孤」の「六十六国分国」事業はまだ行われていない、という事を示していると考えられます。つまり、この段階では(六〇〇年時点同様)「倭国」はまだ「小国」の集合体としての「行政組織」しかなかったと考えられますが、「その後」(先に挙げた「新治筑波茨城那賀久慈多珂」がまとめられて「常陸」という国を構成することとなったように)、各地に「大国」(広域行政単位)としての「国」が造られたものであり、それまでの個々の「国」はその時点以降「県」と称されるようになったものと推量します。
 そして、それによりたとえば「我姫」(あづま)という「総称」で括られた広範な領域を指す「道」を(「我姫」の場合は「八国」に分けたように)全国で「計六十六」に「再編成」したものと推量されるものです。
 また、ここで施行されたと考えられる「国県制」というものは、明らかに「隋」の「州県制」に関連があると考えられるものであり、そうであればその導入は「隋代」である「五八七年」から「六一八年」までの間に限定されることとなります。
 この間(あるいはそれ以前)中国に対し「制度」導入などの意図を持って派遣されたものは「倭の五王」以降は「遣隋使」しかないわけであり、そのことは即座に「国県制」が「遣隋使」によりもたらされたものであると推測されるものです。
 また、『書紀』では「六〇九年」に「肥後」記事が出て来ます。
「推古十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子。筑紫太宰奏上して言わく「百濟僧道欣、惠彌、首と爲して一十人。俗人七十五人。肥後國の葦北津に泊于れり。是時、難波吉士徳摩呂、船史龍を遣わし問ひて曰く「何により來る。」對へて曰わく「百濟王の命により呉國に遣わされる。其の國に亂れ有り入ることをえず。更に本郷(もとのくに)に返らむとす。忽ち暴風に逢ひ海中に漂蕩(ただよ)ふ。然るに大きなる幸ひ有りて聖帝の邊境に泊れり。以って歡喜す。」と。
 この記事は「十二年のズレ」対象記事と考えられ、(注七)それに従えば「六二一年」という年次の出来事となり、この時点で「肥」の国は「前後」に分割されていることとなります。このことはこの時点「以前」で「六十六国分国」が実施されていることとなるわけであり、推測によれば「倭京」遷都の「六一八年」という時点がその「分国実施」の年としてもっとも有力と考えられます。
 「六〇七年」に派遣された「遣隋使」が帰国した後に彼らにより「隋」の行政に関する知識がもたらされ、それに基づいて作られた制度が「国県制」であり、それは「阿毎多利思北孤」と「太子」である「利歌彌多仏利」が行った事業であると推論するものです。(注八)

(四)「九州制」と「六十六国分国」及び「国県制」の相互の関係
 ところで「九州制」の施行は「六十六国分国」と同時であった、あるいはこの二つは「一貫」したものであったと考えられるものです。
 歴史的には、「倭国」は「南朝」を天子の国として「尊崇」していたものですが、「五八七年」の「隋」による「南朝」滅亡後、「隋」の皇帝が「天子」を自称するようになると、「倭国王」である「阿毎多利思北孤」も自らを「天子」の地位に置き、「隋皇帝」に「天子としての対等性」を主張する国書を出すなどの行動をとるようになりました。
 「九州」という制度は「天子の直轄領域」を指す用語ですから、この「隋皇帝」への国書提出時点(六〇八年)で自らを「天子」の地位におく体制に変更した「阿毎多利思北孤」が、自らの「足下」の地域に対して使用を開始したものと考えるのが「自然」と思われます。しかし、上に見たように「隋使」が来倭した時点では「竹斯国」と表記されているわけであり、「前・後」には分国されていないように見えます。
 「六十六国分国」では「筑紫」は「前・後」に分割されたものと考えられますが、また「九州制」施行においても「九州」は(名前通り)「九国」に分国されたわけであり、その際にはやはり「筑紫」は「前・後」に分割されたと考えられ、これは「六十六国分国」の一環であったものと推量します。
 このように「九州島」内においては「分国」の様相は他地域とは趣を異にしていたと考えられます。
 他地域では、たとえば「常陸」のように、それまで小国が分立していたものを再編成したわけです。たとえば「常陸国風土記」などでは「我姫之道」を分割していますが、分割されて出来た「国」は、元々「小国」だったものを「まとめて」「大国」としたものであるわけです。
 それに対し「九州島」内の場合は事情が違い、「筑紫」「豊」「肥」は「古」から「大国」であり、「まとめる」のではなく逆に「前後」に分けられることとなったものです。
 このように「筑紫」「豊」など北部九州の国は、他の諸国が「小国」であるような時代でも、その後の「令制国」につながる「大国」であったわけであり、「強い権力者」がこの地(九州)に他に先んじて発生していたことを示していると考えられます。
 またそのことを示すように、この領域(関東の「毛野国」なども同様ですが)は、『書紀』で「君」と呼ばれる支配者が存在していたものであり(他の地域の支配者層については「国造」や「直」などというの呼称であったもの)、他の地域の権力者と違って「独立性」(近畿王権からの)が強かったものと思慮されるものです。
ところで、「隋書倭国伝」記事を子細に検討すると、「開皇二十年」と書かれた部分から「大業三年」と書かれた部分の間にある記事は、全て「開皇二十年」の遣隋使が「隋」の官僚に問われ、それに対して答えた内容が「文章」として書かれていると考えられます。
 この部分は一般に「大業三年」に派遣された「遣隋使」の使者帰国に併せ、翌年に来倭した「隋使」「「清世」の「見聞」を記したものと理解する向きが多いのですが、そうではない、と思われます。
「開皇二十年」の「遣隋使」は「遣使詣闕」と書かれており、「皇帝」(高祖「文帝」)に直接面会したものと思われます。
 そこでは「上令所司訪其風俗」と書かれ、謁見に同席した「所司」(外務官僚か)に「風俗」について質問させた、というわけです。
 それについて「使者言」として「遣隋使」として派遣された人物が「口頭」で答えているものです。そして、その中に「倭国王」の政治形態についての説明があり、それを聞いた「高祖」は「無義理」であるとして、「於是訓令改之」と言うことになったもののようです。しかし、「遣隋使」が答えたものはそれだけではなく、聞かれた「風俗」について逐一説明をしたものと思われます。(「皇帝」からの質問なのですから、丁寧に説明したものと推察します)
 そして、「風俗」というのですから、国家の制度はもとより一般民衆の「習慣」や「服装」、「気候」、「産物」などを答えたものと思われ、それが「大業三年記事」の直前までの文章であると推察されるものです。ここに書かれた記事内容もまさに「風俗」についての文章ですから、合致しているわけです。
 そう考えた場合、「軍尼」などの行政制度とその官僚についての記事は「六〇〇年」時点の制度と考えられ、これが「その後」「国県制」の導入により改正されたものと推察されます。
 また、ここに書かれた「軍尼」なる「官僚」は、その管轄範囲が八百戸ほどしかないわけであり、これは「小国」には適合しますが、「竹斯国」のような「大国」には合致しないものと考えられます。そう考えた場合、その「竹斯国」の中の「行政制度」は他の諸国とは違ったものであったと思われ、それは「国郡県制」であったと推察します。
 「倭国」は「南朝」を皇帝の国として尊崇しており、以前より「南朝」配下の候王国として存在していたものですから、「隋代」まで続いていた中国の伝統的行政制度である「国郡県制」を採用していたと考えるのは当然でもあります。
 つまり、「倭の五王」以前の「本国」としての「倭国」(九州島)と、「倭の五王」以降の拡大政策の元に「倭国」の版図に入った「諸国」とは別の制度であったものであったと考えられるものです。
 そして、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」により、「諸国」について「小国分立」の状態であったものを、「統治強化策」として(もちろん「法華経世界」の具現化という意味もありますが)、「六十六国分国」政策を導入した際に「九州島」でも他地域と同様「郡」を廃止し、「国県制」に移行することとなったものです。そして、それと共に「筑紫」「火」「豊」を「前・後」に分国し、「九州制」を施行したものと推察します。

(五)「国造」と「国宰」
 上で見たように「阿毎多利思北孤」の「国県制」という制度は、「六一八年」の「筑紫都城整備完成」という記念すべき事業を祝して「倭京」と改元した時点で施行されたものと考えられますが、この「行政制度改革」はそれまでと違い「統一王者」としての「統治」範囲の拡大と強化を目的としたものであり、「小国」分立であった状態をまとめ上げ、階層的行政秩序を構築し、「倭国中央」の意志を「倭国」の隅々まで(「直轄地」はもとより「附庸国」に至るまで)透徹させるために行なった「大改革」と考えられます。 
 そのような趣旨で行われた「国県制」の採用において、大国として新たに造られた「常陸」などの国の「責任者」も新たな「制度」となったものと考えるのが正しいものと考えられますが、それと関連していると考えられるのが「国宰」という存在です。
 「国宰」という職掌については、その「名称」すらも『書紀』には出てきませんが、「風土記」などの資料や「木簡」などでその存在が確認されており、(注九)このことは「実際」に「国宰」という職掌が「倭国」に存在していたことを示すものです。(「一次資料」と言うべきものにその存在が書かれているわけですから、「実在」と考えられます)
「常陸国風土記」「行方郡の条」
郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯小高というもの有りき。其の居める処なれば因りて名づく。「国宰」当麻大夫の時築(つ)きし池、今も路の東に存(あ)り。池自り西の山に猪猿大(さは)に住み、艸(くさ)木多密(しげ)れり。(以下略)

「常陸国風土記」「久慈郡の条」

此れ自り艮(うしとら)二(三)十里に助川の駅家(うまや)あり。昔遇鹿(あふか)と号(なづ)く。古老の曰へらく「倭武天皇此に至りましし時、皇后参り遇ひたまひき。因りて名づく。「国宰」久米大夫の時に至り、河に鮭を取るが為に、改めて助川と名づく。俗の語に鮭の祖(おや)を謂ひて須介(すけ)と為す」

 以上の文章の中では「時制」を表す言葉として「古」や「昔」及び「国宰当麻大夫時」、「至国宰久米大夫之時」および「今」という表記がされています。
 常陸国風土記の冒頭の部分の理解では「古」や「昔」というのは少なくとも「阿毎多利思北孤」以前を言うと考えられるものであり、「国宰当麻大夫時」、「国宰久米大夫之時」という時制が「それ以降」のどこかの時点を表すものと思慮されるものです。
 つまり、「国宰」という「官職」の制定時期としては「阿毎多利思北孤」以降の「今」までの「どこか」と考えられるものです。当然その中には「評制」を施行した「難波朝廷」も入っていますから、その「発生」は「評制施行」と同時であったものと理解する考え方もあり得ます。(注十)
 しかし、「難波朝廷」以前であったという可能性もあるわけです。
 確かに「資料」からは「七世紀中葉」を大きく遡るものは現在出ていませんが、「改革」の趣旨から考えると「評制」と言うよりそれに先行する「国県制」施行に関係しているのではないかと考えられるものです。
 また、同じく「常陸国風土記」の「多珂郡」の記事のところでは「国宰」である「川原宿祢黒麻呂」の時に「観世音菩薩」像を彫ったとされています。

「常陸国風土記」「多珂郡の条」
 「国宰」川原宿祢黒麻呂の時に大海の辺(ほとり)の石壁(いわぎし)に観世音菩薩の像(みかた)ほ彫り造りき。今に存り。因りて佛(ほとけ)の浜と号(な)づく。

 「観世音信仰」は「六世紀」の末の「阿毎多利思北孤」の時代に始まると考えられ、それ以降各地に「仏教寺院」や仏教と「習合」した「神社」などが多く作られるようになります。このような動きが行き着いたものとして「大海之辺石壁」などに(当然かなり大きなものとなるでしょうが)「観世音像」を彫り込んだものと考えられるものです。
 世界各地で見られる「石窟」などについても、その造立の背景としては、その信仰がその地で非常に盛んなことがベースにあると考えられ、このことはこの「多珂」の地に「観世音信仰」が紹介され、導入されてから、かなり年月が経過していることを示唆するものであり、「阿毎多利思北孤」の時代と言うよりその太子とされた「利歌彌多仏利」の時代の可能性が高いのではないでしょうか。
 そして、この「石窟」を「彫像」したのが「国宰」である「川原宿祢黒麻呂」の時代とされていることからも、「国宰」や「太宰」という官職などが「利歌彌多仏利」の時代のものであり、「国県制」に深く関係しているとする推測を補強するものです。
 実際、「評制」施行の際には「国」という行政組織についてはほぼ変更がなかったものと考えられ、旧「県」が(境界変更等ありながら)新「評」へ移行したものと推察されます。
 また「八十戸」制を「五十戸制」へ変更したのは特筆すべき事であり、「評制」の眼目がこのような「末端組織の細分化」というところにあったものと考えられるものであり、「国」のように「大組織」についての変更はその主たる目的ではなかったと考えられます。
 つまり、「評制」というものは「国県制」を「根本から」変えようというものではなく、「統治強化」のために末端組織に目を向けたものであったと思慮されるものであり、「国宰」という職掌については、「上記」で考えるように「阿毎多利思北孤」の「諸改革」の一つである「国県制」に伴うものであったと考える方が「合理的」ではないでしょうか。
 また前記の「六〇九年」の「肥後」記事によれば、この時点(十二年ずれて「六二一年」)で「筑紫太宰」というものが存在しているわけですが、これに関しても「八世紀」に入ってからの潤色」というのが一般のとらえ方のようですが、これは「難波」に拠点を構えた「利歌彌多仏利」が「倭京改元」時点で、「国県」制という行政制度改定と同時に行われた制度改定であり、また「国宰」の制定・任命と関係のあるものであったと考えられるものです。
 「太宰」(太宰府)というものと「国宰」の間には関係がある、というのは従来からも指摘があるところであり、各々の「国宰」が「太宰」の指揮管轄下にあったものと推定するのはそれほど不自然ではありません。
 「筑紫」に「太宰」が制定されたと同時に、新しい「国」においても、実施された「大改革」にふさわしく、それまでの「小国」の長であった「国造」という名称は捨てられ「国宰」という新しい名称が採用されたことと推量されるものです。少なくとも、「評制」以前からの存在である可能性を保留すべきではないでしょうか。 
 ところで「我姫」には「総領」が派遣され「八国」に分けられた領域を「統括的」に統治していたとされています。この「総領」についてもその施行時期は、やはり「太宰」「国宰」などと同様「倭京改元」時点のものではないかと考えられるものです。
 『常陸国風土記』中でも「冒頭」の記事として「総領」に関連して出てくるわけであり、その「冒頭」の記事が実は「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の事業としての「国県制」の施行であったと考えられるわけですから、そこに出てくる「総領」も「同様」であると思慮されるものです。(「高向臣(大夫)」と「中臣幡織田連(大夫)」という固有名詞がこの時代のものであったかは不明ですが)
 その「総領」と「太宰」との間の「違い」は、片や「総領」は「辺境」に派遣されたものであり、ある意味「全権」を委任されていたものと思慮されますが、一方「太宰」は「筑紫」に設置され、「分国」により「九州」となった「倭国王権」の直轄地を「統括的」に統治していたものであり、本来の意義の「宰相」としての存在であったと考えられます。
 そもそも「太宰」は中国では「宰相」の意義であり、「皇帝」に近い存在であって、国内行政の最高責任者でもありました。「総領」も、「北周」の「宣帝」没後「幼少」であった「静帝」を補佐した「楊堅」(隋の高祖)を称した例からも「太宰」と意味は非常によく似ていると考えられますが、「倭国」の場合「総領」は「附庸国」に対する統治の強化策として配置されたものであり、「太宰」とは根本的に意味の異なる存在として考えられ、使い分けられていたものと考えられます。
 この点については、従来からも「国宰」と「惣領」について「近畿王権一元論」的立場からの議論は行われており、そのような中には「国宰」と「惣領」について、これらが各々違う職掌・組織であり、その施行時期はほぼ同時期であったものという研究や(注十一)、それが「推古紀」まで遡るもの、という示唆を含んだものもあるようです。(注十二)
 「国宰」はその後「持統朝廷」まで継続していたものと考えられますが、「改新の詔」では「国司」に関する規定が書かれており、この時点で「国宰」は「国司」へと制度切り替えがあったものと考えられますが、(注十三)このことはこの時点で「近畿」等「東国」に施行されていた「評制」が廃止となり「国郡制」へ移行した事を示すものと推察されます。(私見では「改新の詔」は「六九〇年」に出されたと考えていますが、この点は別稿で述べることとします)

「結語」
 一.「常陸国風土記」の冒頭の文章は「孝徳」ないし「難波朝廷」による「評制」施行を意味するものではないこと。
 二.『常陸国風土記』の文章は「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の「六十六国分国」を指すものであり、彼らは「難波」に拠点があったと考えられ、そのため「風土記」編纂の際に「利用」され、「変改」「潤色」されてしまうこととなったこと。
 三.「六十六国分国」事業は「隋使」来倭時点では行なわれていないと考えられる事。その後「遣隋使」によりもたらされた「隋」の制度の一環として「国県制」が導入され、「六十六国分国」事業が行なわれたこと。
 四.「九州制」の施行は「国県制」(「六十六国分国」)と同時であり、同一の事業であったと考えられること。
 五.「太宰」制成立と同時に「広域行政単位」としての「国」の長として制定、任命されたものが「国宰」であると考えられること。
以上について述べました。

「注」について
(一)たとえば「正木裕氏」の「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」古田史学会報八十二号、「古賀達也氏」の論文「大化二年新詔の考察」古田史学会報八十九号 二〇〇八年十二月十六日などでも「評制」施行について鋭い議論が成されています。
(二)この「国県制」については古くから「近畿王権一元論者」の間でもかなり活発な議論が交わされていました。有名なところでは「井上−上田論争」などがありますが、現在でも「定説」が形成されていないようであり、「県」の成立は「四−五世紀」という意見から、「七世紀初頭」とするものまで各種出ているようです。しかし、各地の「古墳」の築造時期と関連づけて考えた結論として「西日本」が先行して「六世紀後半」、東国は遅れて「七世紀初頭」という理解を示した「原島礼二氏」の論文(「古代王者と国造」教育社一九七九年)が参考になるものと考えられます。
(三)岩波の古典文学大系「風土記」の注では「冒頭」の部分の「自相摸國足柄岳坂以東諸縣」の中の「縣」については、単なる「漢文修辞」とされていますが、このような見解は不当と思われ、上記「筑波郡」記事中の「縣」についても同様に「実際」にあった「行政制度」であると推量するのが「妥当」と思慮されます。この「縣」はこの「風土記」が最初に撰進された当時の呼称がそのまま遺存していると考えられるものです。
(四)「広瀬和夫」「前方後円墳の世界」岩波新書による。他にも多数の資料が同じ内容の記述をしているようです。また、同時期「西日本」では「前方後円墳」が築造されなくなる代わりに「方墳」が増加しています。これについては「北魏」に「方墳」と「寺院」というセットで建設されるという事例(先例)があり、「隋」にその風習が継承されたものを「倭国」が「遣隋使」から情報として受け取ったものと推察されるものです。
(五)「新燕石十種」(「岩本活東子」編)に所収の「浪華百事談」には「人皇三十三代崇峻天皇の御宇、二年秋七月、聖徳太子、難波の地に初て伽藍を創立し玉ひ、四天王寺と号し玉へり、其旧地は、「上古図」の中に載せし如く、玉作の里の傍なり、其地当今森の宮の東にあたり、其時の大門、堂塔の跡、田圃の字に遺れり、又、亀井の霊泉は、今も田圃の内に存して、一千三百余年の星霜を経ると雖も、水涸ることなし、四天王寺此地に創立ありし時、逆浪あふれ、鳥蛇集りて、堂宇を破壊す、よりて、二十五年の後ち、今の地に転移して、再び伽藍を建立し玉ひしなり」とあります。
(六)ただし、この「常陸国風土記」の「冒頭」部分以外の他の「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」記事についても、同様に「変改」されているかというと、そうではないと考えられます。「常陸国風土記」には「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。
「常陸国風土記」「行方郡」の条
行方郡の東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請総領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家
 ここでは冒頭の文章と同じく「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世」といいながら、今度は「干支」が併記されています。ここに書かれた「癸丑」という干支は「五九四年」ないし「六五四年」のいずれかと考えられますが、ここでは「茨城」と「那珂」から併せて十五里(さと)を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、一つの里(さと)が約五十戸で編成されている計算となり、これは「隋書倭国伝」に言う「『里長』のごときもの」が治めるという「八十戸」という最小単位とは異なっています。
 この「戸数」に関しては「隋書倭国伝」以降、「国県制」施行の際に変更され「五十戸」にされたという可能性も考えられ、施行時期としては「利歌彌多仏利」時代と言うこともあり得ますが、その場合は「癸丑」という干支が示す年次とは齟齬します。
 このことは、この「五十戸」が「国県制」ではなく、「評制」下のものであることを意味すると考えられ、ここでいう「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世」というものが「難波朝廷」で統治した「倭国王」を指すものであると判明し、年次としては「六五四年」が該当すると考えられるものです。
 また記事内容としてもすでに施行されているものの変更ですから、ある程度当初の施行から年月が経っていることを推定させるものであり、そうであれば施行後五年程度経過していることとなると考えられる「六五四年」の方が妥当性が高いものと推察されます。
 つまり、「常陸国風土記」の中では単に「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世」という場合と「干支」を併記する場合とで「使い分け」しているものと推察されます。
(七)「古田武彦氏」「古代は輝いていたV」朝日新聞社及び「古田武彦講演録一『日本書紀』の史料批判 『遣隋使』はなかった」市民の古代・古田武彦とともに第三集一九八一年古田武彦を囲む会編等を参照してください。
(八)この時の「筑紫」の都城整備は、この「遣隋使」により得られた知識に基づくものと思われますが、「隋」ではこの時「大興城」という「都城」を建造中だったものであり、「完成」したものはありませんでした。(その後も「大興城」は「未完成」のまま終わります)
 このことは「隋」には直接参考にするべき「都城」(宮殿)はなかったこととなります。そのため、「遣隋使」は中国の「古典的都域」の理想を記載した「周礼工考記」を入手し、それに基づいて、「宮城」が都域の中心付近にある様式を採用することとなったと思慮されます。
(九)藤原宮「南面西門・内濠・外濠跡」から出土の「木簡」に 『・封○印・「粟道宰熊鳥」□ 』と書かれたものが確認されているようです。年次などは不明ですが、「藤原宮」跡から出ていることから、七世紀の終わりから八世紀にかけての時期と考えられます。
(十)「正木氏」の論文「盗まれた『国宰』」古田史学会報九十号 二〇〇九年二月十六日など
(十一)「亀井輝一郎」「大宰府覚書(三) ― 国宰・大宰とミコトモチ ―」福岡教育大学紀要 第五十五号
(十二)「塚口義信」「敏達紀の分注について」『伝承文化研究』第五号、一九七○年
(十三)『播磨国風土記』には「餝磨郡小川里条」に「地名変更」に関する話が書かれてあり、それによれば「(志貴)嶋宮御宇天皇世」の時に定められた地名を「上(野)大夫為宰之時」という「庚寅年」に改名した、と書かれてあり、この「庚寅の年」は「六九〇年」の事を指すと考えられますが、(「六三〇年」の可能性はあるものの)その場合、この年次における「制度変更」により「里」名が変更されたものは他の地域にもあり、同じく「播磨風土記」によれば、「餝磨郡少宅里条」にもそれまで「漢部里」であったものが「庚寅年」に「少宅里」に変えられたことが記されています。
 また、おなじ年次には「常陸国風土記」によれば「香島神宮」の「神戸」の戸数が改定される(減らされている)などの変更が行われたとされており、この時全国で大規模な、「現状」の制度等に対する見直しが進められていたものと考えられます。
 このように「里名」などが変更されたり、編戸が改定されたりしていることの根源には「戸籍」の改定があったのではないかと思慮されるものであり、「庚寅年籍」造籍という「戸籍」改定作業が深く関係しているものと思慮されるものですが、またこの「庚寅年」という年次まで「国宰」が存続していたことを示す資料であるとも考えるものです。

参考資料
秋本吉郎校注「日本古典文学大系『風土記』」岩波書店
秋本吉徳訳『常陸国風土記』 講談社学術文庫
石原道博編・訳「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(一)」 岩波文庫
井上秀夫他訳注「東アジア民族史 正史東夷伝」(東洋文庫)「平凡社」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系新装版『日本書紀』(文庫版)」 岩波書店
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
正木裕「常色の宗教改革」古田史学会報八十五号
古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代試論・九州王朝史の復原」「新・古代学」古田武彦とともに第五集 新泉社二〇〇一年
古賀達也「九州を論ず−国内史料にみえる「九州」の変遷」市民の古代第十五集 一九九三年
古賀達也「続・九州を論ず−国内資料に見える『九州』の分国」「九州王朝の論理」所収 明石書店二〇〇〇年五月二十日
森博達「『日本書紀の謎を解く』述作者は誰か」中公新書
広瀬和夫「前方後円墳の世界」岩波新書
北條芳隆・溝口孝司・村上恭通共著「古墳時代像を見直す−成立過程と社会変革」青木書店
都出比呂志「古代国家はいつ成立したか」岩波新書