「もみじ」を「紅葉」と表記するのは平安時代中期に始まっています。それまでは「黄葉」と表記していました。「紅葉」という表記は「唐」など「北朝」文化によるものであり、「黄葉」と表記するのは「南宋」など「南朝」文化によるものです。
「落葉広葉樹」は北回帰線(北緯23.5度)を境に増加し始め「温帯」に広く分布する書類の樹木ですが、秋になり「葉」を落とす際に「紅葉」します。この「赤み」の程度は「温度差」に深く関係しており、「日較差」、つまり、日中の最高気温と最低気温の差が大きくなればなるほどより一層「赤く」なります。
南朝の各王朝は「揚子江」の南側に首都があり、「温帯」の中でも南方に位置しているため、朝夕の冷え込みはさほどではありません。そのため「樹木」は「紅葉」と言っても「黄色く」なるだけです。このことが「黄葉」という字面の原因となっています。それに対し「北朝」の各王朝は現在の「北京」付近に中心を持つ文化であり、緯度は相当高くなり、「秋」にはかなり厳しく冷え込みます。このため、「樹木」は非常に色濃く「赤く」なるわけです。これによって「紅葉」という表記が似つかわしいものとなります。
「南朝」が「北朝」に滅ぼされ、中国が「北朝」系国家として統一されたのが「六世紀の終わり」「隋」によってです。それまでは「中国」を代表する「統一王朝」は「南朝」の各王朝であり、周辺諸国(朝鮮半島、倭国など)から「皇帝」として認定され、尊崇されていました。
五世紀の「倭の五王」の時代から倭国は「南朝」と深いつながりがあり、日本に漢字が導入され、上流貴族などで用いられるようになったときに、「もみじ」という言葉を表記する「漢字」としては「南朝」で使用されていた「黄葉」という用語を使用していたものと考えられます。
「北朝」が中国を統一した後も、「遣唐使」は何回か送られましたが、「倭国」は遠絶であることもあり、「唐」を自分たちの「宗主国」である、とは考えていなかったようです。「朝鮮半島」の各国は「隋」「唐」により「柵封」され、「従属国」として存在していたのに比べ、「倭国」は「距離」を保った関係を続けていたものです。
その後「唐」は「高句麗」征討戦の前段階として「百済」を征服し滅亡させますが、「倭国」は「百済」の要請を受ける形で「救援軍」を送り、結果的に「唐」と戦火を交えることとなります。この戦いは「百済−高句麗−倭国」連合軍の敗北に終わり、その後「半島」が「新羅」により統一されたため、「唐」との関係は途絶することとなりました。
その後「八世紀」に入ってから、「遣唐使」を送り「唐」と正式な国交を回復した後、「国内」に「北朝」文化が流入し始めます。しかし、その後も上流貴族の中で「もみじ」の表記には「黄葉」が使用され続けていたのです。
これと同じ動きを示すものが「梅」から「桜」への移り変わりです。
「花」と言えば現代は「桜」ですが、その前は「梅」でした。「桜」は「自生種」であり日本列島に古くから自生していたものですが、「梅」は「自生種」ではありません。中国から輸入されたものです。その渡来時期は「五世紀」代にまで遡るとも言われています。つまり、南朝文化の受け入れに積極的であった時期に「梅」も渡来したのではないかと考えられるわけです。ただし、余り広範囲には「花」として広まらなかったようで、『万葉集』の「東国」の人々の歌を集めた「東歌」には「梅」を歌った歌は全くありません。あくまでも「太宰府」周辺に非常に多かったわけであり、近畿の貴族の庭などにも少数植えられた程度であったものです。
「外来種」であったとすると、「人為的」な方法によらなければ多くの地域で見られるようになりません。そのような極々少数の人間しか見ることのできないような花である「梅」が「花」の代表となっていたわけです。この当時の「貴族階級」にとっての「花」が「梅」であったということは何を意味しているのでしょう。
『万葉集』に出てくる「花」は「梅」を指しますが、『古今集』では「桜」のことを意味しています。たとえば「あおによし、ならのみやこはさくはなの、におうがごとく、いまさかりなり」という歌がありますが、この歌は「筑紫」(「太宰府」)で詠まれたものであり、この中の「花」は「梅」なのです。
そして、ある時期から「花」と言えば「梅」ではなく「桜」となるのです。その交替の時期は「平安初期」と考えられています。たとえば平安京の紫宸殿の階段下左右に植えられていた「橘」と「梅」のうち「梅」が枯れた際に「仁明天皇」は「桜」に植え替えるように指示し、それ以降「梅」が植えられることはなかったものです。
『古事談第六』
「亭宅諸道
南殿櫻樹者本是梅樹也。桓武天皇遷都之時所被植也。而及承和年中枯失。仍仁明天皇被改植也。其後天徳四年《九月廿三日》。内裏焼亡ニ焼失。仍造内裏之時所移植重明親王《式部卿》家櫻木也。《件木本吉野山櫻木云々》橘木ハ本自所生詫也。遷都以前此地者橘大夫家之跡也。…」
「近畿」の文化人にしてみれば「梅」よりも周囲の野山に豊富にある「桜」に親しむ機会の方が多かったでしょう。そのことは「紅葉」の表記と同様であったと見られるわけです。
さらに、中国から伝わった「漢字」の発音は当初「呉音」が使用されていたものです。その後「八世紀」に入ってから「遣唐使」を送り、「唐」の文化の摂取を積極的に行うようになった結果、「漢音」を正式に公的文書などで採用することとなりました。しかし、日本の文化の中には「南朝」文化が根強く残っており、このため、「漢音」導入の後、「呉音」を駆逐するため、「呉音禁止令」が(複数回)出されました。それも「平安時代の初期」のことのようです。
このようにして、「平安時代」の始めに「古代」についての記録や表記についての「変革」があり、その大きな流れの中に「南朝」文化から「北朝」文化への移り変わりの「促進」があったと考えられます。これらを通じて考えることは「平安時代」の始めに「古き南朝文化」を拒絶する空気が宮廷内にあり、それが一般に波及していく、という事と理解できるでしょう。
では「何故」「南朝」文化を拒絶することとなったのでしょう。それは「南朝」文化が国内の「何か」と結びついていたものであり、その「何か」を排除するために必要な行動だったと考えられるものです。そてその「何か」、というのず「倭国勢力」だったのではないかと考えられるわけです。
「倭国」は古き時代の国号であり、遣唐使を送る八世紀以前の国号でもありました。倭国は「倭の五王」でもわかるように南朝文化を積極的に取り入れ、推進した国家でもあり、また仏教そのものも「南朝」が発信地であったものです。「百済」から取り入れた仏教も発信源は「南朝」であり、倭国は全面的に「南朝文化」に染まっていったわけです。
これを拒否し、「北朝」文化を推進することは「八世紀」以降の朝廷の主要な政策でもありました。「八世紀」に入ってからの一〇〇年ぐらいは南朝文化とそれの受け手であった「倭国」は消滅したかのように見えましたが、時が経つにつれ、「南朝」文化に対する抑圧は解け始め、復活するかのごとくに「嵯峨天皇」の目には映ったのでしょう。彼は『日本紀』を最編纂し、建国の事情を覆い隠すこととし、併せて、南朝文化の根絶を狙ったものと推測されます。これらのことに新日本国中枢が「盲目的に」邁進し、「呉音」で書かれたものや「南朝的事物」の「廃棄」・「隠蔽」政策を実施することとなったのです。
ところで「桓武天皇」や「嵯峨天皇」あるいはその後の「仁明天皇」などにおいては「先帝」として「天智」が特に尊崇の対象となりました。それまで「天武」の命日は「国忌」として廃務していたものが「桓武」以降軽視されるようになり「嵯峨」に至って完全に無視されるようになったものです。その代わり「天智」とその後の天皇である「白壁王」について「国忌」とされ「廃務」とされるようになりました。これらを重ね合わせて考えると、「天智」という存在は「倭国」や「南朝」とは異なる立場にいたらしいことが推察されます。つまり「天智」には「北朝」的な部分があったと言うこととなるでしょう。つまり彼は「国内」の既成勢力である「親南朝勢力」を打倒して即位したものであり、その本質として「北朝」に傾倒する部分があったこととなるでしょう。
(この項の作成日 2011/05/01、最終更新 2015/03/29)