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白山と阿蘇山


 被差別部落の分布と「白山信仰圏」が重なると言う指摘があります。(水野孝夫「泰澄と法連」『古田史学会報』74号 2006年6月6日) この水野孝夫氏の研究により「白山信仰」とその中心人物である「泰澄法師」の実在性が疑われています。この「泰澄法師」と相似形を成すのが「宇佐」の「法蓮上人」であり、これは「白山」と「阿蘇山」の入れ替えと考えられるというわけです。

 「白山」信仰は中世以降の被差別部落に象徴的ではありますが、起源としては実はかなり古いものです。「白山」は「泰澄大師」という人物が開いたという伝説になっています。
 「泰澄大師」とは「越の大徳」とも称され、七〜八世紀にかけて活躍したとされています。しかし、彼に関する説話は正中二(一三二九)年の「泰澄和尚伝」が最古の文献だと云われているのです。つまり比較的「新しい」というわけです。
 彼については「越後の国の泰澄法師が、『阿蘇』神社に詣でて祈念加持していると九頭の竜が現われ、泰澄が怒って、畜竜の身を以って此の霊地を領せんや、と叱ると金色の千手観音が池上に現ず〜」という説話が書かれている文献もありますが(※)、この話によく似た話が「元亨釈書」(巻十八)にあります。(以下当該部分)

「…澄乃登白山天嶺絶頂、居緑碧池側、持誦專注。忽九頭龍出池面。澄曰、是方便現體。非本地眞身。持念彌確。頃刻、十一面觀自在菩薩、妙相端嚴、光彩赫熾。澄稽首禮足、白言、像末衆生、願垂救拯。于時菩薩搖金冠、瞬蓮眼而許之。拜不畢三、妙體已隱。澄又渡左澗、上孤峰値一偉丈夫。…」

 これによれば、「養老元年」(七一九年)「泰澄」が「白山」頂上の「池」の辺りで念誦していると、池中から「九頭竜」が出現し、「泰澄」がこれは「方便」であって「本地」は異なると言うと、その後言葉通り「十一面観自在菩薩」として現れて、とされているようです。この二つの説話は場所が「阿蘇山」と「白山」と違うだけで他は非常によく似ています。
 このことから「白山」と「阿蘇山」の「入れ替わり」ではないかとも考えられ、別の場所の別の人物の伝説が同一視されるようになったという可能性があるでしょう。つまり二つの山とその領域で「泰澄」に重なる人物が存在していたことを示すものと言えます。

 ところで、ほぼ同じ時期(七〜八世紀)に活躍した人物に「法蓮上人」という人がいます。彼は「宇佐八幡宮」の「巫僧」だったとされます。「巫僧」というのは「巫女」と同様「祈祷」などを行い「神」の言葉を伝える役目の「僧」をいいます。
 彼は「八幡神宮寺」(「弥勤寺」)の別当であって、九州最大の修験道場「彦山」(英彦山)にも深く関わった人物と言われています。
 当時は神社に附属する寺院あるいは寺院に附属する神社、というような組み合わせはかなり多くあったと思われ、仏教の日本における初めから「神仏」が「習合」していたものと考えられます。
 彼はそのような仏教とも「神道」ともどちらかとは言えないような宗教的環境にいたものと考えられます。
 彼についての記録は『続日本紀』の「大宝三年」(七〇三年)の条に「褒賞」記事があり、「豊前国」の土地四十町を賜わったと書かれています。さらに養老五年(七二一年)条にも「彦山修験者の山岳修行集団の頭梁として統率し、しかも医術に精通して、治民の苦しみを済度した」として、「宇佐君」の姓を賜わったと書かれています。(以下の記事)

「文武三年(七〇三年)九月癸丑条」「施僧法蓮豊前國野■(四十)町。■医術也。」

「養老五年(七二一年)六月戊寅条」「詔曰。沙門法蓮。心住禪枝。行居法梁。尤精医術。濟治民苦。善哉若人。何不■賞。其僧三等以上親。賜宇佐君姓。」

 この「褒賞」についてはその三年前に「僧正」である「義淵法師」を長とする「僧綱」(僧尼管理組織)に対して「優秀」な「僧尼」について推挙するように要請しており、これに応えたものという説もあります。確かに、この「要請」に対してその翌年には「神叡法師」と「道慈法師」に対して「宜施食封各五十戸。並標揚優賞。用彰有徳。」というように顕彰の詔が出されています。

「養老二年(七一八年)冬十月庚午。太政官告僧綱曰。智鑒冠時。衆所推讓。可爲法門之師範者。宜擧其人顯表高徳。又有請益無倦繼踵於師。材堪後進之領袖者。亦録名臘。擧而牒之。五宗之學。三藏之教。論討有異。辨談不同。自能該達宗義。最稱宗師。毎宗擧人並録。…。」

「養老三年(七一九年)十一月乙夘朔条」
「詔僧綱曰。朕聞。優能崇智。有國者所先。勸善獎學。爲君者所務。於俗既有。於道宜然。神叡法師。幼而卓絶。道性夙成。撫翼法林。濡鱗定水。不踐安遠之講肆。學達三空。未漱澄什之言河。智周二諦。由是。服膺請業者已知實歸。函丈■教者悉成宗匠。道慈法師。遠渉蒼波。覈異聞於絶境。遐遊赤縣。研妙機於秘記。參跡象龍。振英泰漢。並以。戒珠如懷滿月。慧水若寫滄溟。儻使天下桑門智行如此者。豈不殖善根之福田。渡苦海之寳筏。朕毎嘉歡不能已也。宜施食封各五十戸。並標揚優賞。用彰有徳。」

 さらに「養老五年」にも沙門行善と沙門道藏を顕彰する「詔」が出されています。

「養老五年(七二一年)六月戊戌条」
「詔曰。沙門行善。負笈遊學。既經七歳。備甞難行。解三五術。方歸本郷。矜賞良深。如有修行天下諸寺。恭敬供養。一同僧綱之例。又百濟沙門道藏。寔惟法門領袖。釋道棟梁。年逾八十。氣力衰耄。非有束帛之施。豈稱養老之情哉。宜仰所司四時施物。■五疋。綿十屯。布廿端。又老師所生同籍親族。給復終僧身焉。」

 これらは確かにその長年の修行の成果に対するものであり、「僧正」である「義淵法師」の推挙として納得しうるものですが、しかし「法蓮」場合、記事をよく見ると「食封」ではなく「君姓」を下賜するというものであり、しかもそれは「三等以上の親」に対しても適用するというのですから、「僧尼」に対する褒賞としては異例であり、「破格」のものであったものです。これは「神叡法師」や「道慈法師」に対する褒賞としての「食封」とは性質が異なると思われ、彼の修行の成果やその持てる医術に対してのものだけではないと考えられるものです。
 そもそもそれ以前に既に彼は「豊前」に土地を与えられていますが、それについては「医術」に優れているという理由だけであり、それだけで「豊前」に「土地」の所有を認めるというのは不思議ではないでしょうか。
 これらについては折しも発生していた「隼人征伐」に対する「貢献」に対するものであったと考えることもできるでしょう。

 『宇佐八幡御託宣集』によれば、「養老三年」(七一九年)の「隼人征討」の際には「宇佐八幡宮」は「日本国王権」から「隼人征討」の可否を問われ、自ら行って「降伏」させようとしたとされています。

「…元正天皇五年養老三年癸未大隅日向両国隼人等襲来一擬打■日本国之間四年甲申公家被祈申當宮之時神託「我礼行而可降伏志者」豊前守正六位上宇努首男人奉官府令造進神輿之時白馬自然来令副御輿弥信仰…」
 
 その後(『八幡宇佐宮御託宣集』によれば)「八幡神」は「法蓮」・「華厳」・「覚満」・「体能」達を派遣し、「水に竜頭船を浮かべ、地に獅子・狛犬を走らせ、空に鷁鳥を飛ばせ、二十八部衆を繰り出して細男(サイノオ)に傀儡舞を舞わせ、これに見とれて城を出てきた隼人らを殺戮した」とされます。
 つまり、この時の「新日本国」王権は「宇佐八幡」の「九州」の人々に対する信仰の力を利用しようとしたのだと思われます。その要請に応え、「宇佐八幡」は(実質的に「法蓮」が先頭に立っていたと考えられます)戦闘に参加したものでしょう。
 しかし、その結果多くの「南九州」の人々の命が失われることとなったのです。「法蓮」達はこれに心を痛め、「隼人」が多く殺されることを防げなかった「罪滅ぼし」として「放生会」を始めたと言われています。(『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、戦いの後「聖武天皇」から勅使が来て都に行ったとされますが、このとき「放生会」のことを伝えたものらしく、「聖武天皇」も「仏教人」としてそれに同調し、国家としての「放生会」を行うこととなったもののようです。)
 「放生会」の起源の真偽はともかく、この時「宇佐」の勢力が「戦闘」に加わっていたことは事実でしょう。

 ここで「隼人」達の信仰の中心に「宇佐八幡宮」がいたと言うことを推定したわけですが、それは取りも直さず「倭国王権」に近い位置に「宇佐八幡宮」がいたことを意味するものであると思われます。しかし、そのような彼らは「法蓮」が「日本国王権」から「七〇三年」という段階で「顕彰」されていることでもわかるように、「旧倭国勢力」の中では、早期に帰順した勢力であり、彼らは抵抗する仲間を説得する役割か「おびき寄せる」手段として使われたのではないかと考えられます。
 この地域の人々の、「宇佐神道」とその先頭に立っていた「法蓮」に対する「敬意」と「信頼」は強いものであり、これを「日本国王権」が利用しようとしたものではないかと考えられ、その結果「隼人」鎮圧に成功した「新日本国王権」は「法蓮」に対して「宇佐君」姓を名乗ることを許したというわけです。
 それは「褒賞」であると同時に「法蓮」達「宇佐八幡宮」に対して、「裏切り」は許さないという一種の「質」でもあり「証拠造り」でもあったと思われます。「体制」に組み込むことで「動き」を取れなくして「絡め取ってしまう」という意図があったものと思料します。

 このように「法蓮」は実際には「豊前」に拠点があり、「宇佐八幡宮」とその信仰圏の中心にいた人物であると考えられますが、それに対し「泰澄」は「別」の場所にいた「別」の人物であると考えられるわけです。
 「法蓮」については上に見るように『続日本紀』など公的史書に彼についての事績が明確に書かれているのに対して、「泰澄」については全く残っていません。彼が現れるのは上に見たようにかなり後代に至ってからの文書類です。
 『続日本紀』が書かれていた時代は「八世紀」代であったと考えられ、「法蓮」や「泰澄」にとっては「同時代史書」であると言えるでしょう。その中に登場しない「泰澄」という存在がかなり怪しいと考えるのは「当然」とも言えます。このことから判断して「泰澄」の事績が「架空」であり、「法蓮」の事績の「コピー」ではないか、と言う疑いが強いといえます。
 つまり、「加賀」−「白山」の「泰澄」伝説というものは、「豊後」−「阿蘇山」の「法蓮」の事績をそのまま移し替えたものではないでしょうか。(上に挙げた「九頭竜」の伝説などがそのコピー化の最たるものといえます)
 
 では、なぜコピーの話が作られたのか、なぜオリジナルの「法蓮」の話が流布されなかったのか、なぜ「阿蘇」の信仰がそのまま受け入れられず、「白山」に変えられたのかということが疑問になるところです。
 それは彼への信仰が、「阿蘇山信仰」(宇佐神道)の中に位置づけられるものであり、「守墓人」となった南九州の人々にとってみると、その「法蓮」や「宇佐」神道などは彼等の信仰の中心であったと考えられるのではないでしょうか。
 反乱勢力が「信仰」を一つにすることにより結束するのは、中世から江戸時代までの農民一揆を見るとよくわかります。彼らの結束力の一つは明らかに信仰です。それは「弥勒信仰」であったり、「法華経」であったり、「一向宗」であったりするわけですが、人々を固く結びつつける力があることをこの時の「日本国王権」は知っていたのでしょう。そのため「阿蘇山」と「法蓮」に関わる信仰が「禁止」とされたのではないかと推察されます。
 「守墓人」となった「南九州」の人々は「法蓮」の事績をあからさまに語ることができなくなったため、「ほとぼり」がさめた頃に(といっても五百年ほど経過していますが)場所と名前を変えたものが造られ、伝えられたものと考えられます。それが「泰澄」と彼が関係している「白山」信仰というものであったと見られるわけです。


(※)天本孝志「九州の山と伝説」葦書房一九九四年


(この項の作成日 2011/01/22、最終更新 2013/08/22)