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「山上憶良」の「嘉麻三部作」


 「山上憶良」が「筑前国守」として「筑紫」滞在中「嘉麻郡」(現福岡県嘉麻市)で「山沢に亡命」している人々に対して「子供のこと考え」投降する事を促す歌を書いています。これは「七二八年」のことです。

 「山上憶良」は「貧窮問答歌」など、庶民の目線で歌を作りました。後の「藤原定家」などは和歌のことを「山柿の道」と言いましたが、「柿」は「柿本人麻呂」を指し、「山」は「山上憶良」を指すといわれています。
 その彼が作った歌に「嘉麻三部作」と呼ばれているものがあります。「山上憶良」が「筑前国守」として赴任しているとき「嘉麻郡」(現在の福岡県嘉麻市)に赴いて作ったと詞書きがあるものですが、その作品は子供や家族のすばらしさを歌ったもので広く世に知られています

 「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉も何にせむに勝れる宝子にしかめやも」と歌い、あるいは「父母を見れば尊し妻子見ればめぐしうつくし世の中はかくぞことわり」とも歌っています。また、「ひさかたの天路は遠しなほなほに家に帰りて業をしまさに」とも歌い、家業を全うすることを説くと共に、「咲く花の移ろいにけり世の中はかくのみならし」であるとか「常磐なすかしくもがもと思へども世のことなれば止みかねつも」などと、人生の短いことを歌い、元の自分に戻る事を説いています。

 彼は、この歌を「嘉麻郡」で選定しているわけですが、その理由はこの地に「山沢に亡命」している人々がいたからでしょう。(歌の中でも「亡命」という用語が使用されています)
 彼らに対し、子供や家族を考えて元の家業に戻るよう、説得しているのです。人生は短いので早く復帰しましょうと呼びかけているのです。
 この「山沢に亡命」している人々というのは、『続日本紀』の慶雲四年(七〇七)七月、元明天皇即位の宣明にある「軍器を携え山沢に亡命する人々」のことと思われます。
 この詔は「文武天皇」の「喪」に際し、「大赦」を行った際に呼びかけたものであり、「軍器」つまり、「武器」や「旗」など、戦争のための道具を持って「亡命」している人々に対して、「百日以内に降伏しないと罰します(大赦は適用しません)」というものです。(和銅元年「七〇八年」正月、養老元年「七一七年」十一月の詔にも同様な文があります)
 この「詔」はある意味大変「温情」のあるものであったと思えます。「軍器を携え山沢に亡命する」ことは「即座」に「反乱」ですから、見る聞くなしに大罪であり、「恩赦」の対象外であるのが通例と思われますが、この「詔」ではある意味「粘り強く」投降を待っているわけです。このことは「旧倭国勢力」に対して「強圧的態度」はなるべく取りたくない、という「政策」を採っていたものと思われ、強い態度で臨むことで逆に彼らに対する「同情」を買ってしまったり、彼らを「英雄」にしてしまうようなことを避けようとしていると考えられ、同調する勢力が出てこないように気を遣っているのがわかります。

 「山上憶良」がこのような「子供のこと考え」投降する事を促す歌を書いたのは新日本国王朝(近畿王朝)が「隼人征伐」を行った翌年の「七二八年」ですから、「隼人征伐」が終わった後も「軍旗や武器」を所持したまま、山野に亡命していた人々がいたのだ、ということがわかります。ある意味このような人々は「節に殉じる」精神を持った人々だったのでしょう。彼らに対してはなまなかな対応では彼らの反乱を抑え込めないと考えたと推察され、彼らに対する新政府の対応は「穢多」と言う身分制の中に落とし込み、差別の中で徹底的封じ込めを行うことだったのです。


(この項の作成日 2011/01/22、最終更新 2012/10/25)