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コラム「ささらえおとこ」について


 万葉集の第六巻に「ささらえおとこ」という言葉が出てくる歌があります。(「九八三番歌」)
(原文)
「山葉、左佐良榎壮子、天原、門度光、見良久之好藻」
(読み下し)
「やまのはの ささらえをとこ あまのはら とわたるひかり みらくしよしも」

 この作者は「大伴坂上郎女(さかのうえのいつらめ)」です。この歌は通釈としては「山に上った月が、空を渡ってゆく光を見るのは素敵なことです。」とされているようです。
 この「ささらえおとこ」については「月」を意味するものであり、中でも「三日月」のように「細い」月を言うとされています。そのあたりは「勝俣隆氏」の研究(『「ささらの小野」考:万葉集巻三・四二〇番歌を中心に』二〇〇一年長崎大学教育学部紀要)で詳しく検討されており、「月」を表す「擬人的用法」であることが確認されています。
 この「語幹」である「ささら」という言葉は「ささ」という語幹が「とても小さい」という意を持つ語であり、「大中小『ささ』」という順列であるとされます。

 ところで、この「坂上郎女」の歌に現れる「細い月」が「上弦」なのか「下弦」なのかは実は定かではないと思われます。しかし「下弦」であるとすると「夜半過ぎ」以降でなければ見ることができず、余り現実的、一般的ではないと思われるのに対して、日没直後に「南から西」の空に低くかかっているのが容易に見て取れる「上弦」の月は人々のよく知れるところであったと思われます。
 また「ささら」という表現が「細い」という意を表すとすると、明らかに「半月」より手前の月を指す名称ではないかと考えられることとなります。
 またこの歌の中では「山の葉」という表現がされており、これは「山の端」つまり「稜線」を指す言葉であると思われますから、かなり地平線に近いことが推定されますが、これが「昇ったもの」なのか、「沈みかかっている」のかというと、上の考察から「上弦」の月であるとすると、日没した時点で既にそのぐらい低い位置にあるのが普通ですから、描写としては不自然ではありません。
 しかし、この「ささら」が「上弦」の月ないしはそれより「細い」月齢であるとすると、日没後まもなく(一〜二時間)すると地平線下に没してしまうものであり、「天原、門度光」つまり「天空を光が渡っていく」という形容にはほど遠いと考えられます。
 また、上の想定とは逆に「下弦」の月であったとしても、地平線つまり「山の端」から出てくるのが夜半過ぎとなるという難点があると共に、「ささら」という形容にふさわしく三日月程度であったとすると、中天高くかかる頃には既に太陽が昇ってしまっていることとなり、同様に「天空を光が渡っていく」という形容にはそぐわないと考えられます。
 もちろん「満月」近くの月齢であれば「中天高く」光ることは可能ですが、そうであるとすると「ささら」という形容と満月の形が全く相容れません。
 つまり、「ささら」という形容からは「細い」月であることが推定され、そうである場合は、この歌の通常の理解と「ずれ」が生じることとなります。このことから、この歌については通常の理解には「無理」があることとなり、「月が空を渡ってゆくその光を見るのは素敵なこと」という解釈は否定されざるを得ないこととなります。

 ここで使用されている「見らく」は「見ること」を意味し、「し」は強意の「し」であると思われ、また「よしも」の「も」は「詠嘆」の序詞であるようです。この事から「見ることは(なんて)すてきなことだなあ」となるわけですが、実際には「見られない」というところに問題があるわけです。
 これらのことから、この場合「歌」の解釈は「山の端」にいる「ささらえおとこ」が(もし)「天原」にいたら「光」が「渡って」行く光景が素敵なのに、という仮定法として理解すべきではないかということを示していると思われます。
 この場合の「ささらえおとこ」はある人物を念頭に置いた「比喩」であると思われます。「月」という表現をしていないのは読む人をして「擬人化」を容易にするためであると思われます。
 ここでは「細い月」であるにも関わらず、「三日月」などという表現を使用していないわけですが、「三日月」は以下の例でも分かるように「眉」などについての比喩表現として使用される場合が多く、あくまでも「事物」に対する「比喩」として使用されています。

「月立ちてただ三日月の眉根まよね掻き日け長く恋ひし君に逢へるかも」
(万葉集 巻六 九九三番歌 大伴坂上郎女)

「ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引まよびき思ほゆるかも」
(万葉集 巻六 九九四番歌 大伴家持)

 この「ささらえおとこ」の場合は「えおとこ」という、「人物」であることを想起しやすい表現が使用されており、「擬人化」の為の表現であることが知られます。
 国産み神話においても「イザナミ」が「イザナギ」に向けて言う「えおとこ」という表現を想起させるものであり、このことからその対象人物が「坂上郎女」にとってかなり近しい人物であるらしいことが推定できます。
 そして、この場合該当するのは「異母兄」である「大伴旅人」のことと考えられます。
 
 「大伴坂上郎女」は、「穂積親王」などと複数回の結婚をした後、大宰府にいた「大伴旅人」のもとに赴いたとされています。
 「大伴旅人」は父である「大伴安麻呂」が「左大臣」であった時代以降「藤原氏」の台頭によって相対的に凋落し始め、当時は「大宰府」の「帥」として派遣されていました。
 この「大宰府」の「帥」の仕事は、この時期「九州倭国王朝」との関連で、重要で欠かせないものであったことは間違いものの、やはり実際としては「左遷」に近いものがあったと見られます。
 「大伴旅人」は、最終官位が「大納言従二位」であり、かなりの高位であったものであり、また、「養老四年」には「征隼人持節大将軍」に任ぜられ、功績を挙げるなどそれなりの働きをしたものの、その晩年に「大宰府帥」として任命され、体よく中央から追い払われた形となっていました。
 この「ささらえおとこ」は「大宰府長官」として「筑紫」にいた「旅人」に対する形容と思われ、「旅人」が「政界」の中央にいたらその存在が光り輝くのに(それを見ることができたら素敵なのに)という「無念」と「願望」の気持ちを詠ったものではないでしょうか。

 「大伴一族」には「聖武天皇」の「詔」にも、それを引用した「家持」の「陸奥出金詔歌」の中の「海ゆかば」にも見られるように、「天皇」に近侍し続けてきた矜持(自負)があったと見られ、「あれをおきて人はあらじ」という「誇り」を持ち続けていたと思われる家訓があったとされます。
 「旅人」の子である「家持」は、「族を喩す歌」(四四六五番歌)の中でも「…空言も 祖の名絶つな大伴の氏と名に負へるますらをの伴」といい、またその反歌でも「磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ剣大刀いよよ磨ぐべしいにしへゆさやけく負ひて来にしその名ぞ」というように、常に「親衛隊」としての「大伴氏」の立場を思い起こさせ、強調する気持ちを前面に出す歌を作っています。しかし、この「四四六五番歌」は、左注によると、大伴一族の人物であり、当時「出雲守」であった「大伴古手斐」が、「淡海三船」の讒言によって解任された事件によって生れたとされます。
 つまり、繰り広げられる政争の中で翻弄され、古代からの名跡も弱小化の一途をたどっていたと言うのが実情であったと思われるのです。
 しかも「旅人」は、大宰帥として着任したその年(神亀五年)に妻である「大伴郎女」を亡くしています。そのため、「異母妹」である「坂上郎女」が「筑紫」へ赴いたものであり、(そこで「旅人」の子供である「家持」、「書持」を養育したといわれているようです)「旅人」を支えることとなったと考えられます。

 「坂上郎女」は一族の「氏上」である「旅人」を支えようとしていたと見られ、「小野寺静子氏」がいうように(※)「大伴郎女」の亡くなった後は彼女が「大伴宗家」の「家刀自」(族長的女性)として存在していたと見ることができると思われます。それを示すのが「祭神歌」です。
 この「祭神歌」は「万葉集巻三」に現れるものですが、実質これが『万葉集』における「坂上郎女」の初出となっているものです。それは「大伴一族」の「氏神」に供える歌であるとされますが(この歌の左注に「右の歌は、天平五年冬十一月を以ちて、大伴の氏の神に供へ祭る時、いささかこの歌を作る、故に神を祭る歌といふ。」とされています)、そのような例は他に見られないものであり、「家刀自」としての存在と関連していると考えられます。
 その「祭神歌」の末尾には「…かくだにも我れは祈ひなむ 君に逢はじかも」(三七九番歌)とあり、またその反歌(三八〇番歌)には「木綿畳手に取り持ちてかくだにも我れは祈ひなむ君に逢はじかも」とも歌われていますが、その「君」とはこれが歌われた年次から考えて、その二年余り前に亡くなった異母兄である「大伴旅人」とする説が有力であり(「坂上郎女祭神歌」桜井満『万葉集を学ぶ」第三集所収)、新しく「氏神」となった「旅人」に対する「畏敬」の念が現れているのではないかと考えられます。
 このように考えると「ささらえおとこ」の歌も「旅人」のことを念頭に置いて歌ったものと考えるのは不自然ではないと思われます。

 また、このことは「筑紫」という地と「山の端」そして、「ささら」という「名詞」が関連して結合しているのが注目されることとなります。つまり、「筑紫」が「月」になぞらえられていると思われるのです。
 「イザナギ・イザナギ」の国産み神話では「天照大神」「月読命」「素戔嗚尊」(最初に「蛭子」が生まれ、流される)が生まれています。 この中の「月読命」は「万葉」では「月読壮夫」と形容される例があり、「男性神」であることが明確になっています。

「天迩座 月読壮士 幣者将為 今夜乃長者 五百夜継許増」
(巻六 九八五番歌)

「三空往 月読壮士 夕不去 目庭雖見 因縁毛無」
(巻七 一三七一番歌)

 いずれも月の「擬人的用法」であるのは確実です。
 このことと「さららえおとこ」という表現は重なると思われますが、その「ささらえおとこ」と「筑紫」がつながるというのは、「月読壮夫」つまり「月読命」が「筑紫」と関連していることを示すとも思われます。
 「月読」とは「月齢」を数えることであり、「日付」つまり「暦」を預かる立場であったことを示すと同時に、「にきたつ」の歌でも示されるように「航海術」にも不可欠のものであったと思われます。
 「潮の満ち干」は「月の引力」によって起こるものですから、月の位置を知ることは即座に「潮」の状態を知ることでした。つまり「月読」という事は即座に「海人族」につながっているものであり、古代の海人族はほとんど全て「筑紫」とその周辺の氏族であったことを考えると、「ささらえおとこ」と「筑紫」が関連しているのは当然ともいえるものです。
 そして「大伴旅人」が「ささらえおとこ」として形容されているということは、「大伴」という氏族が「筑紫」に深く関係していることを示唆するものであり、「月読命」に引き続く氏族である可能性が示唆されるものです。長野県佐久市に存在する「大伴神社」の祭神が「月読命」であるのも示唆的でしょう。

 「大伴氏」の租神は「天忍日命」とされていますが、この人物は『古語拾遺』(「忌部廣成」撰)では、「高皇産霊神」の娘である「栲幡千千姫」の子にあたり、「瓊瓊杵尊」と同母兄弟とされていますから、本来「王権」に非常に近い氏族であることが判ります。そもそも「月読命」は「アマテラス」「スサノオ」とともに一緒に生まれたとされており、「王権」そのものともいえるものです。