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「北方異民族」に対する対応の年次について


 『日本後紀』には「秋田城」が「建置」されてから「四十余年」という表記があります。

『日本後紀巻十二』
「延暦二十三(八〇四)年十一月癸巳条」「出羽国言。秋田城建置以来■(四十)餘年。土地埆。不宜五穀。加以孤居北隅。無隣相救。伏望永従停廃。保河辺府者。宜停城為郡。不論土人浪人。以住彼城者編附焉。」

 このことから「建置」されたのは「七六〇年付近」つまり「天平宝字年間」のこととみられることとなりますが、この記事については本来は「光仁天皇」の「宝亀年間」の記事であったとする研究があります。(長井行氏の論※)
 それによれば「天平年間」に「出羽柵」を「秋田村」に遷したという記事があること(下記)を「秋田城」設置の記事と捉える訳ですが、それであれば設置年月としてかなり年次の誤認があることとなります。その原因として彼は「日付干支」の錯誤を挙げています。つまり『日本後紀』では「十一月癸巳」が「二十二日」としているわけですが、同様に「十一月二十二日」が「癸巳」である年次を検索すると、「七七四年」(宝亀四年)という年次が相当するという訳です。(というより他に該当する年次は存在しないことが重要な論点である訳です)
 そしてこの年から「四十余年」前は(これを四十一年と考えると)「七三三年」となって、「出羽柵」を「秋田村」へ遷したという記事の年次に重なるというわけです。

「出羽柵遷置於秋田村高清水岡。又於雄勝村建郡居民焉。」「(天平)五年(七三三年)十二月己未条」

 このような理由から「秋田城」の設置年代として「七三〇年」付近が想定されるという訳であり、「年次」として「三十年近く」移動されているということとなってしまいます。このような想定が正しくないとする、「秋田村」へ「柵」が遷されてから「秋田城」として設置されるまで三十年ほど経過する意味を明確にする必要があるでしょう。

 ちなみに「柵」「城」は「天平」以降「天平宝字」の時代まで(つまり「聖武」の治世期間内)では全く混用されていますが、それ以前には「柵」しか出現しません。つまり「出羽柵」を「秋田村」に遷した訳ですから、それは「出羽柵」というより「秋田柵」と呼称すべきものとなったと思われますが、すぐには「秋田柵」あるいは「秋田城」という呼称は出現しません。それは「出羽」という地名が「点」としてのものではなく、地域名として使用されていたことからこれが「通称」としてその後も使用されていたと思われます。それは以下に見るように「天平九年」の「大野東人」の「言上」した中にも「出羽柵」という呼称が使用されていることからも推定できるものです。

「(天平)九年(七三七年)春正月丙申条」「先是。陸奧按察使大野朝臣東人等言。從陸奧國達出羽柵道經男勝。行程迂遠。請征男勝村以通直路。…」

 つまり「秋田城」の前身は「出羽柵」であり、それが「秋田城」として認識される原点は「秋田村」への移転以降であると言うのはある意味当然であるわけです。そして「出羽」という地名に対して「秋田」という地名に重要性が相対的に増して以降「秋田」が名称として冠せられることとなったものと思われます。しかし「建置」以来という言い方から考えると、「秋田城」の起源はやはり上に見る「天平五年」が最もふさわしいと思われます。つまり「秋田城」の起源としては「長井氏」の議論に正当性があることとなると思われます。そう考えると、実際よりもかなり古い時期から「蝦夷」に対する政策が進行していたこととなります。
 「蝦夷」という北方異民族に対する政策としての「秋田城」の存在意義は「天平年間」以降有効であったと思われますが、『続日本紀』では「天平宝字元年」付近で「対蝦夷」という政策においてかなり大きな方針変更があったように書かれているわけであり、時期として齟齬しています。
 たとえば「柵」(き)の「構成要員」の変遷があります。この「柵」は「七五七年」(天平宝字元年)以降と以前ではそこに充てる「柵戸」(きへ)の構成に明らかな違いが見られるのです。
 それまでは「戸数」表示であり、また「良人」で構成されていたのに対して、「天平宝字元年」(六五七年)以降は「人数」表示となり、また「浮浪人」や「罪人」などがその主要な構成員とされているのです。(この二つは当然関連しています)
 「柵」は「蝦夷」への統治・支配との関係を強化していく中で設置されたものであり、当時は「蝦夷」の「馴化策」として積極的な意味づけがあったと思われるものの、その後「蝦夷」の馴化が困難と判断した後は、「流罪」と同じ扱いとされ、「浮浪人」を「放逐」する先として「柵」を考えたものと思料します。
 従来からこのようなドラスティックな政策変化が「天平宝字年間」に現れる理由について諸論がありました。しかし、大方は「奈良麻呂の乱」以降「政権中枢」に座った「藤原仲麻呂」の改新策の一環という理解が主であり、このようなものはいわば『続日本紀』の記述をなぞっただけのものといえますから、事実解明とはほど遠いものであったといえます。
 しかし、これらは『続日本紀』が「七世紀半ば以降」の「六十年間」を記述したものと理解すると整合するのではないでしょうか。
 そう考えると「秋田城」の建置は「六七〇年代」付近のこととなりますが、これは「蝦夷」など東北地方統治に対する姿勢としては整合しているといえるのではないでしょうか。

 それに関連して『続日本紀』には「出羽柵」に「武器」を運んだという記事がありますが、それ以前に「出羽郡」を「建置」するという記事が見えます。

「和銅元年(七〇八年)九月丙戌条」「車駕還宮。越後國言。新建出羽郡。許之。」

「(和銅)二年(七〇九年)秋七月乙夘朔条」「以從五位上上毛野朝臣安麻呂爲陸奥守。令諸國運送兵器於出羽柵。爲征蝦狄也。」

 つまり「郡」を建てるためには既に「柵」が造られ、人が配置され「統治」の実務が行なわれているべきである訳ですが、前段として当然あるべき「柵」の設置記事が欠落している訳であり、それは明らかに『書紀』の年次範囲の記事として存在していなければならないと考えられるものですが、『書紀』には(全く)書かれていません。 これについては「…たまたま順序が逆になって史料にあらわれているだけのこと」という見解が主流のようですが、到底納得できるものではないのは当然です。
 また上の記事では「郡」設置については「越後」からであるのに対して、その「翌年」とされる「柵」設置記事では「陸奥守」に対して「武器」などを「出羽柵」に運ばせ「蝦狄」を「征」させています。つまり「上毛野国」から「出羽」地域への進軍を命じている訳ですが、これは距離の問題もありその後「越後国」へ統治管理が移管されたと考える事ができるでしょう。
その意味でも年次が逆転している可能性があると思われるわけです。


(この項の作成日 2013/11/27、最終更新 2017/10/16)