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漢音と呉音(二)


 そもそも「前漢」の「武帝」時代に、半島に「帯方郡」を設置して以来、「倭国」でも多くの「国」が「建国」されたと考えられ、それらの中には「邪馬壹国」のように「中国」と深い関係を築き、各種の制度を導入したと考えられる国もありました。
 その後「西晋」が「匈奴」(鮮卑族)により滅亡し、揚子江以南に移動して「南朝」を創始した際にも「倭国王権」はその「南朝」政権と交流を継続しています。
 このとき「臣事」することとなった理由の一つとして、「東晋」の王朝の言語(発音)が「魏晋朝」と変わらなかったこともあるのではないかと考えられます。
 「東晋」建国当時「王族」「貴族」はもちろん、一般民衆(漢民族中心)も大量に「江南」後に流入していました。「華北」には異民族が次々と流入し、混乱が長期間続いていたからであり、先祖以来の地を捨てて移住する人々が絶え間なかったものなのです。それは「王族」である「司馬睿」が「皇帝」として「晋朝廷」を守り続けていると言うことが彼らの「希望」の灯火でもあったと思われます。そのような「南朝」ですから、「王権」とそれを支える「漢人」達の「言語」も以前のままであったと考えられ、(本来の江南人との割合はほぼ半々であったとされています)これらのことから「東晋王朝」の「公的」な発音は「魏晋朝」と変わらず、共通であったと考えられ、このため、「倭国」ではこれを「皇帝の国の発音」であると認識したものであり、「西晋王朝」の継続と見なしたということがあるのかもしれません。もし「南朝」の言葉が「魏晋朝」とは違って、以前の「呉」と同じ「発音」であったなら、「倭国」としては「臣事」する事はなかったのではないでしょうか。

 「倭国」は、以前「魏晋朝」と同じ「大義」に生きていたものであり、「呉」に対しては「魏晋」の立場と同様「正統な王権」とは認めていなかったものと思われます。しかもその「呉」は(推定によれば)「倭国」中央政権であった「邪馬壹国」に対抗していた「狗奴国」を背後で支援していたものであり、「南朝」がそのような国の「発音」を継承していたとすると、「倭国」にはすぐ「区別」がついたであろうと考えられます。
 また、このように考えると「隋」に対して「柵封」されることがなかった理由のひとつも、同様に「発音」の違いであったとも考えられます。「隋」は「唐」と同じ民族であり、その発音は「中国北方音」としての「漢音」系統の発音であったと考えられますから、「倭国」としてはそれまで「臣事」してきていた「漢魏晋」あるいはそれ以降の「南朝」との「発音」の違いを確認し、それまで自分たちが慣れ親しんだ「皇帝の国の発音」とは違う、としてこれに対し反発心を持ったものではないでしょうか。このことが彼らをして「天子の対等性」「天子の多元性」主張という「過激」な政策を選ばせる動機の一部を形成したと思われます。(ただし「遣隋使」などを派遣しているのは臣事はしないものの制度等を導入するために「利用」したとも考えられます)
 このように、「南朝」に臣事することとなり、また「北朝」を拒否することとなった理由のひとつとして「発音」があったと考えられるわけですが、その「南朝」の「発音」は後に「玄宗皇帝」の時代になると「呉音」と「蔑視」された発音となったわけであり、それは現在私たちが「呉音」と呼称している「日本呉音」に「非常に近い」とされているわけですから、「日本呉音」は「魏晋音」に近いと考えるべきこととなるでしょう。
 
 そもそも「魏」「晋」(西晋)が「漢民族」の国家であるのは論を待たないと思いますが、「隋」「唐」が「北魏」から続く「鮮卑族」など北方系民族による国家であることもまた確かであると思われます。つまり、これらの国家は「民族」が異なるわけです。
 「北魏」以降の「北朝」は「漢民族」との「融和」を掲げながらも、その言語を捨てなかったと考えられます。特に「西魏」「北周」王朝では「復古政策」が行われ、「漢語」を捨てて「鮮卑語」に戻っていたことが明らかであり、それはその時代に人生の過半を過ごした「隋」の「文帝」などに影響を与えています。(「隋」の「文帝」(高祖)の言葉として「書き言葉」としての「漢語」がよく分からない、という意味のことを云っているのが『隋書』に出てきます。)
(以下該当部分)
「建緒與高祖有舊,及為丞相,加位開府,拜息州刺史,將之官,時高祖陰有禪代之計,因謂建緒曰 且躊躇,當共取富貴。建緒自以周之大夫,因義形於色曰 明公此旨,非僕所聞。高祖不ス。建緒遂行。開皇初來朝,上謂之曰 卿亦悔不 建緒稽首曰 臣位非徐廣,情類楊彪。上笑曰 朕雖「不解書語」,亦知卿此言不遜也。?始、洪二州刺史,?有能名。」(『隋書/列伝第三十一/栄? 兄建緒』より)
  ここに書かれた「不解書語」という文章の意味は「文章」としての「漢語」に対する「理解力」がないということを表わしていると思われ、たとえば『隋書経籍志』の序にも「…属以高租少文…」とあり、これは『隋書経籍志』の訳注を試みた「興膳宏」「川合康三」両氏によれば「無教養」の意とされています。
 また「北魂」の「崔鴻」という人物は『十六国春秋』の撰述をするにあたり必要な書籍が「南朝」に所在するものであったためなかなか入手することができなかったとされます。
「鴻乃撰為十六國春秋,勒成百卷,因其舊記,時有搗ケ褒貶焉。鴻二世仕江左,故不?僭晉、劉、蕭之書。」(『魏書/列傳卷六十七/崔光 子勵 弟敬友 敬友子鴻』より)
 他にも「南朝」との間に行われていた相互遣使の役柄の人物が大量に書籍を入手してそれを「私蔵」していたという記録もあり、「北朝」の側からは「南朝」の「漢語」で書かれた書籍と接する機会が潤沢にはなかったという可能性がありそうです。
 このような経緯を考えると「漢語」を自由に(「漢民族」と同様のレベルで)操れたというわけでもなさそうであり、当然それは発音にも現われたであろうと思われるわけです。つまり「隋」「唐」の漢字発音にも彼らの民族特有の言語の要素や影響が強く出ていると考えられ、この彼らの漢字発音を称して「漢音」と称するわけですが、当然これは「漢民族」であった「魏」「晋」とは異なっていると考えざるをえません。
 「魏」「晋」における「漢字」の発音を「漢音」(この場合「日本漢音」とも等しい)と同じであるというような考え方が成立するには、このように民族と時代が異なっているにも関わらず、発音は同一ないしは同系統である事を補強する別の「証拠」ないし「資料」が必須なのではないでしょうか。

 ただし、内倉氏が言うように「呉の太白」の末裔と称していた「倭人」が接していた漢語についての発音が「呉」地域と関連したものであったという可能性は高いでしょう。それを証するように「呉音」は日本の生活習慣に深く結びついている単語が現在も非常に数多く残っています。たとえば日付です。「月」を「がつ」、「日」を「にち」と呼ぶのは「呉音」です。(「漢音」では「げつ」「じつ」です。)また家族関係を表す単語にもあります。たとえば「長男」を「ちょうなん」と呼び、「兄弟」を「きょうだい」と呼ぶなどの例があります。(いずれも漢音では「ちょうだん」「けいてい」です)
 このことは「漢音」が導入される相当以前から「呉音」というものが日本人の生活に深く取り入れられ、日本の文化の一部になっていたことを示しているものと考えられます。
 ただしそれは「漢魏晋」の発音の性質を拘束するものではなく、「漢音」が「漢魏晋音」とは異なる事が確かであるとしても、ただちに「呉音」と同じであったとはいえないものです。しかし「南朝」の発音を「皇帝の国の発音」と考えていたと言う事から見ると、「漢魏晋」についても「呉音」に類するものであったと見るのが相当と思われるわけです。
 
 その後倭国から「新・日本国」への行政府交替により方針転換が行われ、八世紀に入ってすぐに遣唐使を派遣しています。彼らは当時の唐のキ(古都「洛陽」)より数々の資料等を持ち帰っています。そして、それらの資料によりいろいろな制度等が作られました。たとえば長安の条里制が平城京に強い影響を与えていたりしています。漢字の発音は当然「漢音」です。これらの資料を駆使して書かれた史書が『日本書紀』です。(成立は七二〇年)この本は純粋な漢文で書かれ、「漢音」で読まれることを前提にして書かれています。
 この本を始め、これ以降に書かれた史書はすべて貴族等の必須の教養とされ無条件に「漢音」を唯一正当の漢字発音として意識させられ覚えこまされました。そして「唐」王朝が政治的イデオロギ−により、「声高」に自己の王朝の正当性を主張し、「南朝」の漢字発音を称して「呉音」とレッテルをはり、自分たち(唐の都長安)の発音を「漢音」と称していることを知ると、「新・日本国」王権(大和朝廷)は、口真似のように同様の主張をし始め、南朝を指して「呉国」と呼ぶなど(『書紀』に「呉国奉貢朝賀す」などの記事がありますが、これは「南朝」を指して言っている記事です)、唐王朝の主張に「過激」に追随していくことになるのです。そして国内には「呉音」禁止令を何度となく出し 、「漢音」を正当な漢字発音として押し進めていったのです。
 この間の動きには、「唐」には自らの正当性を「声高」に主張しなければならぬ必然性があったわけであり、裏を返せばそれだけ実質的な正当性に欠ける状況であって(漢民族ではないのです…「鮮卑」族か)、だからこそ政権を安定に維持していくためには、当時の状況では「大義名分」というものが是非とも必要であった、と言う事でしょう。彼らには漢民族、漢文化に対する畏敬のようなものがあり、それが旧南朝の権威に結びついて復活するような事態を恐れたのでしょう。
 この「唐」の主張とまるで歩調を合わせるかのように大和朝廷も「声高」に自己の正当性を主張するようになるのです。あたかも自らも大義名分に欠けるかとでも言うようであり、「唐」王朝が「南朝」の復活を恐れたように、彼らは「九州倭国王朝」の復活を恐れたのです。


(この項の作成日 1999/12/20、最終更新 2015/11/28)