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養老令の成立の「遅れ」


 既に見たように『大宝令』に変えて『養老令』を施行したとされますが、この「改定」作業が始まったのは「七一八年」(養老二年)とされているのに対してその施行は「孝謙天皇」の時代のことですから、施行まで「四十年」も経過している事となります。「常識的」に考えて、これは長すぎるのではないでしょうか。
 少なくともその内容が『大宝令』と余り異ならないとすると、そのような長期間の編纂期間というのは考えにくいものであり、何らかの事情が考えられるものです。
 もっとも「改定作業」が始まったのは「養老年中」とする文献もあり「二年」(七一八年)と決まったわけではないと言われているものの、それはさほどの違いではないと思われます。いずれにせよ「改定作業」事態がいつ終わったのかが明確ではありませんが、実態として大幅な改定ではなかったとすると、改定作業自体は急速に進捗したと見るべきでしょう。そうであれば「施行」までの時間の経過は「政治的」なものと考えざるを得ないわけであり、これは「藤原仲麻呂」により施行されるまで「お蔵入り」であったとする理解が大勢であるわけではありますが、施行するまでに「異様な」長さの期間を必要とした理由は何であったのでしょうか。

 ところで、「日本後紀(逸文)」では『続日本紀』の編纂に関する記事において『「文武」から「聖武」までがすでに完成している』と書かれています。
(以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。)

『日本後紀』巻三逸文(『類聚国史』一四七国史文部下)
「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」
「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。…國史之墜業。補。帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。…」

(以下訓読)
「右大臣從二位兼行皇太子傅・中衞大將藤原朝臣繼繩等の、勅(みことのり)を奉じて國史を修め、成る。詣(けい)を闕(か)き拝表をして曰はく「…高居の?(い)を負ひて、廣慮の旒(しるし)を凝(こ)らし、國史の業の墜(うしな)ふを修め、帝典の欠文を補ふ、爰(ここ)に命(みことのり)して臣を與げ正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道・少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等に、次の其の事を銓(はか)らせしめ、以つて先典を繼がせしむ。若(けだ)し夫れ、襲山の基を肇(ひら)くを以つて降(の)ち、清原御寓の前、神代の草昧(そうまい)の功、往(いに)しへの帝の庇民の略、前史の著すところ、燦然として知るべし。除(さず)くる文武天皇より聖武皇帝までの、記する注は昧(くら)からず、余(あま)す烈(れつ)は焉(ここ)に存(あ)る。但し宝字より宝亀に至る、廃帝の受禪、策を簡する遺風を、南朝の登祚の從湧において茂實を闕(か)く。…」

 つまり『続日本紀』としては「文武」から「聖武」までは問題なく書かれているもののそれ以降(「(天平)宝字」以降)については「不完全」であるというわけです。つまり「先典」に引き続き『聖武紀』までは完成しているとする訳であり、このことから『日本紀』と、『続日本紀』のうち『聖武紀』までの成立時期は接近しているあるいは同時であったという可能性が考えられるところです。
 そのことから考えて『文武紀』が実際には「七世紀半ば」の「倭国王」についての事跡を記したものとするならば、『聖武紀』についても同様にもっと早い時期(「八世紀初頭」か)について書かれているという可能性が考えられるわけです。そうであれば『聖武紀』とそれ以降(「淡路廃帝」以降)では「時代の位相」が異なっていると見ることができるのではないでしょうか。つまりそこには実は時代の「断層」が存在している可能性があると思われるのです。そして、『養老令』の施行にもそれは言えるのではないかと思われる訳です。

 『養老令』の編纂(改定)は『大宝令』の内容の小規模な改正と変更であったとされますが、最も大きな違いは『大宝令』が「呉音」前提で書かれていたものを「対唐」政策という観点から「漢音」主体として書き直すという作業がメインであったものではないかと推測されます。動機としてはこの点が最も考えられるものでしょう。「遣唐使」を派遣し「唐」の制度・文化を導入していった中で、「唐」の都(長安)の発音を基準とすることが強く求められる情勢となったものと思われるわけです。
 対唐という観点で考えると、「呉音」が使用され「南朝系条句」が用いられていたものをいつまでも人の目に触れさせるわけにはいかないはずです。まして「音博士」などがおりながら「漢音」を基準音としなかったとするならそれはよほど不審なことであり、既に存在していた『大宝令』を「漢音バージョン」とでもいうべきものへと作り替える必要があったと見られます。
 そうであればその編纂(改定)作業はそれほど期間を要しないと考えられますから、『孝謙紀』などではなく、もっと早期の時代に完成していたということを想定する必要があるでしょう。それが『孝謙紀』冒頭に書かれているのはそこまで年次が「移動」させられるという「潤色」が施されたことを示すものであり、『大宝令』と通常思われている「七二〇年」付近の律令編纂事業は実は『養老令』に関するものではなかったかという事が疑われるものです。

 既に述べたように、『大宝令』に「呉音」など「南朝」に関わる要素が多かったとすると、『大宝令』の成立がもっと早かったと推測されるものであり、そうであれば「七〇〇年」付近とされている「律令編纂事業」は実は『養老令』に関わるものではなかったかと考えられることとなるでしょう。
 それを示唆するように『大宝令』の編纂に「藤原不比等」が関与しているあるいは彼の主な業績の一つが『大宝令』の編纂であるという理解が一部資料に書かれていますが、その事も『大宝令』と『養老令』の意図的混乱に関連していると考えることができるでしょう。
 (「弘仁格式」の「序」には「…爰逮文武天皇大宝元年不比等奉勅撰律六巻令十一巻…」とされています)
 しかし、『書紀』などでは『大宝令』は「不比等」というより「刑部親王」が編纂事業の筆頭に挙げられており、少なからず齟齬があると思われます。

 『養老令』の内容に深く関連しているのが『永徽律令』であり「永徽律疏」であるということからも『養老令』の成立は実際にはかなり早かったという可能性を含んでいると言えます。これらは「六五〇年代」の成立であり、「遣唐使」はその至近の年次で(「白雉年間」及び「斉明紀」)送られているわけですから、「唐」の「暦」(戊寅(元)暦)の受容が既に行なわれていたと考えられることを併せると、この時点(六五〇年代)で「律令」について「唐」を模範として編纂するという事業が始まったとして不思議はないこととなります。
 つまり『養老令』は「天平宝字元年」のはるか以前から施行されていたのではないかと推測され、ただその施行について『続日本紀』の『聖武紀』中に書くことができなかったため、必然的に「孝謙天皇初年」に置かれたものと思料します。


(この項の作成日 2013/11/27、最終更新 2014/11/08)