中世の身分制を示す言葉に「士農工商穢多非人」というのがあります。この中の「穢多」については、実際には平安時代の初め頃には「穢多」という言葉(つまり実態としての身分)はできあがっており、これがいつから始まったものかは不明とされています。
この身分制では「穢多」よりは「非人」のほうが身分は下に見えますが、「非人」は犯罪者などが対象であり、その個人に適用される身分制であったために「一代限り」であったものであり、(しかも模範囚が刑の短縮などが可能なように)「足抜け」も可能でもありました。
しかし「穢多」はその当人ではなく、「集団」であり、また「団体」と言える層がその差別の対象であったのです。しかもそれは「世襲」であったのです。このことは「未来永劫に亘って」差別を受けなければならないと規定されたことを意味します。
この「穢多」に対する対応が「守墓人」となった「南九州の人たち」に対する対応とよく似ていることに気がつくでしょう。
推測すると「穢多」というのは彼ら「守墓人となった捕虜」であると思われます。
彼らを「穢多」という身分制の中に押し込め、動きをとれなくしたのは、結局「反乱」を恐れたからであろうと思われます。彼らを封じ込めることを目的として、「穢多」の身分として「未来永劫」固定したのです。
それほどまでになぜ彼らを恐れたのでしょう。たかが列島の一部の人たちに対する態度としてはオーバーアクションというか、大仰なものを感じます。そこにはどんな理由があるのでしょうか。いいかえると、「新日本国王権」は何をそんなに恐れたのか、南九州の彼らはなぜこのように執拗な抵抗を示したのでしょうか。
その答えがあるとしたら、「九州王朝」というもの以外に考えられません。
「新日本国王権」は「九州王朝」が復活するのを怖がったし、南九州の人たちは「九州王朝」の大義に生きよう(あるいは死のう)と思っていたのです。
「九州王朝」は近畿王権が「七世紀半ば」に「日本国」の盟主となるまでこの日本列島の代表王者だったのです。
弥生時代以来一貫して九州に本拠を置く「倭国王朝」がこの日本列島の代表王者でした。この長い伝統と格式、それらをいわば「奪取」した「近畿王権」の一番恐れたことは、国内の各地の旧勢力が「九州王朝」の大義名分をなお認めつづけ、彼らを支持する勢力が各地で反乱を起こすことでした。
そしてそれを実際に行ったのが南九州の人たちだったのです。
彼らは「倭国九州王朝」の領域内の各所が、「新日本国」勢力に次々に帰順していく中で最後まで忠誠を誓ったグループであったと思われます。これを「断罪」を以て決し、なおかつ、その子孫達を「守墓人」として未来永劫固定するぐらい行わなければ、彼ら南九州の勢力に連合する勢力が出て来ても不思議はないと「新日本国王権」は思ったのでしょう。
「倭国王権」としての「大義名分」のない彼らは、自分たちの「保身」のために必要なことは容赦なく行いました。翻って考えてみても、「律令制政治」というものは多分にそのような「圧力」を下層に向けていたものです。それは「過分」な税の取り立てであるとか「権力」の「過度な」行使であるとかにより、いわば悲鳴を上げる人々、地域が出ていましたが、それも、「新日本国王権」の一種の「恐怖」によるヒステリーが行ったものだったと考えられます。
このことは「中世ヨーロッパ」で「イスラム教」の浸透に対して「ヒステリー」を起こした「キリスト教徒」達により「魔女狩り」が発生したことを想起させるものです。
このように「思想的」「宗教的」「政治的」な違いを受け入れる「度量」のないあるいは少ない社会では、「容易」にヒステリックな反応が発生しやすいものであり、それが「政府」の行為として行われると言う事も過去にはあったのです。
「穢多」(えた)という「言葉」の語源については「餌取り(えとり)」からきた言葉である、と言う説もあります。「鷹などを飼うための餌を取る職業」を意味していたものと言われ、それが転じて殺生を業とする者全般が穢多(えた)と呼ばれるようになった、というものです。 一般には鷹のえさにするために動物の「屠殺」、「解体」などの作業が必須であり、そのことが「殺生を禁じた仏教に反する」ことから、卑賤の職業とされた、といわれているようです。しかし、その程度のことで「一生」「代々」「穢多」であり続けなければならない、というのは根拠として薄弱と思われます。逆に「差別」の実態があるからこそ、そのような「卑賤」の職業しか取り得なかったと考えるのが正しいでしょう。
(アメリカの移民の歴史を見ても、後から来た移民は差別され、その結果最下辺の仕事しかなく、それを移民同士、あるいは黒人と取り合っていたということが明らかになっており、「差別」されたものが取り得る職業がほぼ一定であった近代的な例として参考になります)
「正倉院文書」の中の「正税帳」によると「筑後国」の貢納物は「鷹狩のための養鷹人と猟犬他」であったことが記されています。
「鷹狩」などは王侯貴族の趣味であり、一般庶民が行うものではなかったと思われます。つまり筑後(北部九州)はそのような高級趣味を受け継ぐ素地があったのです。また「養鷹人」などは身分は低いけれども「王」や「天子」の側近く仕えるため、他の立場の人間よりも「天子」に従属する意識が強いと思われます。
南九州で反乱を起こしたグループの中に「比売」と言われる人物がいたことは前述しましたが、これは「姫」を意味するものと思われ、「女王」のような存在であったと思われます。彼女の元にも「養鷹人」がいたのかもしれません。そのような人物は忠誠心が強く、最後まで彼ら「姫」と行動を共にすることとなったのではないかと考えられます。
それより以前から倭国内には「奴隷」が存在しており、彼らは「賤民」と呼ばれていました。『天武紀』に明らかですが「良人」と「賤民」との差は「金で売られ」た存在が「賤民」なのです。『魏志倭人伝』や『隋書』によると、窃盗などの場合は、盗んだものの対価の分だけこちらの財物で支払い、足りなければ「非人」になる(その身代が没収)場合があるようですが、そのような場合は「一代限り」と考えられます。
また『大宝令』では「奴婢」について規定していますが、その内容は言ってみれば「使用人」であり、ご主人の近隣にいて奉仕するのが職掌であったと思われます。「公奴婢」(官奴婢)の場合についても「使役者」である官人の近くで地域的国家的に作業に従事するのが本来であろうと思われます。しかし「穢多」は明らかにそのような性格は有していません。「穢多」は「個人」としてではなく「集団」としてその存在を規定されているのです。また「被差別部落」もそうですが、「穢多」は「奴婢」とは生活空間が違うのです。しかも、『大宝令』で「穢多」に関する規定がない、というのも象徴的です。この時点(大宝令編纂時…七世紀の終わり)では「穢多」はまだ「存在していない」事を意味しますし、『書紀』にもない、ということは『日本書紀』が成立した七二〇年時点でも「穢多」はまだ発生していない事をも意味するのです。言い換えると「穢多」の発生は「隼人征伐」以降の事と考えられ、それが「平安時代」までには「穢多」として固定化が完了したものと考えられるわけです。(その事も「嵯峨天皇」による「南朝否定政策」と軌を一にしていると考えられるものです)
(この項の作成日 2011/01/22、最終更新 2013/08/22)