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『続日本紀』等の記事移動についての総括


 以上検討したように、従来『続日本紀』などにより「確定している」と考えられている各種の事象については、それが「六十年ほど」過去側に移動されているらしいことが強く推定されることとなりました。
 既に述べた「和同銭」についても、それが「七世紀半ば」の「日本国成立」の時点で製造された「貨幣」であり、新王朝誕生を祝したものと考えられることとなるでしょう。
 「藤原京」と「難波京」の関係についても、その前後関係は動かないものの、各々の都城完成時期については従来よりも約六十年遡上して考えなければならないこととなります。つまり「七世紀初め」に「難波宮殿」はできたものであり、「藤原宮」は「七世紀半ば」に当初は「倭国王権の「副都」として、後には「近畿王権」の「首都」として造られたものと言うことができるでしょう。

 また当初造られた『日本紀』(『書紀』の前身の史書)の最終は「高市天皇」死去後「皇后」が称制していた時点からの「譲位」のシーンであったと思われ、(それが『書紀』の最終部分に遺存していると思われる)それが「孝徳」ではなく「長屋王」へのものであったと言うことです。
 そしてこの時点で「日本国」が成立したのではないかと思われます。そうであれば「百済禰軍」の墓誌に「六六〇年」の戦いの時点で如何にも「日本」という国があるかのように書かれている理由も判明します。
 そもそも「百済禰軍」は「百済」の将軍であったものであり、彼等は「倭国」と連合して「等」「新羅」と戦っていた訳ですから、「百済禰軍」が「倭国」のことをよく知らないというようなことは考えにくいものです。彼はその後「倭国」へ交渉役として派遣されていますが、それは彼が「倭国」の内情に詳しい人物であったことを推察させるものであり、また「日本語」が話せたという可能性も考えられるものです。そうであれはその彼の「墓誌」に「日本」という呼称が現れるのは後年のもの(「墓碑」を書いた際のもの)と考えるより、当初から彼や彼の一族などにも熟知の呼称であったという可能性の方が高いと思料できるものです。
 
 『書紀』は本来『日本紀』として「七世紀半ば」に編纂されたものであり、『続日本紀』もその時点以降の時代のことを記した史書であったと考えられる訳ですが、その後それらが「六十年程度」の年次移動を施され、実際の記録を「隠蔽」することとなったわけです。そのような事を行なうに至った「理由」(動機)として最も考えられるのは「白村江の戦い」等の「百済」を巡る半島情勢の結果であったと思われます。(なお、遣唐使記録は対外資料との整合性を図る意味からその年次を変更せずに書かれていると思われます)
 これらの戦いは結局「百済」「高句麗」と共に連合して戦いに臨んだ「倭国」側の敗北であったものであり、その際には当時の「倭国王」である「薩夜麻」が補囚の身となると言う耐え難い屈辱を味わうこととなったものです。当然これらを消去したいと考えるであろうことは想像に難くなく、それを「大胆に」に実行したのが、『日本紀』と『続日本紀』の切れ目、言い換えると「倭国王権」と「日本国王権」の切り替りを六十年ほど後にずらすことであったと思われます。
 こうすることにより「敗北」したのは「倭国王権」であることとできますし、「補囚」となったのも「倭国王権」の「王」であると言うことになって、現王権に直接つながるものではないという粉飾が可能です。さらに「唐」との関係を良好なものにしたいという欲求がそれに重なったと思われます。
 「唐」と戦った王朝が自分達(の「先祖」)であるという事実に「フタ」をしたかったのではないでしょうか。そのような意向があったことが記事を大幅に移動し、書き換える動機となったものと考えられます。

 また注目すべき事は「中国側」の史書にもかなりの期間「倭国」及び「日本」との外交において「空白」が存在することです。この「空白」は意図的あるいは政治的な理由によるものではないかと考えられ、「日本」と「唐」との間である種の「折衝」が行なわれた結果、互いに「七世紀後半」を空白とするあるいは別記事で埋めるという「合意」が形成されていたのではないかと考えられます。(「古田史学の会」会員である「青木氏」も同意見をお持ちのようです)(※)

 「干支一巡」の移動は目立ちません。また全てが「干支一巡」ではないと考えられますが、その際「日付干支」が合うという条件が必要な場合でもそのような年次はやはり約六十年ほどで訪れます(繰り返す)から、それほど無理なく移動ができます。
 これらの移動を見破るには「絶対年代」との比較が必要です。「年号」(例えば「大寶」など)では、絶対年代たり得ないのはもちろんです。「史書」には「何とでも書ける」と言うことを思い浮かべなければなりません。
 「木簡」にも「干支」や年号」が書いてありますが、それも同様であり、それだけでは年代を確定させることはできません。あくまでも「年輪年代法」その他の「物理的」あるいは「理化学的」方法による必要があり、またそれらは他の資料と完全に分離されている必要があります。
 「瓦編年」や「土器」「須恵器」の編年は基本的に『書紀』との対応しか考えていませんから、『書紀』に合うように理解するという枠から一歩も出ていません。これらには全く期待することはできないと思われます。

 年輪年代法の成果はまだまだ一部しか出ていませんが、資料によっては「一〇〇年」ほど「ズレ」がある(過去側にズレる)ものがあることが指摘されています。主に「土器編年」との差に表れている訳ですが、その「遠因」として「土器編年」の一部の基準に『書紀』が反映していると言うこともあるのではないかと思われます。『書紀』の年代が実際より「未来側」に移動されているため、それと比較すると「一〇〇年」ほどというズレとなって現れているのかも知れません。

 この「年次移動」の「終端」はどうなっているか、どこなのかと言うこともほぼ確認できます。それは『聖武紀』の終わりであり、「七五二年」という年次が「つぎはぎ」部分であると思われます。
 『続日本紀』も当初『聖武紀』まではできていたという記録もあり、『日本紀』が造られた際に『聖武紀』までの『続日本紀』(約六十年間)も完成していたらしいことが窺えます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2013/08/06)