「部落」の分布と「古墳」の分布とが非常に近似している、と言う指摘があります。(※)
またそれは特に「古墳」の中でも特に「前方後円墳」との対応が最も考えられるものでもあります。「前方後円墳」は東北地方にもほとんどありません。また、「被差別部落」も非常に少なく、都市部にわずかに存在しているだけです。しかしこれは、後に封建時代に発生したものであるようで、古代に遡るような古いものではないようです。
「被差別部落」とそれに関する問題は圧倒的に関東や近畿に多く、しかも農村部に多いのです。(現在では「部落分布図」というようなものはなかなか入手できません。それは「差別」の強化に使用される恐れがあるからです。)
従来全ての「被差別部落」は「封建時代」に「領主」により造られた、と言われていたものです。たとえば「室町時代」付近での発生を考えているのが定説のようです。しかし、それでは「前方後円墳」の分布と一致する理由が不明になります。
「前方後円墳」の分布に重なる、ということを素直に解釈すると、「前方後円墳」が少なくとも「七世紀初頭」以降全く造られなくなるわけですから、「被差別部落」(の原型)が発生したのは「飛鳥時代」の以前にまで遡るものである、というように考えざるを得ないものです。
「飛鳥時代」と言うことから考えて、被差別部落の起源は「奴婢」という考えもあり得るでしょう。しかし、これは違うと思われます。それは「被差別部落」の歴史と「奴婢」の状況が重ならないからです。
「奴婢」は「良民」と生活空間が同一であり、共に暮らしていたものです。これは「被差別部落」のように、他の人たちと住む場所までが違う、生活圏も行動圏も異なるということはありませんでした。明らかに「被差別部落」の(中世以降の)現状と奈良時代の「奴婢」とは異なっているのです。
「前方後円墳」と共に存在しているという事実から帰納される推測は、「被差別部落」の起源は造成された「古墳」を維持管理する「守墓人」にある、といえるのではないでしょうか。
古代中国でも朝鮮半島の各国も歴代の王墓の「守墓人」というものを定めてきました。そして、この「守墓人」には、原則として「戦争捕虜」を充てたのです。
しかし、倭国の場合、『書紀』などによっても、「対外戦争」というものはほとんど発生していません。神代の昔は別ですが、「前方後円墳」は神代の時代のものではありません。全て「五〜七世紀」のものなのです。しかし、この期間に捕虜が発生するような「対外戦争」は「全く」行っていないと思われます。「白村江の戦い」などで、唐の軍人などを捕虜にしていますが、これはそもそも時期が違います。また「守墓人」に充てたという記録もありません。
「新羅人」などが倭国に来た例はありますが、これは「渡来」であり「捕虜」というわけではなかったものです。また、彼らの多くは、東日本の各地に移住させられています。
また「東国」を支配下に収めた際に「蝦夷」からかなりの人数を移住させたらしいことは推測できますが、彼らは「古墳」の近くではなく「瀬戸内沿岸」等に配置させられたものと見られ、「部落」の分布とは異なる地域に居住していたこととなっています。
そうしてみると、「守墓人」はどこから調達したのかという疑問が湧きます。
「守墓人」とされる「捕虜」が発生するような「対外戦争」は実は「七世紀」半ば以降に「国内」で行われたのです。
それは「日本国」と「倭国」の戦争だったのです。というより、正確に言うと「日本国」と「倭国」の残存勢力ともいうべきものの間で行われた戦闘行為でした。「倭国」から「日本国」は事実上「禅譲」でしたが、それに納得できない勢力が特に「九州」の各地にいたと見られ、それは主として「薩摩」「肥」など「南九州」地域の人々がその主役であったものです。この戦いは最終的に、「筑紫諸国」の戸籍の原本が「新日本国王権」に渡り、それにより「隼人」達「戦争捕虜」の氏名などが把握できたことにより、「戸籍」から「削除」する事も含め、彼ら南九州の人たちに対して「処分」が下されたものであり、それは「守墓人」への道だったのです。(「守墓人」は通常の戸籍には登録されず「陵戸」という特別の戸籍で管理されていました)
そもそも「前方後円墳」の「性格」は本来「九州倭国王権」が「近畿」等の地場の実力者達に造成させたものと考えられますが、それは一旦「磐井の乱」以降「衰微」したものであり、それを「廃絶」させ新たに「小型」の「方墳」ないし「円墳」を造るように指示した「王権」は「九州倭国王権」ではあったものの、一種の「革命王朝」であったと見られ、前代の「権力」と「制度」を否定していたことが窺えます。
これは『隋書』に書かれた「阿毎多利思北孤」の「王権」と考えられますが、この「王権」はその後「七世紀半ば」に「近畿王権」(これが「新日本国王権」と考えられる)に禅譲したものであり、それ以降「旧倭国勢力」に対して厳しい政策をとったものと見られ、その結果それに従わない「旧王権(革命政権)」の支持者達を「守墓人」としていったものと思われます。
この「新日本国王権」側が特に恐れたことは(「旧」革命政権)の支持勢力が「反乱」を起こすことでした。もしその様な事が起きれば、それに対し「追随」し、反旗を翻す勢力が発生するような事態が続きかねず、そのようなことを極度に恐れたものと見られます。
彼ら南九州の人達は禅譲を受けた「新王朝」によりそれまでの諸制度が変更になった後もそれに従わず、使者やその地域の長官などの受け入れを拒み「自治」を行っていました。このようなことが「律令制政治」を進めていく上で許されるはずがありません。「新日本国王権」の姿勢は「新しい」「律令」を貫徹させることを目的としていましたから、それに従わない、それを受け入れないなどと言うことを決して許さなかったのです。ですから、執拗に抵抗してきた彼らを「服従」させるのが困難である、と知った時、決して反乱など起こさせないように、「未来永劫」「守墓人」として「奴婢」の「さらに下に」(あるいは「外」に)置いたのです。
当然この地位は世襲でした。反乱分子の子供も反乱分子なのですから、一族みな「未来永劫」守墓人とされたのです。
考えてみれば、どんなことをしたら時の政府から「未来永劫」「子々孫々」守墓人にされることになるのでしょうか。それは「国家反逆」の罪ぐらいしかないのではないでしょうか。しかも後の「一揆」のように「組織」と言っても「あり合わせ」のようなものと違って、本格的なものが整っていた中でのことでしたから、それに対する「弾圧」が「激しいもの」にならざるを得なかったといことも容易に推測できるものです。
(※)古田武彦「『古代史と国家権力』津田史学を批判する」「情況」一九九三年月四月号
(この項の作成日 2011/01/23、最終更新 2013/08/19)