『養老令』の注釈書として『令集解』という書があります。これは九世紀前半頃「惟宗直本」という学者が私的に注釈を加えたもので、公的なものではないためその解釈に法的有効性があるというわけではなくその点で公的注釈書である『令義解』とは性格が異なります。しかしこの『令集解』が貴重なのはその中に「穴」「師」などと省略される各種法制家の作と思われる「令私記」からの引用がある点で、これらはすでに失われているためそれらの記述から原本の状況が窺える重要な資料となっています。
今回『古賀達也の洛中洛外日記』の中で、以前正木氏が指摘された『伊豫三島神社縁起』の「番匠」記事の存在(註)について書かれていますが、たまたま私は、唐代に「顔師古」が注を加えた『漢書』が『令集解』に引用されていることを解析した論文(註)を見ていて、『養老令』中の「賦役令」の「丁匠」の条項を注釈した部分に「番匠」と関連するのではないかという記事があるのを見つけました。
以下は『養老令』の「丁匠」を定めた条文です。
「(賦役令24丁匠赴役条) 凡丁匠赴役者。皆具造簿。丁匠未到前三日。預送簿太政官分配。其外配者。便送配処皆以近及遠。依名分配。作具自備。」
この条項に対する『令集解』の解釈については、「釈云」「穴云」「師云」「朱云」「釈云」「古記云」というようにいろいろな説を引用して参考としているようです。(見やすくするため各説ごとに改行し、番号をつけました。)
「丁匠未到前三日。預送簿太政官分配。其外配者。便送配処。皆以近及遠。依名分配。謂。以近及遠者。仮令。大和国。紀伊国有造作事。応発関東民者。以美濃配紀伊。以尾張配大和之類也。依名分配者。木工金匠。執事不同。随其名実。色別分配也。
(一)釈云。以近及遠。仮有倭国木国造作之事。応役関東丁夫者。以三野夫配木国。以尾張夫配倭国之類。依名分配。謂名帳也。
(二)穴云。其外配者。便送配所者。
(三)師云。送丁匠也。(私思送簿配所也。但送簿者。丁匠亦然耳。以近及遠謂仮応在京営造者。先取幾内(畿内)人夫。次及外国之類。畿内雖无丁役。於雇役无妨。若両処可役者。依令釈習也。依名。謂依本国歴名也。)師云。依名者。木工鍛冶工等。依才名分配耳。
(四)朱云。便送配処者。未知何。若不送太政官。便送可役所歟何。依名分配者。未知何。
(五)釈云。依名帳者何。若依才能之名配歟何。
(六)古記云。其外配者。便送配所。謂西方之民。便配造難波官司(宮司)也。以近及遠。謂先番役近国。次中国。次遠国也。依名分配。謂依名簿。木工者配木工寮。鑑師(鍛師)者配鍛冶司也。注。器械。謂小斧鉢鍬鎌之類。漢書。師古曰。械者器之総名也。一曰。有盛為械。无械為器也。」
これら引用された説のうち「古記」を除けばいずれも八世紀末以降の成立と考えられており、それらは確かに『養老令』の注釈書といえますが、「古記」だけはその成立が「天平年間」(七三八年か)とされ、この時点では未だ『養老令』が成立・施行されていませんから(その成立は「天平宝字元年(七五七年)とされる)、この「古記」とは『養老令』の前身である『大宝令』の注釈書であると推定されています。
その注釈の内容においても「便送配処皆以近及遠」という部分について他の説では「関東の民」つまり「美濃」「尾張」の両国の人を「大和」「紀伊」両国での何らかの営造の際に徴発する意と解釈しているものがあるのに対して「古記」だけが「西方の民」であるとし、さらに営造の中身についても他の説が具体的には言及していないのに対して、「古記」は明確に「造難波官司(宮司)」としています。しかも「近国」から「遠国」へと順番に徴発する旨が書かれており、まさに「番匠」についての規定が『大宝令』の中にあったという明証と思われます。
ところで、「難波宮」のところでも触れましたが、『賦役令丁匠条』の注釈としての『令集解』の中に「古記」が引用され、その「古記」の注釈の中に聖武天皇により「藤原宇合」が難波宮造営の長官として任ぜられたのが「神亀元年」(六二六年)とされ、この「古記」はそこからやや遅れた時期に書かれものであることから、ここに挙げられている「難波宮」は「聖武」のいわゆる「後期難波宮」と理解するのが通例のようです。しかし「古記」が『大宝令』の注釈書であるならば、そこに書かれた文言や言及されたものは『大宝令』以前のものと見るのが相当ではないでしょうか。+
確かに「後期難波宮」の造営には多くの「雇民」が動員されたものと思われます。
(神龜)三年(七二六年)…冬十月…庚午。以式部卿從三位藤原朝臣宇合。爲知造難波宮事。陪從无位諸王。六位已上才藝長上并雜色人。難波宮官人。郡司已上賜祿各有差。
(同)四年(七二七年)…二月壬子。造難波宮雇民免課役并房雜徭。
(天平)四年(七三二年)…三月…己巳。知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上。賜物各有差。
ここでは「造難波宮雇民」「仕丁」とはあるものの彼らがどこの地域から徴発された人々なのかについては記載がないため不明であるわけすが、当然『大宝令』の規定により近国から徴発されたものと思われます。それを示唆するのが「恭仁宮」造営時の『続日本紀』の記事です。
天平十三年(七四一年)…九月辛亥。免左右京百姓調租。四畿内田租。縁遷都也。
…丙辰。爲供造宮。差發大養徳。河内。攝津。山背四國役夫五千五百人。
ここでは「役夫」として「大養徳。河内。攝津。山背」の四ヶ国から「五千五百人」という人員が徴発されており、これは「先番近国」という「古記」の注釈に沿っているように見えます。しかしこの「四ヶ国」は「古記」にいう「西方の民」というわけではありません。「近国」から「遠国」という基準の中で最初に徴発されたのが「四畿内」であったということと「古記」のいう「西方の民」という注釈と整合していないわけです。
「近国」から「中国」さらに「遠国」という「交番制」は中央からの指示・指令の出しやすさ、届きやすさ、到着に要する日時などを考慮したためであり、まず近隣の国から動員した方が合理的であり、工期全体としても短縮できることを考慮したものと思われますが、「古記」がいうように「後期難波宮」造営の際に特に「西方の民」を徴発したとすると、同時に「先番近国」という順序とはなり得ず、ここに一種の「矛盾」が呈されるわけです。そのことはこの「古記」の示す注釈の対象としては「後期難波宮」造営も「恭仁宮」造営もいずれも全く合致しない状況であったこととなります。
そもそも「古記」は『大宝令』の注釈書というより研究の書であったといわれており、そこでの表現が具体的に表すものについても(特に指定がない限り)『大宝令』成立時点以前の状況を視野に入れたものと見るべきと思われるわけであり、「施行時」ではなかったはずと考えるものです。
『大宝令』そのものがその成立過程の中心時間帯として「七世紀代」が想定されるわけであり、そう考えるとその条文についての注釈や研究の土台となったものも同様に「七世紀代」を想定していたとして当然といえるでしょう。そうであればこの条文についての注釈は実際には「前期難波宮」の造営という事業の実施を念頭においたものと見るべきではないでしょうか。
もし『大宝令』以前つまり「七世紀代」に「近畿」に「難波宮」を造営しようとして、「西方の民」を徴発してなお「近国」から「遠国」へという表現の合理性を保とうとすると、その主体(政治中心)が「九州」など列島西方にあったと仮定する必要があると思われます。その場合「九州」という王権のお膝元周辺としての「近国」から「遠国」へという流れで「役夫」(丁匠)が徴発されたとみることができるでしょう。つまり「九州」地方からの「近国」としての徴発が最初にあり、その後「中つ国」として「瀬戸内周辺国」へと移り、最後に「遠国」である「近畿」の人々がその対象となったと思われますが、これは「八世紀」の新日本王権から見るとまさに「西方の民」がその対象となったという表現とイコールであることとなります。この意味からもこの「古記」の示す実態は『大宝令』制定以前の状況にマッチしているものであり、「古記」が書かれる時期の直前の「八世紀」の状況とは実態としては整合していないと見られるわけです。
これと同様「古記」の示す例が「七世紀代」のことと考えられるものとして「宮衛令開閇門条」に対する『令集解』の注釈があります。
「(令集解巻第廿四 宮衛 開閉門条)古記云。問。即諸衛府各按検所部及諸門。未知。諸衛府雑色。又所部者何家(処)。答。諸衛。謂五衛府主典以上也。所部。謂依別式。左右衛士府中門。并御垣廻及大蔵内蔵民部外司喪儀馬寮等。以衛士分配防守。以時検行。為有所部之人。謂之所部也。左右兵衛府内門諸門按検也。衛門府中門外門按検也。」
これについては通例は「平城宮」の諸門の警備の分担を示すものとされていますが、そもそも『大宝令』成立段階ではまだ「平城宮」はできていないわけですから、『大宝令』の条項として想定されている門が「平城宮」のそれであるはずがありません。その場合考えられるのは一見「藤原宮」と思われそうですが、発掘調査によれば「七〇三年」という段階においても「藤原宮」では「大極殿」も「回廊」も未完成であった可能性が指摘されており(註三)、そうであればこの記事中の「諸門」が「藤原宮」のものではない可能性が高くなりますが、そうするとそれ以前に「中門」等の門が存在していたのは「難波宮」ではなかったかと思われ、これもまた「難波宮」を視野に入れた条項であったらしいことが窺えることとなります。
「難波宮」は「朱鳥元年」に火災の記事があり、また「遺跡」からも「火災」の跡と思われる「焦土」(焼けた土)などが出土していますが、他方『続日本紀』にはそれ以降も複数の「難波宮」への行幸記事があり、また上に見た『続日本紀』の「神亀三年記事」の中にも「難波宮官人」という表現があるように「難波宮」には常時官人が詰めていたようであり、少なくとも「七世紀末」という段階においても「難波宮」がその全部ではなくとも主要な部分について使用可能な状態であったらしい事が示唆されています。発掘からもいわゆる「東方官衙」地域には火災の跡がないとされ、これについてはそれ以降も使用可能であったらしいことが推定されています。さらに『日本帝皇年代記』では「平城京の前のキは「難波京」」という意味の事が記されています。
「庚戊三〈三月不比等興福寺建立、丈六釋迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良〉」(『日本帝皇年代記』(上)より)
この記事は現行『書紀』にある「六八六年」(朱鳥元年)のこととして書かれている「難波宮殿」の「焼亡記事」と明らかに「矛盾」するものですから、『書紀』の「火災記事」に対する「疑いの念」を起こさせるものです。
ただし「難波宮」については『書紀』では「天武紀」と「孝徳紀」に記事があり、さらに「伊勢王」という人物も同様に両方の時代に登場します。更にこの人物は「斉明紀」と「天智紀」の双方に「死亡記事」があり、いずれの「死亡記事」が正しいかは判然とはしないものの、その「死亡した」とされる人物が登場する「天武紀」記事の方に多く疑いがあるのは当然です。
これについては「本朝と天朝」という拙論(※)の中でも触れましたが、「天武」の死を知らせる喪使として新羅に赴いた「田中法麻呂」の応答使(弔使)として「新羅」から派遣された「金道那」という人物に対し「土師宿禰根麻呂」が「勅」を「奉宣」する場面があります。その文言の中に印象的な事が書かれています。
「(持統)三年(六八九年)夏四月癸未朔壬寅(二十日)条」「新羅遣級餐金道那等奉弔瀛眞人天皇喪。并上送學問僧明聡。觀智等。別獻金銅阿彌陀像。金銅觀世音菩薩像。大勢至菩薩像。各一躯。綵帛錦綾。」
「同年五月癸丑朔甲戌(二十二日)条」「命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級餐金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。翳餐金春秋奉勅。…」
つまり「金道那等」に対する抗議の「勅」において「在昔難波宮治天下天皇」の「崩御」に際して「巨勢稲持」が「喪之日」を知らせる為に「新羅」に行った際、「金春秋」が「奉勅」したと書かれているのです。この「勅」の内容は重要であり、「天武」とは違う人物がすでに「在昔」に「難波宮治天下天皇」の地位にいたというわけであり、それは「金春秋」がまだ「新羅国王」となっていなかった「翳餐」という官人であった時期であるというわけですから、明らかに『孝徳朝』あるいはそれ以前のことと思われ、「天武」の時代ではないことが推定できます。このことはこの『令集解』でいう「古記」がいう「難波宮」が「前期難波宮」であり、七世紀半ば付近で「近畿」(「難波」)の地に作られたものと推定することが可能となることを示します。
この『令集解』が引用する「古記」の例はかなり多数に上りますが、そのなかには確かに「今」というような、「古記」が書かれた時点における実際の例を挙げて言及している例もあります。
【僧尼令05非在寺院条219】
凡僧尼。非在寺院。別立道場。聚衆教化。
謂。道場教化相須還俗。若雖立道場。而不教化者。須科違令毀去道場也。釈云。院垣院也。音王眷反。師説云。雖是聚衆教化。而非妄説罪福者。不須還俗。唯科違令。毀折道場耳。或云。道場謂修道之場也。穴云。雖立道場。不教化者。科私畜財物違令也。古記云。別立道場。聚衆教化。謂行嘉(行基)大徳行事之類是。
これを見ると引用の中に「行基」の名が出ています。「行基」の活躍時期はまさしく「古記」の書かれた時代です。
また以下のケースでは「郡」表記が出ています。
国郡官司。知而不禁止者。依律科罪。
謂。不禁止者。犯上三事。已過之後。知而不糺。若知其始犯而不禁止者。依律合与同罪也。依律科罪者。科違令罪。但殴撃長宿。以至徒以上。而知不糺者。科知所部有犯法。而不挙劾之罪也。釈云。案。上三事不禁止者。依律科違令。并知所部有犯法。而不挙劾之罪耳。一云。国郡司知而不禁止者。謂別立道場所属国郡司是也。并字以下不預国郡者非也。古記云。国郡司知而不禁止者。謂別立道場所属国郡司是。并字以下不預国郡也。
「七世紀代」は「評」の時代であったわけですが、それが一掃されたのが『大宝令』からと考えられるわけです。その意味で「古記」に引用されている中に「評」は見られなくて当然ともいえますが、他方「古記」が「七世紀代」を想定していたとしても、『書紀』と同様「評」が隠蔽されたであろうと思われ、「郡」表記があるとしても当然といえるでしょう。
また以下のケースでは「今」という表記がされ、「古記」の書かれた時代であることが明示されています。
【僧尼令02卜相吉凶条214】
「療病者皆還俗。其依仏法持呪救疾。不在禁限。
古記云。持呪謂経之呪也。道術符禁。謂道士法也。『今辛国連行是。』湯薬。謂万種丸薬散湯薬湯薬皆是。又合診候。唯針灸不合。」
ただし以下の例では僧尼に対して禁じられている「焚身」の中身について「謂灯指焼尽身也。」というように「指」に火をつけて燃やし「灯り」とする意とされていますが、これは種々の仏教関係の伝承中に「近江御宇天皇」の所業として書かれているものと同じです。つまり「古記」はそれを念頭に入れて「注釈」を入れていると思われるわけであり、これも「七世紀」のことをその記述の対象としているといえるでしょう。
【僧尼令27焚身捨身条254】
凡僧尼。不得焚身捨身。
釈云。焚身。傷体也。捨身。滅命也。焚音符分反。古記云。道。謂出家也。俗。謂在家也。焚身。謂灯指焼尽身也。捨身。謂剥身皮写経。并称畜生布施。而自尽山野也。
『元亨釈書巻二十一』「天智皇帝の段」
「七年正月初三。帝即位。曷為緩。考也。帝創建福寺于志賀都。當平基趾得寶鐸。長五尺五寸。又得白石。長五寸。夜有光。帝喜奇瑞斬左手無名指。納殿前燈幢石壇中。…」
『扶桑略記』「天智天皇の段」
「七年戊辰正月十七日。於近江國志賀郡。建崇福寺。始令平地。掘出奇異寶鐸一口。高五尺五寸。又掘出奇好白石。長五寸。夜放光明。天皇殺左手無名指。納燈爐下唐石臼内。奉為二恩。…(已上同寺縁起より)」
上に見るように『扶桑略記』『元享釈書』など仏教関係の書に「天智天皇」が「左手無名指」を切り落としたという記事があります。さらに「今昔物語集』や『三宝絵』などには「指」を燃やして灯明としたという記事があります。
「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じやうろく)ノ弥勒(みろく)ノ像ヲ安置シ奉ル。
供養ノ日ニ成(なり)テ、灯盧殿(とうろでん)ヲ起(た)テ、王自(みづか)ラ右ノ名無シ指(および)ヲ以テ御灯明ヲ挑(かかげ)給テ、其ノ指ヲ本(もと)ヨリ切テ石ノ筥(はこ)ニ入(いれ)テ、灯楼(とうろう)ノ土ノ下ニ埋(うづ)ミ給ヒツ。」「『今昔物語』巻十一 天智天皇、建志賀寺語第二十九」
「…天智天皇、寺をつくらむの御願あり。此の時に王城は近江の国大津の宮にあり。寺所を祈りてねがひ給へる夜の御夢に、法師来りて申さく、「乾(いぬい)の方(北西)にすぐれたる所あり。とく出でてみ給へ」と。…
あくる戊辰の年(六六八年)の正月に、はじめてつくらしめ給ふ。土ひきて山を平ぐるに、宝鐸を堀り出でたり。また白き石あり。夜光をはなつ。
御門いよいよつつしみたうとび給ひて、堂をつくり、仏をあらはし給ひつ。御門、左の方の無名指をきりて石のはこに入れて、とうろうの土のしたにうづみをき給ふ。
これ、て(掌)に灯火を捧げて、弥勒に奉り給ふ志を表はし給へるなり。『志賀の縁起』にみへたり。」(『三宝絵』下巻「僧宝の十」)(※)
これらのようにその対象の真の時期としていくつか明証があるとともに、僅かな点から推測可能なものがあったりしますが、それらがないものも多くのものは原則として「八世紀」に特定の対象を想定していないというべきでしょう。
また引用された『古記』をみると「西方の民」だけが「番匠」の対象となっているように見えます。それは「技術」の点で「西方の民」つまり「九州」を中心とした「西国」が先進的であったことの反映であることを意味し、「寺院」を初めとする「木造建築」に関する総合的な文化が「西日本」を中心に花開いていたことを示すと思われます。しかし同時に用語として使用されている「配処」とは通常「犯罪を犯した人が流される(配流)場所」を示すものであり、これはこの「番匠」という制度そのものが本来「刑罰」の一種であった事を示唆するものであり、「西方の民」がこの時の「新日本王権」に対して異議を唱え反抗し屈服させられたことを示すものではないかと推量されます。
『獄令』によれば「徒罪」や「流罪」の場合いわゆる「強制労働」が課されており、その内容は本来は「近畿」のものは「京師」で「役」に従事し、諸国は「国内」で「役」に従事すると定められていましたが、この「丁匠」の場合「配処」という用語が使用されているところから判断して元々「流罪」に対する「配流」の地を意味するものであり、この条文中ではそのような人々を集めて「番匠」としたと解されます。
獄令18犯徒応配居役者条 凡犯徒応配居役者。畿内送京師在外供当処官役其犯流応住居作者。亦准此。婦人配縫作及舂
この事は「難波宮」が「強制労働」の産物として造られたことを意味しているといえますが、他方この「難波宮」造営時にすでに「律令」(大宝令)が存在していたことを推定させるものであり、それは『続日本紀』の記事には年次移動があるとする当方の立場を補強するものです。
(※)「九八四年」に「源為憲」が著した仏教に材をとった書
(この項の作成日 2017/06/10、最終更新 2017/06/15)